ジレンマ02 |
携帯の画面を見て、ため息を一つ。 すると隣に居たチームメートから、なんだ、彼女に振られたか?なんて揶揄するような面白がっているような声が聞こえてきて、苦笑を零した。 「まぁ、似たようなもんですね。」 「へぇ、お前でも振られることがあんのか。御幸。」 「ありますよ。…というか、年中振られ続けてるんで、俺。」 自嘲気味に笑いながらそう言えば、興味を持ったのか更に追求されそうだったのをどうにかひらりと交わして。何だもう帰るのか、と言われながらもそれを曖昧に濁す。 「…本当ならもう少し早く帰る予定だったんですけどねー。」 「なんだ、不満そうだな。」 「違います。…ただちょっと凹んでるんです。」 青春だな、そんなことを言われたけど俺だってもう立派な社会人なんだけど。一応。 大きく笑う相手に苦笑しながら、あまり漏らさない愚痴を一つだけ落として、バックに手をかける。さっきまで温かかったはずの心の中は、外を吹く風に冷やされたみたいにひんやりとしていて、もう一度だけ開いた画面に相変わらず表示されている愛しい人の名前と、約束の反故を告げる文面に、またため息が一つ零れた。 『悪い、明後日練習夜まであったから無理になった。』 そんな簡潔なメール。差出人のところに表示されているのは、世界で一番って言っても過言ではないほど愛しい文字列だけれど、続きは決して嬉しいとは言い難い内容で。つい数分前までは、明後日を心待ちにしていたのに。 練習なら仕方が無いと思うし、いつも予定をあわせて貰っているのは俺のほうだから流石に文句は言えない。野球と俺どっちが大事なのなんて聞くつもりもないし、沢村だって沢村の世界がある。そんなのは分かってる。 だから仕方が無いのだとは思うけど、それでも残念に思うのは止められなくて。 だからもう一度だけため息をついて、分かった、と一言だけ文字を打ち込んで、手早く携帯を閉じた。 「あんまりため息ばっかついてっと、幸せが逃げてくぞぉ、御幸ぃ。」 ニヤニヤ笑うチームメイトを一瞥して、少しだけ口元を緩めた。 幸せが逃げる、ね…。 「…ご忠告どーもです。」 最近全くもって顔すら見れてない恋人を思いながら、友人たちが見たら爆笑するんじゃないかってくらい何とも情けない表情を、少し深めに被った帽子の影に隠しながら、笑った。 (沢村、お前は今幸せ?) 会えない距離が、ただもどかしくて。 高校卒業と同時に、プロの世界に足を踏み入れてからそろそろ4年の月日が経とうとしていた。 それは酷くあっという間で、1日1日を精一杯生きていた子供の時間とは違って、“日々”を過ごすようになった大人の時間に呑まれかけながらも、なんとか地に足をつけてやってきた。周囲からの期待をプレッシャーに感じるような繊細な心は持ち合わせてはいなかったけれど、それでも不調と言われる時期もあった。多くの挫折もまた経験した。けれどそれでもまだこうしてマウンドに上がれる毎日があって。これからも続いていくであろう日々はとてつもなく長いけれど、それを選択した自分を後悔することはなかった。 まぁ敢えて言うならば、俺はもう少し器用な人間だと思っていたんだけども、蓋を開いてみれば器用さなんてどこにもなくて、そう、そんな日々に後悔なんか微塵もしてないけども、重ねて来た日々への反省ならば毎日数え切れないほどある。それは主に、さっきまで携帯の画面に表示されていたヤツのことで…、主に、というか多分それしか、ない。 沢村のことを、蔑ろにしたことなんかないけれど、それでも多分寂しい思いはたくさんさせてることは分かってる。 元々そういうこと(主に恋愛とかそういう意味)にあんまり頓着しないやつだとは思うけど、最近じゃ殆どかまってやることもろくに出来てなくて、だからこそ、今回こそはきちんと時間に余裕を持って会おうと誘ったのだけれど、今回それを断ったのは沢村の方だった。予想もしてなかったから、ちょっと動揺したのは内緒だ。 (…テストの時期でも…、練習があっても合わせてくれてたんだけどな。アイツ。) そういえば、沢村に断られたのは初めてかもしれない。 お世辞にも勉強が出来る方ではないから、テスト期間はいつでも必死だったはずなのに、そんな中でも必ず例えほんの少しだとしても、顔を見せてくれた。 練習があるから無理。そんな言葉が返ってきたのは初めてで。(近々なんかあったっけ?) しかも一度は了承してくれたのに…、また恨みがましい言葉がモヤモヤと心の中を巡る俺は多分相当駄目な男だなと思う。 仕方ないのは分かってる。でもそしたら次はいつになるんだろうか。そんなの俺次第だってのも、それもまた分かってるけど。思わずまた漏れそうになったため息を腹に力を入れて反射的に飲み込んだ。(幸せが逃げる、なんてのは今は本気で現実的すぎて微妙。) 