壁一枚を隔てて女の甲高い声が途切れ途切れに鼓膜をふるわせたので、また始まったか、と思いながらも特に何をする訳でもなく、手元に置いた淹れ立てのコーヒーを口にした。仕事を片付けるために今夜はほとんど寝ないで作業をするであろう私と違って、なんとまぁお気楽なものだと思う。お隣さんは年頃な若者の一人暮らし。そりゃあ恋人を呼んで夜な夜なパーティーの一つや二つしたくなるってものでしょうね。私も昔はそうでした。
 学生時代はそれはもうひどいもので、田舎を出て初めての一人暮らしに浮かれ、酔った勢いで男を連れ込んでちぎっては投げ、ちぎっては投げ…調子に乗りまくり。大学の友達、バイト先のイケてる先輩、純粋で童貞っぽい後輩。合コンで知り合った、彼女とうまくいってない会社員、いやらしい趣味を持った高校教師、見た目は爽やかなのに踏まれることに大興奮するおじ様などなど。少しのあいだ関係を続けたり、ワンナイトラブだったり様々だったけど、興味本位だけでよくぞここまで。千人斬りでもするつもりだったのかって感じ。

 …あれから数年、自分でも引くくらいの冒険をした私は驚くほど落ち着いた。今じゃ社会に貢献するために命削って働くオーエルだ。そんな人生の先輩から一言。若者たちよ、やるならしっかりヒニンしろよ、あとなるべく静かに頼む。偉そうなことを考えながら、パソコンを開く。


「…ん?最後にしたの、いつだ…?」


 ふとした疑問。最近の私は仕事にうつつを抜かしてばかり。社会貢献と通帳を眺めてはニヤつくことが趣味になっていた。こんな生活だからもちろん美容からも遠ざかり、加えて最後にしたのも思い出せないなんて、女としてどうなの。


「…彼氏、欲しいかも」


 年下で可愛くて、私が会いたい時に来てくれて私を満たしてくれて、面倒じゃない子。彼氏というよりは、都合のいい男の子。ペットみたいな存在。恋人ができるとどうしても行動に縛りがついちゃうし、何より私は特定の人とだけってのはあんまり好きじゃない。付き合っている人とは別に、好みの男の人に出会った時に困るんだもの。ってやんちゃできる年でも無いんだけど、思うだけなら自由よね。

 どこかに落ちてないかなー、なんて空想を巡らせて、目の前のパソコンを愛撫した。



◇ ◆ ◇



 そんな私が会社の上司と付き合うことになって一ヶ月。年下のペットくんではないけれど、久しぶりに一人の男の人と恋愛するのも悪くない。縛りができても彼のためなら全然許容できる。何てったって彼は仕事はできるし威厳があってカッコいいし、そのくせ二人きりになると不器用で照れ屋で、一生懸命なんだもの。このギャップが可愛い。離したくない。ほんと、ベタ惚れかも。


「オイ、これ明日までに」
「はい、分かりました」


 書類の束を渡して颯爽と去っていく上司の顔を貼り付けた彼の背中に、沢山の女性社員から熱い眼差しが送られる。その一方で書類の上に止められた付箋に「今夜メシでも」なんて、ちょっと古風だけどたまらない。女性社員たちに気付かれないように、デスクについた彼にアイコンタクトをしたら仕事に戻る。彼女たちは知らない。私が彼の特別だってことに。…この優越感よ。デキる上司との社内恋愛って、すっごく楽しい!


「(貯金使ってお洒落したり自分磨きに精を出してよかった!)」


 当初の目的とは違った結果になったけど、今が最高に幸せだから良しとする。

 上機嫌になった私は仕事が早い。夜にはご褒美が待ってる、これくらいやらないとね。定時と同時に仕事を終わらせたらよれた化粧を綺麗に直して退社、カフェで適当なものを頼んで彼を待つ。会社にバレたら面倒なことになるってお互いに分かってるから、慎重な別行動を心掛けている。


「(何と言っても女の嫉妬は怖いし、なるべく平穏に働きたいし)」
「わり、待たせた」
「いいえ!お疲れ様です」
「あァ。じゃ、行くか」


 彼が選んでくれたレストランは落ち着いた雰囲気の漂う、まさに大人のデートに最適な場所だった。ちゃんと下調べとかしてくれたんだろうなぁ、と思うと更に気持ちが盛り上がる。少量のお酒を飲みながら話を進めているうちに、明日は休日だから、ということで彼の家に誘われた。…もしかしたら、いや、これは確実にある。一ヶ月か…奥手な彼にしては頑張った方だと思う。私は即ホテルでも良いのに、彼ってば誠実。今日着けている下着はどんなのだったかを思い出しながら、にこりと笑って「嬉しい」と言うと、彼は耳を赤くしてグラスの中身を飲み干してしまった。

 タクシーに乗り込んで、こっそりと繋いだ手から伝わる彼の緊張。私がリードしてあげたい、と思ったのも束の間、降りた先で目の当たりにしたのは、うちの壁の薄さが自慢の安いアパートとは比べ物にならない程の大きくて立派なマンション。カードキーを差し込んで部屋まで案内してくれる彼への見方がガラリと変わった瞬間だった。


「(さすがだわ…。これは私の家には呼べない…そろそろ引っ越しも考えようかな)」
「なァ、飲むだろ?」
「わぁ、私シャンパン大好きなんです」


 出されたシャンパンもなかなかの物。ソファに掛けて二人で飲み直しているうちに、気分が高揚して、段々と彼に甘えたくなってきた。彼の腕にすり寄って、一番上のボタンが外されたワイシャツの襟元から覗く肌を見ていた。彼はしばらく黙っていたけれど、まだシャンパンが残っているグラスをボトルの横に置き、囁くように言った。


「…ベッド、行かないか」
「土方、さん」
「…名前で呼べ」
「…とうしろう、さん」


 酔うと彼は積極的になるみたい。左の首筋に触れた彼の唇。熱を帯びた視線が交わる。ついに、ついに彼と結ばれるのね。優しく肩を抱かれて、彼の端整な顔が近付いてきた時、私の中に眠っていた「女」が、どくりと目を覚ました。



◇ ◆ ◇



「…大丈夫か?」
「…はい、」


 うっとりした顔で彼の名前を呼ぶと、そっと額を合わせて頬にキスをしてくれる。…幸せ。しかし、そう思う反面。


「(…あんまり良くなかった…)」


 信じられますか、初めて彼に抱かれた感想が「あんまり…」って。勿論そんなこと微塵も態度には出さないけど。デリケートな話だから、闇雲に愛しい彼が自信を無くすようなことは言えない。男を立てられる女はデキる。その代わりに、女はどこかで損をする。どうでもいい男には何でも言えるしできるのに、好きな人には慣れてるって思われたくない。なんと、目を覚ました「女」はあの頃の魔性のアバズレ女ではなく、まるで汚れを知らないうぶな少女のようだったのだ。

 恋ってやつは私を私じゃなくする。嗚呼、もどかしい。


「ん、」
「…もう一回、」


 するすると腰を撫でる彼の手に、小さく頷いて目を閉じた。好きだけじゃどうにもならないこともある…ってか。


「(…それでも構わない!)」


 少女に戻った私は彼の体温に包まれながら、来週は新しい物件を探しに行こう、と思ったのでした。



棘も爪もありゃしません、あるのは真っ白な好奇心だけ(2011/11/21)

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