序曲 | ナノ

序曲



ざわざわ、ざわざわ。

放課後の遠い校内の喧騒が、どこからともなく響いて来る。
校舎に犇めく、人の動く音。

けれどここは、
この空間だけは、まるで時間が止まったかのように、空間が凍りついていた。


捕らわれる、視線。
その深さに、くらりと一瞬眩暈がした。



「……それで?」



まるで、ドルチェのような甘い響きが、凍った空気の隙間を縫って真っ直ぐにこちらに届く。
そこまで大きくもない声の音圧に、圧倒されそうになるのをなんとか踏ん張って、それで。


それで。



「…やってやるよ…!」



握った拳の中で、切りそろえられた爪がチクンと与える痛みすら気にならないくらい、頭に上った血が一斉に沸騰する。


ああ、なんで。
頭の片隅、どこか冷静な自分の理性がそう呟くのに。





「学内コンクールで優勝出来なかったら、学校くらいやめてやる!!」





なんで、こんなことになったんだっけ……?



狭い空間の中、自分が叫んだ言葉が四方に反響して鼓膜を震わせるのを、どこか遠くのことのように聞きながら、沸き立つ頭とは逆に冷えていく指先をぎゅっと握りしめた。



















さかのぼること、半日。

思えばその日は朝からどうもついてない日だった。


昔から、朝の日課として定めてるジョギングのおかげで、基本的に寝坊なんてしない方だけど、その日はなぜか前の日に突然部屋に友人がわらわらやってきては、日付が変わって数時間後に渡るまで好き勝手騒いでいきやがって。
しかもそいつらが部屋を荒らして帰るもんだから、片づけに要する時間数時間。

気付けばもうそろそろ朝日が昇るんじゃねぇの、ってくらいの時間で、そこで寝たのがそもそもの間違いだった。
その上目覚まし時計もつけてなかったっていう、なんとも不運な俺。


まぁ、つまり寝坊。完全なる純粋な寝坊。


起きたら2コマ目から入ってる授業の開始5分前で、片道自転車で15分かかる大学への道のりが一瞬で頭の中に駆け巡れば、どう考えても間に合わないことを脳が理解したのち、叫ぶこと数秒。
うるさい!と隣人から叫ばれ…はしなかったものの(何せこの部屋は完全防音だし)、ご近所トラブルより何より、今は心配すべきは可愛い可愛い、



単位のことだけ。



今年必須のこの科目は、落とした瞬間に、「やあ!こんにちは年下諸君!今日から同い年だぜ!」……、…まぁ簡単にいえば、留年が決定する…わけ…で…。



「いやいやありえねー!!春っちに怒られる!降谷に鼻で笑われる!!!」



部屋着のまま、寝ぐせを撫でつける精神的時間的余裕もないまま、部屋をかつて見たことのないスピードで駆け回り、引っ掴んだ鞄の中身だけはしっかり確認した。

そこにあった数冊の楽譜を一瞬で。


「うっし、!」


チャリで15分かかるなら、今日こそその記録を破ってやろうと、指に引っかけたチャリ鍵をくるりと回す。
軽い金属の輪が指を掠めて、そのまま付け根までストンと落ちた。
覚醒から外出までその間3分。残り2分で自転車に跨がれたら多分勝てる。


階段を駆け下りて、ほんの少し乱暴に取り出した自転車のペダルを踏みつけた時に、きっと遠くで始業のチャイムは鳴っていて。時計の針は無情にも時間を進めるけど、それ以上のスピードで自転車を漕いだ。

朝から繰り広げられた、そんなバトル。






(…まあ、結局間に合わなかったわけですが。)


いや、正確には、今までの最高記録である15分を大幅に塗り替えて、11分って大記録で大学に駆け込んだんだけど(いつから体育会系に変わったんだ俺は。)それから練習室までも距離があることを忘れてて、到着してからもなかなか整わない息のせいで、結局授業の3分の1位くらいは普通に潰れた。
いつもの大人数授業なら良かったけど、この授業は先生と1対1の実技指導。
それはもう痛い視線を一身に浴びながら、いざ授業が始まっても、いろいろとボロボロで。…まぁ正直言って、この先生と俺は普段でさえひたすら相性が悪い。それはもう、最悪なほどに。

それが今日はまた、なおのこと。

(だってこの人、めんどくせぇんだよ…。)

そう思って、上の空だったのが、まずかった。
通常時だったらそんな俺の態度にそこまで深く食い突いてこない先生も、今日はプラス遅刻云々も重なって、ついに何かが切れた。
授業終わりのチャイムの音に被せて、突然立ち上がった先生が放ったのは、突然の宣告。



「…沢村今日、この練習室隅から隅まで掃除するまで帰宅禁止。」
ピアノにも指紋一つ残すなよ。




だから、いつから俺は体育会系にシフトチェンジしたんだ。


俺は、ピアノ科の人間だっつーの!












