ジレンマ03 |
パタン。 扉が閉まった音がして、けれどそれに気付いたのは随分と経ってからだった。 我に返って挙動不審に辺りを見渡して、そこでやっと、自分の足ががくがく震えているのに気付く。 (俺、何、言って…、…え?…何言った…?) そして何を、言われた? さっきまでの自分が思い出せない。頭に血が上って、真っ白になって、それで。 『終わりにしようか、沢村。』 頭が認識しなかったセリフが何度も何度も通り過ぎて行って、その半濁した頭の中を過る文字列の内容を理解した瞬間、さぁっと一気に全身の血の気が引いた。 出て行った御幸との間を隔てたドアは静かにそこにあって、夏の終わりだというのに信じられないくらい寒さを感じる部屋に体を震わせる。 どうしよう、どうしようどうしよう。 追いかけないと。 分かっているのに、足が動かない。 どうしたらいい。 頭がパニックになるのに、体が動かない。 まるで足だけが切り取られてなくなってしまったみたいに。 その場に張り付いて、ただ壊れたみたいにガクガク震える膝に合わせて、歯をカチカチ小さく鳴らすことしか出来なかった。 終わり。 …終わり? “何が”? そう考えた瞬間、ぞわりと背中を何か嫌なものが這いずり回った。 「別れる、ってこと…?」 明確に言葉にした途端、それは突然現実味を帯びて。 呟いた自分の一言があまりにも弱弱しくて、まるで涙でも含んでいそうなくらい重かった。 「…あ…。」 御幸がそんなこと出来るやつじゃないってことくらい、分かってたはず。 スキャンダル、って文字見た時だって、「まさか」と思う方が先で、だから違うんだと言われたらそれだけで信じられたのに。 あんなふうに感情をぶつけて、…傷つけるつもりなんてなかったのに。 仕方ない、仕方が無い。だって、仕方が無いから。 そんな言葉で塗り固めた俺の心は、持ち主すら分からないところでじわじわと侵食されていて、もう開いてみれば俺の手からとっくに離れてしまってたことに今更になって気付いた。 放り投げてから気付くなんて。 …御幸なら受け止めてくれるだなんて、そんなこと、本気で思っていたんだろうか。俺は。 『沢村、お前の幸せは俺から解放されること?』 まさか。そんな。 そもそも、縛られてるなんてことすら、思ったこともなかったのに。 どうしよう、本当に。 今追いかけなかったら、本当に全部が無くなってしまう気がして。 (それは、絶対に、) 気付いたら、扉を開けて走り出していた。 夜の寮内は、静かだ。 部屋の中はそうでもないのかもしれないけれど、少なくとも廊下は凄く静か。 もう深夜も回っているような時間とはいえ、大抵のやつらはこんな時間に寝てるわけがないから多分どっかでワイワイしてんだろうけど、たまに寮監が見回りに来るから門限の後廊下に出てるやつはいつも少ない。 そんな静かな廊下に響くのは、俺が地面を蹴りつける音。 いつも歩き慣れている場所のはずなのに、同じような扉と窓に挟まれている無機質な廊下は、まるでどこまでも長く長く続いているみたいで、焦燥感ばかりが募った。 どれだけ走っても、御幸の姿が見つけられない。 そんなに時間が過ぎたつもりはなかったのにどうして。(そう思ってただけで、案外実はすげー経ってた、とか?) 御幸が帰る場所なんて、知ってるけど、でも。 今、会わないといけない気がして。 扉で隔てられる前の、御幸の顔が瞼に焼き付いて離れない。 どうしてあの時何も言えなかったんだろう。どうして引きとめられなかったんだろう。 俺の幸せ、って御幸は言った。 (そんなの、決まってんじゃんか…馬鹿野郎!!!) 駆け抜けた廊下の先、体当たりする勢いで扉を開くと、ぶわっと外の空気が一気に室内に流れ込んできて、暗い空が開けた。 生温かい空気が身を包んで、遠く見える月が綺麗に闇色の空にぽっかりと浮かぶ。 