代わり映えしない毎日に疑問を感じながら生きる、どこにでも居るようなオーエルの私が、ひとつだけ大事にしているものを紹介しよう。帰宅ラッシュの電車を降りたら駅前のコンビニに寄って、そこから徒歩十分。藍色の扉を開けて、履き慣れたパンプスを脱いだ先、部屋の隅っこに敷かれた布団の上に胡坐を掻いてテレビの画面を眺めている……


「退ちゃんただいまー」
「ちょ、わ、おかえり、って重い…」
「今日も疲れたよ…」


 跳び付くようにじゃれるも、大して面白くないバラエティを見るのを止めないこの人物こそ、私が世界の何よりも誰よりも大事にしている男の子。でも、あまり邪魔をすると嫌な顔をされるから、いつも通り彼を後ろから抱き締める形に納まる。退の首筋に鼻の頭を当てて頬に触れる黒髪の感触を楽しんでいたら、「まだお風呂入ってないからやめて」と女の子みたいなことを言い出すから笑ってしまう。退からは退の匂いがする。それは不快どころかとても心地良いのに。退はなんて可愛い男の子なんだろう。時々憎らしいけれどそれは愛おしくて、癒される。気分が良くなってきたので枕元に放り投げておいたビニール袋から買ったばかりの缶ビールを取り出して口を開けると、炭酸の抜ける音につられてか退が反応を示す。


「それなに?喉渇いた」
「飲ませてあげるから、ほらほら」


 脚の間に挟まって大人しくしている退の薄い唇に缶の飲み口を宛がって、ゆっくりと中身を注いであげると喉仏がこくりと動く。これが何か分かっていないのに素直に飲み込む退に胸のときめきを感じていたら、彼は眉間に皺を寄せて小さく唸った。


「うわ、なんだよビールじゃんこれ」
「疲れた時にはこれだよ少年」
「あー…俺弱いのに…」
「こんな一口ちょっとで何言ってんの。早く私の相手できるようになってよ、さがる」
「あーもーだめ、酔ったから寝るよ俺、はいどいたどいた」


 テレビはもういいみたい。自称酔っ払いは布団に転がって、中途半端にタオルケットに包まったまま微動だにしない。ラグランの裾を引っ張ってちょっかいを出すも、息をしているのかも分からないくらいに静かになってしまった。


「…ねぇ、お風呂まだなのに寝るの?一緒に入ろうよ」


 空き缶を床に置いて服を脱ぎ始めればそっと顔を覗かせるお年頃の退。まったく、簡単なんだから。

 「酔ってるから何しても怒らないよね?」といつの間にかパンツ一枚になってへらりと緩んだ表情を見せる退の背中に、私は優しく平手打ちを喰らわせるのだった。



circus(2012/04/02)


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