(まるで蛇の毒が回っていくようだ、と思った。)




「ごめんね」


 傷が目立つ黒いガラステーブルを挟んで、力無く項垂れる男の長い前髪を見つめていた。コップの中で揺れていた氷は溶け切ってしまい、それを受け止めた緑茶は薄まっているようだった。宙を泳いでいた煙草の煙は、気まずさに耐えかねて開けられた窓の隙間から逃げ出している。無言の部屋には家の近くを走る電車の音だけが響く。微塵も動かない晋助に向かって、もう一度「ごめんね」と言ってみたけれど、その細い腕から返事は無かった。


 一週間前の話をしよう。
 私は友人の付き合いで参加したコンパで、ひとりの男の人と出会った。その人は気持ち良いくらいに趣味の合う人で、出会って早々に意気投合し、これからも色々と話をしようということで連絡先を交換した。楽しい酒の席になりそうだなぁ、と友人の顔を見ると、友人も目当ての人と仲良くなれたようで、皆が笑顔だった。
 会は三時間ほどで無事に終わり、それで解散ということになった…のだが、先程連絡先を交換した彼に駅まで送ると腕を引かれて素直に従ったところ、気が付いたら薄暗いホテルの一室に立っていた。シャワーの水がタイルを打つ音が聞こえる。履いていたはずのブーツは床に寝そべっていて、肩に掛けていたはずのバッグは行儀良く椅子に座っている。腕時計をちらりと見たけれど終電は既に無くなっていたし、文字通り、同じベッドに「寝る」だけなら何も悪くはないという線引きが私なりにあった。しかし、バスルームから出てきた彼の甘えるような、しかし大人の熱っぽい瞳と真剣な面持ちを前にそれは脆くも崩れ去って、飲み込まれるように、しっかりと男女の関係を結んでしまったのだった。間違いではない。ベッドの端でくしゃくしゃになった下着が滑稽だったと、ひどく印象に残っているのだから。

 所謂、浮気、だ。覆水盆に返らず、とは言え、酔っていたこともある。一晩の過ちくらい、黙っていれば分からない。勿論、晋助に真実は伝えていない。

 では冒頭の謝罪は何かと聞かれたら、いきなりの別れに対する謝罪である。真実を伏せているのに別れる必要はあるのか。…大ありだ。私が晋助と別れなければいけない重大な理由が出来てしまったのだ。

 それはただひとつ、私がその浮気相手の男の人と付き合うことになったからである。

 晋助のことは今も愛しているけれど、他の男と関係を持ってしまった以上、両立なんて醜い真似をせずに、終わらせなければならない気がしたのだ。最低な終止符。いや、潮時だったのかもしれない。罪悪感や責任感は、まだ感じていない。「普通」の神経ではありえないことだろう。マンネリという日常が私をそうさせるのだろうか。ここまで私を突き動かすものが何なのか、はっきりと分からない。良い言い方をすればけじめであり、悪い言い方をすれば開き直り、なのだろう。


 ずるくてどうしようもない女だね私は。この謝罪に、発する言葉の何もかもに気持ちがこもっていないように捉えられてもおかしくないくらい、今の私は落ち着いていて、薄情だ。晋助、あんたと過ごした三年七ヶ月は濃すぎて思い出しても思い出してもキリがないくらい。そういえば昔もこんな感じで何度も別れ話をして、何度もやり直してきたね。あの頃の、一時の感情で別れを選ぼうとしていた若さが沸々と蘇って、目の前がぐにゃりと歪んだ。


「…晋助、」
「…お前が別れたいなら、もう止めねェ」


 やっと聞き取れる程の声でそう言った晋助はベランダに出て、小さく鼻を啜った。ガタン、電車が遠くへ消えていく。空は青く澄んでいて、無情だ。

 自分から切り出したくせに、あまりにも呆気ない幕切れに疑問すら覚えた。というのも、晋助がこんなにもあっさりと引き下がることは、今だかつて無かったのだ。



◇ ◆ ◇



 その日は約束をしていた。大通りのカフェで買ったばかりの本を読んでいると、横からするりと手が伸びてきて本を取り上げられた。驚きつつも顔を上げればそこには約束の相手が立っていた。彼は微笑みながら首を傾げて、栞を挟む。