きょろきょろとあたりを見渡しながら外に突き出した渡り廊下を走る。 するとそこで、門へと向かう背中を見つけて、思いっきり息を吸って向かって叫んだ。 「御幸一也!!!!!!」 キンッと音を立てて空気を劈くような俺の声。 それにビクンと遠目からでもその背中が震えたのが分かった。 月明かりと、室内から漏れる電灯しか無いのに。それはもうはっきりと。 振りかえらない背中に向けて、ガンッと金属を殴りつけるような音を立てて渡り廊下のフェンスに勢いよく飛びついて、大声を上げる。 「アンタはいつも勝手だ!偉そうで、全部分かったようなふりして、…全部割り切ったようなふりして!!俺のことなんて、考えもしない!!」 言いたいのはこんなことじゃねぇのに、と。 けれど止まらない口からは、勢いよく言葉が飛んでいく。 ごめん、の一言は出てこないのに。 「ホントにムカツク。ムカツクムカツクムカツク。お前みたいな勝手な男。ほんと、好きじゃねぇ…っ、」 立ち止まったまま振り返らない背中。 響くのは、俺の声。 「ムカツク!!大っきらいだ…!!バカ御幸!!」 はぁ…ッ、と走ったせいか、叫んだせいか、分からない声が混じった声は、どんどんと尻すぼみになって、ギュッと拳を握った瞬間にじわりと世界が揺れた。 「でも、愛してる……っ」 悪いのは俺もだった。 御幸を理由にして、努力しなかったのは、俺もだった。 「終わりになんか、させるか馬鹿野郎…!」 手すりについた腕から力が抜けて、ずるずるとその場に座り込むと、暗くてよく見えない地面に黒い染みがどんどん広がっていく。 視界がぼやけて御幸がよく見えない。じわり、じわり。でももうどうしようもない。 追いかけないと、走らないと。 そうしないとまた背中が見えなくなってしまうのに。 それでも立ち上がろうとしない体が憎らしくて、何度も何度も心の中で叫んだ。 沢村。 小さな声夜の静けさの中に、そんな呟きが落ちたのは、それから一体どれだけ経ってからだったんだろう。 バッと顔を上げて、首をぐるぐる勢いよく見渡した。 「…みゆき…。」 見上げた場所にあったのは、遠くなっていく背中じゃなくて。 「お前って本当、バカ、な。」 困ったように笑う顔。 暗くてよく見えない。おかしい。さっきはあんなに遠くても、よく見えたのに。 一歩…また一歩、御幸がゆっくりと近づいて来てその度に顔を空に向けていけば、近寄って来た御幸の顔が、ぼんやり歪んだ視界の中に浮かぶ。 「知ってる…、…アンタがそういうから。」 「そんで、男見る目ねぇよ、お前。」 「…知ってる…、…アンタって本当最低だし…。」 「多分俺も似たようなもんだけど。」 差しのべられた手が、頬をなぞる。間抜け面だなぁお前、と降って来た声があまりにも柔らかかったから、そこでやっと、地面を濡らすのもよく前が見えないのも、自分の涙のせいだってことに気付いた。 「…沢村の幸せって何?」 ぼやけた視界の先で、それでも確かに御幸が笑ったような気がしたから。 「わかんねぇ…。だから、アンタが教えろ。」 そう泣き笑いのまま笑ったら、俺の顔を鏡に映したみたいな顔で、御幸がくしゃりと笑った。 「うっぜぇ…。」 「えー。」 「えーじゃねぇよ!!離れろうざい寄るな暑い!!!」 沢村冷たい。 文句を言う御幸をぐいぐい押しのけながら、それでもひっついてこようとする御幸に文句を大声で浴びせる。 しっし、と追い払って(さすがにひでーかなとか思ったけど)…みても、御幸はへこたれない。ぐるりと腰に手を回されて、そのまま後ろから引き寄せられる。 なんだこの格好、と思うけど、離してくれる気のなさそうな御幸にため息をつくと、不満そうな声が頭上から降ってきた。 「大体さー、喧嘩して仲直りした今って、一番の蜜月なんじゃねぇの?なんでわざわざ一緒にいるのに離れる必要があんのよ。」 「それをいうなら、一緒にいるんだからこんなにくっつく必要が無い!」 