傷だらけのカナリアと愚か者の恋 |
その人は、突然俺のところにやってきた。 「ひっさびさー。みーゆき。」 全身に似合わないアルコールのにおいを纏って、空ろなどこまでも暗い黒い瞳をゆらりと携えて。 その人は突然、俺のところへ落ちてきた。 顔立ちも最後に見た時と変わらず。けれど目線だけは少し高くなって。 声も、見た目も、何もかも。 「……沢村…、センパイ…?」 へらりと笑った顔は思い出の中にあるものと何ら違わないのに、ふわりと腕が回されて近づいた体からは、やけに鼻につく酒の匂い。そのギャップに一瞬くらりとするけれど、首元にうずまった漆黒からは、覚えのある太陽の香りがした。 回された腕が首を撫ぜると、一瞬カツンと冷たい感覚。 「ただいま、御幸。」 すん、と鼻を吸ってそれだけ言うと、そのまま喋らなくなる。珍しく動転してる俺になんて構うことなく、規則正しい寝息を立て始めるその人は。 10年ぶりに突然やってきたそれは、見間違うわけもないかつての先輩だった。 今思い出しても沢村栄純という人間は、真っ直ぐという言葉を形にしたみたいな人だったと思う。 単純で分かりやすくて、周りから見れば時に心配すら覚えるほどにまっすぐで、けれど同じくらい複雑で読み取りづらい。 分かりやすいから逆に分からないわけだ。この手のタイプは。 その上直情型とくれば、もう予測なんて不可能。いつも予想を一段飛ばしで超えていく。走るなと言っても止まらない。首根っこ掴んでいてもすり抜けていってしまう。 沢村先輩の印象は言葉にすればそんなことばかり。 後輩よりも後輩っぽい。だけどどの先輩よりも先輩らしい。そんな人だった。 「うーわ、やっぱ稼いでるやつは違うなー。部屋何部屋あんのこれ。使ってねぇ部屋絶対あるだろ、勿体ねー!」 記憶の中にある通りの破天荒さは変わらず、無駄にでかい声もそのまま。 我が物顔で部屋を一つ一つ物色しながら、呆れる俺なんてそっちのけで一人盛り上がる沢村先輩。ああ、アンタは俺に感傷に浸る暇すら与えてくれないわけだ。なんて予想を裏切らず相変わらずなんだ。 いや、この突然の訪問は予想外の中の予想外だったけども。 「…突然何しに来たんですか、沢村先輩。」 仕方なくその背中を追いながら近くの壁に腕を組んで体を委ねると、ため息交じりに呟く。 すると、都内の夜景が一望できる広いバルコニーへとつながる大窓のついたリビングをちょこまか落ち着きなく歩き回っていた沢村先輩が動きを止めて、きょとんと首を傾げた。 そんな仕草は、最後に見た時と、…先輩が高校を卒業するときに見た時と何一つ変わらない。 そうだ、そう。沢村先輩が高校を卒業した日。…その日以来、俺は沢村先輩に一度も会っていない。だからもうかれこれ10年になる。 「何って…、御幸に会いに来たんですけども。」 「…それはまたなんでこんな突然?」 10年ぶりに。何の連絡も無く。 「えー…っと、んー…、あー…っと、ホームシック?」 へへ、と子供みたいに笑う。浮かべる表情は間違いなくあの頃と何一つ変わっていない。変わってないのに。 頬をポリポリ掻いた手に、無駄に明るい室内照明が反射してチカリと揺れた。 左手薬指にあるその金属は、ただ静かにそこに。 それでもしっかりと、在った。 冷たく輝く、結婚指輪。 「……長野の、家は?」 どうしたんですか。 暖房がこれでもかというくらい十分なほど効いていて、寒さなんて微塵も感じない室温が、その言葉で小さく下がった気がした。 ほのかに曇る、沢村先輩の顔を見逃さない。だけど次の瞬間にはまた、かつて太陽の下で見たのと同じ笑顔が浮かんでいた。 そんな笑顔を浮かべる沢村先輩に、昔の面影が綺麗に重なる。 最後に沢村先輩に会った日。さよならをした日。 結婚するんだと、告げられた日。 だからもう忘れて欲しいと、腕をすり抜けた温度を手放した日。 今から、なんとか両手で数えられるギリギリの数だけ巻き戻った先にある、あの日。 「御幸は、」 ぽつり。 冷たい空間に沢村先輩の声が雪みたいに固まって小さく落ちる。 「離婚歴のあるヤツは対象外?」 「…いきなりぶっ飛んだ質問ですね。」 「回りくどい言い方は似合わねぇかと思ったんだけど。ほら、久々だし、配慮的な何かがだな…。」 もっと違うところに発揮すべきだと思います。それ。 「アンタ、…別れたんですか…?」 「…直球だなぁ。」 「…回りくどい言い方してもわかんねぇかと思ったんで。ほら、久々だし、アンタ相変わらず馬鹿っぽいし。」 オウム返しみたいな軽いやり取りに、沢村先輩が笑う。つられて笑ったけど、頬の筋肉が少しだけ抵抗して、何だか変な笑い方になった。