残暑が残るこの時期は夜になってもまだ蒸し暑く、空調の利いていない屋外に出れば、じわりと肌に汗が滲む。練習や試合の時は気にならない汗も、どうしてこう何も無い時はここまで不快に思うのかと不思議になるほどで、マンションの駐車場からの距離を疎ましく思いつつ(半分はやつあたりに近い)重い足を進めた。 もう既に深夜と言ってもいいこの時間。静まり返った住宅街には、薄ら聞こえる虫の声と…。 「…ん?」 虫の声と夜の静寂の中に、まるで場違いなほどの大仰な明かりが浮かんでいて、それがマンションの方だと気付いた時には、その明かりの中から、「あ!」と暗闇を切り裂くような鋭い声が飛ぶ。 なんだ、と思った時には、その明かりが一声にわらわらと移動してきて、それが照明の明かりだと気付いた時には、その集団に周囲を取り囲まれていた。 …マスコミ? 小さく首を傾げる。途端差し出されるマイクと、あてられる照明。深夜だというのにまるで昼間みたいに一気に辺りが明るく照らし出され、たかれるシャッターによって昼間以上に明るくなった周囲に思わず眉をひそめた。 なに、これ。 「御幸さん、今回の報道は真実ですか?」 「一体いつごろから…何がきっかけだったんですか?」 次々に投げかけられる質問の意味が分からず、は?と漏らした声を近くのマイクが拾った。 「えーっと…、…なんか意味わかんないんですけど、なんですかこれ。」 「それは否定するということで宜しいんですか!?」 おいおい。よろしいんですかも何も、まず会話がかみ合ってねぇよ。 興奮した感じの記者らしき人たちとの間に感じる温度差に少しだけ苛つきながら、辺りをぐるりと見渡す。 このままじゃ近所迷惑だよなぁ…と、目の前にあるのに辿りつけないマンションを見上げながらぼんやりしていると、また御幸さん、と俺を呼ぶ声。 そんなに大声で呼ばなくても聞こえてるってぇのー…と思いながらも、はい、と返事をするはずだった俺の声は、次に聞こえた言葉に目を見開いたことで声にすることは敵わなかった。 「今回の熱愛報道について、御幸さんはどうお答えなさるんですか!?」 …は? 「熱愛報道?」 って、何? 興奮気味に告げられた女優の名前を聞いた瞬間、俺の頭を過ったのは、他の誰でもない、 さっき閉じたはずの携帯が一瞬震えた気が、した。 (ああクソ、恨む、道路交通法!) アクセルを踏む足がもどかしくもつれる。いっそ踏み込んでしまいたいのに、目の前の真っ赤なランプがそれを制止させて。青に変わった瞬間に靴の底が抜けそうなほど力を込めたけれど、いくら夜とはいえ、さすがにこれ以上は上げられないスピードメーターに一度舌打ちをした。 否定と共に振りきったマスコミに明日何を言われようとも関係ないし、そこに事実が無いことを知っていて欲しいのは一人だけだから、それ以外はもう本当にどうだっていい。 苛々苛々。ハンドルを握る指に力が籠って、冷たくなった手で再びそれを切る。 もどかしいならば、電話一本かければいい。 けど。 (まさか、あのメール一本で結構臆病風に吹かれてるなんて、そんな。) 間違ってもそんなことは言えないけれど。 そんな弱さを隠す様に、少しだけ悩んだ末にもう一度踏み込んだアクセルと同時に唸ったエンジンを吹かせた。 あれって、 まさか、 そんな、 でもやっぱり、 そんな声が周りからざわざわと音の波になって押し寄せてくるけれど、全部右から左へと綺麗に抜けていく。好奇の目に晒されても、正直そんな目線には慣れている俺はあんまり気にならないし、受け流せるから気にならなかった。 けれど、目の前でその元から大きな黒い瞳を更に大きく見開いて口をあんぐり開けて驚きの表情を浮かべる沢村の顔は、次第にサァっと目に見えて真っ青になって。挙動不審に目をキョロキョロさせたかと思えば、そわそわと体を動かしだす。ああ逃げるなこいつ、と思った俺は、そんな沢村に手を伸ばして腕を掴むと、沢村の体がビクッと大きく震えた。 「な、…っで、…!?」 「逃げんなよ?」 「な、んで、御幸がいんの…っ!!」 「なんで、って。」 会いに来たから? そう言う前に、何かを感じ取った沢村が、ハッとしたように我に返って周りを見渡して同時に腕を振り払う。 そこに見えた好奇信や疑心感が含まれる何対もの視線に、一気に狼狽したようにその漆黒の目が揺れた。まぁ、そうだろう。だってここは俺にとっては特になんてことも無い場所だけれど、沢村にとっては、日々の生活を送る寮の一部屋なのだから。(どこにいるか分からなくて手当たり次第に部屋を開けたら同じような格好の奴らとここにいた。誰かの部屋だろうか。) するとすぐに、ごめん、ちょっと出てって、と沢村が部屋に居た何人かを外に出す。それで、ああここは沢村の部屋なのか、と漸く認識して、ぐるりと辺りを見渡した。 