一つ、ピアノ科で囁かれるこんな噂がある。

「うちの学校のピアノの調律がいつも狂わないのは、専属のチューナーがついてるからなんだって。」
「校長がコネで引っ張ってきた、海外育ちのエリートなんだとか。」
「誰もいなくなってから、静かな校内で一人で仕事してるんだって。」
「だから誰も見たことがないけど、でもたまに、練習で遅くまで残ってる人がその音を聞く人がいるとか。」


それは根も葉もない噂程度のお話。
誰が言い始めたのか、いつから言われているのか、それすらも分からないような。

懐かしい、学校の七不思議くらいのレベルの、いわばそれは小さな都市伝説のような。


「でもなんかすっごい美形らしいよ。」


そんな程度の話。













「ちっくしょー…あの鬼教師!後で確認に来るとかなんとか好き放題言いやがって…!」


練習室までの道のりをドシドシ音を立てて歩きながら、握っていた布巾変わりの白い新しい布をぐしゃっと握りつぶす。
安物なのか、ペラペラとしたそれはすぐに手の中で皺になって、開いても変な形で手の中に残った。

廊下の窓から差し込む光は既に茜色で、ピアノ科の練習室だけが並ぶこの棟には既にほとんと人がいない。
コンクール前や試験前には人で溢れかえるレッスン室だけど、特に何も無い時期はこうして授業後は無人なことが多い。大抵の奴は部屋にアップライトのピアノを持ってるし、寮の奴は練習室もあるから、特に居残る必要がないからだ。

俺もまた例外ではなく、いつもだったらチャイムと同時に外に飛び出してるのに。


今日はいつもとは反対方向に、重たい足を伸ばす。遠くから聞こえてくる声が恨めしい。俺も帰りたい。


さっさと終わらせようと、決意新たに握る布を手の中で更に丸めて(大体、布じゃなくているのは箒やちりとりなんじゃないのか)、ずんずんと練習室へと向かう。


「あ…れ?」


朝よりもゆっくりとした動作で手をかけた扉の向こうで、微かだけど音がする。
扉に丸く開いたガラス部分から中を覗けば、間違いなくそこには確かに人がいた。

(生徒?)

…とは、なんだか雰囲気が違う気もする。
先生…というには若すぎるように見えるし、第一にあんな先生校内で見たことあったっけ。


なぜか、そうっと手を伸ばしてドアを開けたら、けれどギィィイと予想以上に大きな音が鳴って驚いた。


「わ、!」


…そして更に、驚いた自分の声に驚いて、慌てて口を塞ぐ。

(ちょ、何言ってんの、俺!!)

案の定、中に居た人の視線がふと浮いて、思いっきり目が合った。
吸いこまれそうな、深い色。
背後の窓から背負った茜が反射して、なぜか心臓が小さく跳ねる。


(う、お…、!何こいつ、)


けれど、その視線はすぐに外され、またその手元に落とされた。
え、と思ったけれど、次の瞬間、ポーンと軽やかな音が空間に響く。


無音の、どこか澄んだ空気の中に、溶けずに跳ねる水泡みたいな音。
水の上を跳ねたみたいな、まるで生きてるような音。



「綺麗…。」



思わず口を漏れた言葉に再びハッとして両手で口を塞ぐ。けれどその前に、再び向けられた中の人の視線に気づいた。
そして今度はその視線は、逸らされることなく。



「へぇ…耳、いいんだ。」



さっき聴こえた音によく似た、耳触りの良い音が鼓膜を擽る。
話しかけられてるということになぜか一瞬気付くのが遅れて、慌ててなぜかドアを閉めて背を伸ばした。


「いや、あの、えっと、!」
「…もしかして、部屋使う予定だった?」
「いえ!!その、!えっとですね!」
「なんでそんな、慌ててんの。」


クスリと笑われて、かっと頬が赤くなったのが分かった。
人形みたいだ、と思ったけど、案外笑えば普通の人。(まぁ、当たり前なんだけど。)
狭い練習室だから、部屋の中に入ればさっきよりもはっきりと、顔や姿が分かった。


茜色が反射していたのは、少し太い縁の眼鏡。その奥からこっちを見る両眼はやっぱりじっくりと見てもとても深い色。


「部屋使うならすぐに終わらせるから、ちょっとだけまっててくれる?」


良く見れば、右手に握っていたのは小さなハンマー。
再び逸らされた視線が、俺が指紋一つ残さず綺麗に磨けと言われた真っ黒のグランドピアノに真っ直ぐ向かって、黒の中に溶けた。

細い指先が、白い鍵盤を弾くのをどこかぼんやりと見つめながら、もう一度手の中の布巾を思わず握り直して。


(…調律、師…?)





「うちの学校のピアノの調律がいつも狂わないのは、専属のチューナーがついてるからなんだって。」


「誰もいなくなってから、静かな校内で一人で仕事してるんだって。」




「でもなんかすっごい美形らしいよ。」








それが、始まり。

俺が、御幸一也と出会った、最初の話。






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