だけどきっと沢村先輩には見えてねぇような気がする。 そんな気がする。 「別れた。」 あまりにも端的に呟かれた軽い言葉は、鼓膜を震わせるまで時間がかかった。 「…別れた、って…。」 なんで。 俺の疑問が声に乗るよりも、沢村先輩が声を漏らす方が速かった。分からない、そう小さく聞こえた。 「あ。あれじゃね?性格の不一致、みてぇな。」 「みてぇな、って…アンタ…自分のこと、でしょ。」 「…知らねぇよ。だって俺、自分からさよなら言ったことしかねぇし。」 「それって、アンタに振られた、俺へのあてつけ?」 「お。相変わらず無駄に頭いいな!お前!」 「…酔ってますよね。相当。」 「あー…?どーおだろー。」 突然ケラケラ笑いだす沢村先輩が、ふらふらと俺の近くまでやって来る。お世辞にも理性的とは言えない顔は、ほんのり真っ赤で、近寄ればやっぱりアルコールの香りが鼻に付く。 「だから俺、今行くとこなくてー。」 癖のある黒髪が、目線の少し下で揺れる。 「そんな困ってるいたいけな先輩を追いだすほど、意地悪じゃないよな。御幸は。」 見上げてくる黒が、ゆらり、瞳の奥で揺らいでは曖昧な光だけが浮かんでいた。人を惑わすような、そんな。 こんなこと、一体いつの間に覚えたのか。 触れあえるくらい近い距離の沢村先輩と俺の間にある、確かな空白の時間に触れたような気がした。 「…本当に…相変わらず馬鹿ですよね。沢村先輩は。」 それとも、10年ぶりで忘れちゃいましたか。 軽い笑みと共に漏らした着地点すら見当たらない軽口は、沢村先輩の傍に小さく落ちた。 「俺が沢村先輩に優しかったことなんてありましたっけ。」 伸ばした黒髪に触れても、目の前の沢村先輩は幻みたいに消えたりなんかしなかった。…まぁ当たり前だけど。 でもそれくらい、妙に現実味の無い風景に、もしかしたら酔っているのは俺の方かと錯覚するくらいにはアルコール一滴すら回っていない頭で考えて、思わず自嘲の笑みを漏らす。 「そうだっけ。」 もう、忘れた。 忘れた。 …何を? (俺を、とか。) あっけらかんと返答を投げ返した沢村先輩は、ただ曖昧に笑うだけ。 最後に会った時と、何も変わって無いと思ってた。だけど、 (こんな笑い方をする人じゃなかった。) 何かを含んだような、これ以上踏み込んで来ることを許さないような、人の手を拒絶するような。 こんな笑い方は知らない。 こんな沢村先輩を、俺は知らない。 「沢村せんぱい、」 「…なぁ、さっきから気になってたけど。」 「…なんですか…。」 「やめろよ、その、先輩、ってやつ。くすぐったくて仕方ねーし。大体もう、先輩後輩がどうこうって年でもねぇだろ。」 「…俺のことを、後輩扱いしてるのは、沢村さん、…の方のくせに。」 「ん、まぁ、ごーかく。」 名前を呼ぼうとした口を、人差し指で塞がれた。 アンタは本当に一体、何がしたいんだ。 いきなり突然、忘れたような頃に俺の前に現れて。 俺の知らない顔で笑うくせに、俺の知ってる濡れた瞳を向けてくるなんて。 問うことどころか、声一つ発することを許さないとでもいうように、シー…と小さく笑われた。 「…まぁ、難しいことはさ、」 今は、いらねぇじゃんか。 いや、いるし。考えること、あるだろ。言うことだって、たくさん。 でもそんな否定の言葉は、有無を言わさず呑みこまされる。そんな色が、今の沢村さんの顔にはあった。 「…なぁ御幸。愛って、なんだろうな?」 見下げた先で、いい年した大人が、そんなことを真顔で呟く。 バカだろ。バカとしか言えない。 だけどもっとバカなのは、そんな沢村さんを見て、笑うことすらできない、俺。 「頼むから。……なぁ教えて、御幸。」 御幸、…と。 小さく名前を呟く沢村さんは、苦しそうな声とは裏腹に、どこまでも静かに笑っていて。 (すっげぇ残酷だよなぁ、アンタって、本当。) 「だからただいま、御幸。」 (落ちて来る気なんか無いくせに、。) 回された腕が首に触れた瞬間チクリと感じた金属の冷たさを掻き消すように、差し出した止まり木に降りてきた沢村の背中を強く強く抱きよせて、沢村さんにさえ聞こえないように呟いた。 「…沢村さん、」 アンタは。 黙って俺に愛されてれば、それでよかったのに。 …それは届くことのない、愛してる。 *** 「確かに。」の蕗様へ生誕のお祝いに捧げたものです。 バツイチ沢村さん。…と、なぜか年下御幸。(完全に私の趣味) 勝手に押しつけたものでした(´∀`)! 受け取って下さった蕗様、ありがとうございました…! たくさんの幸せがありますように! [←] |