「ドーモ。待った?」
「いいえ、さっき来たばっかり」


 隣に座ってメニューを開き、名前からして甘ったるそうな飲み物を注文する男は、坂田銀時。私の、新しい恋人だ。恋人として会うのは、今日が初めてになる。
 銀時は、私に長年付き合っていた恋人がいることを知らない。私との交わりは浮気であったことを知らない。ただ純粋に私を好いてくれて、私の傍に居ようとしてくれる。まだ付き合いが浅いのにここまで言い切って良いものかとは思うが、銀時の紅い瞳を見ていると、そう感じてならないのだ。

 晋助がいるのに銀時と付き合うことを決めたあの時から、心苦しさは無かった。冷たいシーツにくるまりながら告白を受けて、壊れ物に触れるかのような指先を首筋に感じていた時も、変わらず呼吸をしていた。晋助本人を前にしても冷静でいられたのは、薄い膜に被われて守られているかのような根拠のない変な自信があったから。私の心はどこかが壊れていて、おかしくなっているのではないかと、最近思う。


「…なァ、ちょっと真面目な話するけど、聞いてくれる?」
「うん」
「俺らのさ、始まりはあんな感じだったけど、…本気ですから」
「うん…分かってるよ銀時」
「一応確認っていうか…ま、堅苦しい話は程々にして…今日は楽しい所に連れてってやるからな。初デートだし」


 会計を終えて店を出ると、銀時はそっと私の右手を握った。当たり前だが、銀時の手は晋助と違う。冷たくてどこか雑な晋助とは正反対の、銀時の手。この大きな手は新しく私を守ってくれる人の手だというのに、妙な違和感を拭えないでいた。



◇ ◆ ◇



 ここに来るのも久しぶりな気がしたけれど、いざ数えてみると大した日数は経っていなかった。インターホンを鳴らせば出てくるのは見慣れた男と懐かしい匂い。玄関先に纏めていたビールの空き缶は全て無くなっていたが、脱ぎ捨てられた季節外れのビーチサンダルはあの日のまま、底がすり減って丸みを帯びている。


「…元気?」
「ぼちぼち」
「ちゃんと食べてる?」
「まァ、それなりに」
「すこし、痩せたみたいだけど」
「…そーかァ?」


 横顔が少し痩せたように見えたけれど、晋助は変わっていなかった。伸ばしっぱなしの髪も、煙草の銘柄も、ちょっとした仕草も。声のトーンも、趣味の悪いTシャツも、偉そうな態度も。それでも以前よりどこか優しくて、晋助の定位置である座椅子を、今日は私に譲ってくれたのだった。


「なに、優しいじゃん」
「あ?俺はいつでも優しいだろうがよ」


 晋助が笑う。別れたはずなのに、付き合っていた頃に戻ったような感覚だった。

 今日、晋助に会いに来たことに理由は無い。何となく連絡をして、何となく会っている。全て無意識だった。それは感情の入る隙間もないくらいに。晋助も晋助で私の呼び掛けを無視することなく、私を相手にしてくれている。何をしているのか、自分でも理解していない。ただ、私は今でも晋助を大事な人だと思っている。ただ、それだけ。それだけ、だ。


「バイトはどう?」
「相変わらず忙しいけどまァ順調…つーか、俺、ちゃんと就活しようと思ってんだ」
「そっかぁ、偉いじゃん。頑張ってね、応援してる」
「おう。…でよォ、もし、俺が正社員になったら、……」


 急に会話が途切れて、改めて晋助に視線を送ると、晋助は何とも形容し難い表情で私を見つめていた。何か言いたげで、でも何も言えないような。誰に対しても遠慮せずにものを言う晋助にはあるまじき行為に、私は驚きを隠せないでいた。長く一緒に居たというのに、晋助の、こんなにも複雑な表情を見るのは初めてだ。