「えー。」 「だああああうぜぇ御幸!!」 あれから。 御幸は今まで以上に過保護(っていうかゲロ甘)になって、時間があれば連絡を寄こすようになった。…そんで、俺からもたまに連絡を取るようにも、なった。 おかげでメールの頻度も、電話の回数も元通り。(むしろ増えた。) お互い、無理な時は無理だって断るようにもなったんだけど、前より御幸が誘ってくる回数の方が増えてるから、自然と前よりも会う機会も増えて。 時間が合わないとすれ違っていたのが嘘のように、案外時間なんてもんはいくらでもひねり出せるんだなってことを学んだ。 ちなみに、大喧嘩の引き金になったスキャンダル話題は、相手の女優さんがそれはもう男前に笑い飛ばしてくれたおかげもあって、すぐに世間でも騒がれることはなくなった。 後々発覚したことだけど、熱愛報道のきっかけになった写真に写ってたのは、まず御幸ですらなかったとか。つーか、帽子と眼鏡だけでなんとなく俺って酷くね?と今では笑い話に持ちあがるほどだ。 まぁそれは、実に喜ばしいことだけど、も。 そんで、よもや別れの危機まで発展したあのすれ違いを思えば、軽い悩みなのかもしれないけど、も! 「なーなー沢村―。」 「…なんですか。」 「今度俺ヒーローインタビューで、お前に向かって愛叫んでもいい?」 「…次の日から俺に連絡が取れなくなってもいいならいいぞ。」 「………鬼。」 ひどいわ沢村、…なんて…。 新しく俺を悩ませる種となっている、この御幸のどうしようもなさはちょっと余分だったかもしれない、とか。 本人に言ったら凹みそうだから言わねぇ俺の優しさ。 「あーあ。沢村だって結構恥ずかしいことしてたのに自分のことは棚にあげんのかよー。」 ビクッと御幸の体にすっぽりと包まれたまま肩を揺らせば、ニヤリと背後で意地悪く微笑んだのが雰囲気で分かった。 …あの日のことは、あの後ちょっとだけ寮で噂になった。 夜も遅かったし、周りに人の居た気配はなかったけど(いや、あんときはそれどころじゃなくてよく覚えてねぇけど)、どうやら見ていたやつもちらほらいたみたいで、騒ぎを収めるのも少しだけ苦労した。 元々御幸は目立つ容姿、目立つ存在なんだから、今思えば相当危なかったなぁ…と思う。 なんとか誤魔化せたつもりでいるけれど、本当のところどうなのか知るのは怖いから放っておくことにした。本当どうしてくれる。俺の学生生活あと1年残ってんだぞ。…そんな文句ももう随分と御幸にぶつけた。 高校時代から長年一緒に居たけど、あんな喧嘩は久々過ぎて正直ビビったりしたものの…、…まぁいろいろ問題は多いけど、解決してよかったとは素直に思う。 から。 だから、まぁ。たまには。 …ほんとに、たまにはな。 「……んなこと言う前にまずは勝ってこいっつーの。」 御幸の言うとおりになってやってもいいかな、なんて思うので。 そう呟いて体に回された腕を軽く握り返したら、更に力強く腕の中に閉じ込められた。 擦れ違いってのは想像以上に怖いもの。 そんで、今ある関係が決して本当は当たり前に常にあるものではないということ。 恋人って名詞が、いつも一緒にいる存在のことを言うわけではないけど、それでも、恋人だから一緒にいれるように努力をするんだってこと。 今回のことでいろいろと学べたのはこれからの俺らにとって色々いい影響をもたらしてくれるんじゃねぇかな…なんて。思えるだけ、よかったなぁ、と。 雨降って地固まる。…そんな言葉がぴったりな。 まぁ多分結局は、これでハッピーエンド。 「でも当分喧嘩はいらねーな…。疲れるし。」 「…同感。」 *** thanks 10000Hit ! そしてこれからも御沢と共によろしくお願いします! たくさんの皆様へ愛と感謝の気持ちを存分に込めて。 2010.12.17 一萬打記念アンケート1位 プロ野球選手御幸×学生沢村 [←] |