「どした?」
「…」
「…しん、すけ、」


 正面にいた晋助は立ち上がり、私の隣に座ると、私の前髪を人差し指で優しく払った。ゆっくりと額を合わせて来て、骨っぽい手で髪を撫でる。あまりの心地よさに睫毛の先が震えるようだった。これは昔から、私たちの、喧嘩をした後の仲直りの儀式のようなものだった。
 ねぇ、私たちのしていることは、良いこと?悪いこと?これからしようとしていることは、…。こんな頭じゃ善悪の判断すら出来ないのに、唇を重ねてしまったら、もう止められない。柔らかな触れ合いから、どんどん激しさを増していく。背中にフローリングの冷たさを感じる頃には服は乱れきっていて、お互いの吐息ばかりが煩かった。視界の端に映ったのは置き忘れたままの倒れたマニキュアの瓶。そして縋るように私の名前を呼ぶ晋助に、ひどく欲情して、ひどく虚しくなった。



◇ ◆ ◇



 いつもは断っていた会社の飲み会に、珍しく参加することにした。大人にはどうしても飲みたい時がある。今がそれだ。上司のくだらない話や同僚の女の子の恋人自慢に適当に頷きながら、浴びるようにアルコールを流し込んだ。荒れている訳ではない。どうしても、飲みたかっただけなのだ。
 アルコールを飲むと、誰かに甘えたくなる。お開きになった後、ふらふらとした足取りで向かった先は自宅ではなく、銀時の家だった。


「はいよー」
「ただいまぁ」
「あーあー、酔ってんなァ」
「今日はね、飲みたい気分だったの、分かるでしょ?」
「おーたまにはいいけどよ。もう遅いし、今日はウチに泊まる方向で良い?」
「んん、そうする…」


 どっと疲れて玄関でへたり込んでいると、銀時が後ろからパンプスを脱がせてくれた。銀時は面倒見が良い。文句を言わない。私を大事にしてくれる。隣で笑っていてくれる。私は、そんな銀時を愛している。


「明日は一緒に出勤だな。風呂は朝だろ?化粧は今落とせよ」
「…ねぇ、銀時」
「なに?」
「酔ってるから、変なこと言うね。あのさ、人間は誰しも嘘をついて、偽って生きてるもんだよね」
「んー…確かに、何かを守るためには嘘偽りってのは必要だからな。でも、お前はさ、誠実で嘘なんかつけねー人間だって。だから周りともぶつかるし、傷付く。ほんと、真っ直ぐな人間だよ。俺はそう思うけどなァ」


 ほら酔っ払い、水あるからこっち来い。先に部屋に戻った銀時が私を呼ぶ。その声すら遠く、遠く聞こえた。何気なく零した呟きに対する返答に、心臓を鷲掴みにされたように胸が痛んだのだ。私はただ只管に日々を駆け抜けてきた。無駄な感情に捕らわれることなく生きてきたというのに。私はあの日、新しい手を選んだ。それなのに未だに晋助と連絡を取り合って体の関係を続けていて、図々しくも銀時を愛している。晋助は何も知らない。銀時だって、何も知らない、はずなんだ。結局は両方の手を離さない選択肢を取った。それでも全てがうまく行っているはずなのに、それが、何を今さら、胸が痛むだなんて馬鹿みたい。私の、嘘で塗り固められた心は毒に侵されていて、じわじわと感覚を失っているというのに。


 私は、自分自身の問題すらどこか他人事のようにぼんやりと眺めている。事実を前にして、その場しのぎの取り繕いに疲れ果てる私を、考えもなく流されていく私を、ずっと眺めている。
 私は自分の幸せを台無しにした。しかし決して不幸な訳ではない。ただ、二度とは拭えない泥を塗っただけ。…でも、目の前の愛する人との間で起きている物事は立派な幸福…なんて、ね。正当化するつもりは無い。言い訳がましい言葉も無い。ただ、ぼやけた脳味噌で思うことは、明日会社に行きたくないな、と、それっぽっちのことだけだった。



月に蛇(2012/03/25)
title by daikirai

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