沢村らしい、散らかっているわけではないけれどどこか整理の行き届いていない生活感のある部屋。畳まれているわけではないけれど、そこまで乱雑でも無いベッドに、積み上げられた本や雑誌。机の上も同じようで。(教科書らしいもんが見当たらないのは目を瞑る。)こうしていると、形状は違えど、高校の頃に戻ったような感覚に戻って不思議な気分になる。あの時とは違う空間なのに、沢村と生活を共にした高校時代もまた、たまに訪れる沢村の部屋はこんな感じだった、ような気がする。(ただあの部屋には沢村以外の住人もいたわけだけれど。) そんなことを考えていると、バタンと扉が閉まる音が聞こえた。 「…いきなりなんだよ。」 俺が沢村の方を向くが早いか、それともその声が早かったのか。固い声が部屋の空気を引き裂いて落ちる。そうしてゆっくり歩いて来ては、俺の横を、俺の方も見ずに通り過ぎて、そのままベッドにストンと座った。 「話がしたくて。」 「電話でもいいだろ?」 「そうだけどさ…、…でも会って言うべきだと思ったから。」 「ふうん。なんのことを?」 なんのこと、なんて言いながらも俺を見る沢村の目は全然いつもと違う。黒い瞳が更に深さを増していて、俺を見てるはずなのに、もっと違うところを見ているような、そんな。 その目を見ていると、分かる。 (ああ、知ってんだ、コイツ。) 報道のことも、それで、だから俺がここに来たってことも。 まぁ、そりゃそうか。 だからさっきの、突然の約束反故のメールも、多分。 「そんなことのために、わざわざ来たわけ?…忙しいのに。」 そういって、ふっと見たこともないくらい影を落とした沢村の顔が、笑顔の形に歪む。 「沢村!」 反射的に叫んだ名前に、ビクッとまた沢村の体が震えた。 静かな部屋の中に、俺の声の残響が少しだけ響いて、けれどそれもすぐに壁に当たって床に落ちる。 沢村が体を動かすと、ギシッと小さくベッドのスプリングが軋んだ。 「…聞いたんだ?」 何を、とは言わなかったけど、沢村は何も言わない。だからそれで分かった。 「言っとくけど、あれは誤解だからな。女に現抜かすほどの余裕なんかなかったつーの!」 思わず出た言葉が想像以上に大声になって、今度は俺が驚いた。 沢村も、なんだか驚いた顔をして固まる。すると、ふいに落ちる、静かでもなんでもない沈黙。 聞こえる空気の流れる音と、互いの呼吸音。そんな空気を破ったのは、沢村の方だった。 「分かってる…。」 静かな声。 沢村にしては珍しく感情を抑えた声に、顔を上げる。 てっきり何か叫び返してくると思ったのに、予想外の反応に戸惑ったのは俺の方だった。 「分かってるけど、それでも!」 ぐっと拳に力が入る。膝の上で握られた、ゴツゴツした手。 高校の頃と変わらない、けれど少し見ない間に少し逞しくなったかもしれない、そんなふうに感じるその拳。 俺はただ、何も言えずに立ち尽くすだけ。 「…俺は…、寂しかった…。」 告げられた言葉に、吸い込んだ冷たい空気が喉を通り過ぎて言って、そのまま心臓が凍るかと思った。 「沢村…。」 「アンタが忙しいのは、知ってたし…っ、理解してるつもり、だったし…!あんなの嘘だって、すぐに思った、けど!」 「…さわむら…、」 「でも、!どこか、御幸のこと、もうよくわかんねぇって自分が居て…それで…!」 言葉を詰まらせた沢村が、さっき拳を握った時みたいにぎゅっと力を込めて唇を噛んだ。 それに何も言えず、何も、出来ず。 ただ立ち尽くす俺はさぞ滑稽なんだろう。 沢村は(涙でもこらえてるんだろうか。)俯いたままだから、そんな俺は見えないかもしれないけど。 ぶるぶると、握った拳が震えるのだけが妙にリアルに目に映って。周りが全部白黒になったみたいに、世界が暗転した。 (ああ俺、コイツに甘えすぎてた。) 今更思っても、遅いかもしれないけど。 自分より小さなその体が震えているように見えるのは、自意識過剰かもしれない。それでも握った拳の中に巻き込まれた指は、血が止まって青白くなっているのは多分見間違いなんかじゃない。 沢村が、何とも思ってないはずが無かったんだ。 子供だ子供だと思っていたけど、それでもコイツだって俺と1個しか違わない、もうれっきとした大人の男で。 何も感じない人形でもない。 ガキで、バカだけど、それでも昔からこいつは人の感情に聡い部分があった。 どうしてそんな大事なこと、忘れてたんだろう。 「…悪かった…。」 自然に落ちた呟きは、足元にポトリと小さく音を立てて落下した。 「ごめん、沢村。俺が悪い。」 次いだ言葉に、はっと顔を上げた沢村の目に浮かぶ滴が、ゆらり揺れた。 「全部、俺が悪かった。俺はお前に甘え過ぎてた。」 忙しさなんて言い訳にしかならない。 気付いた時には時すでに遅し、なんてよく言ったものだと思う。 『あんまりため息ばっかついてると、幸せが逃げてくぞぉ?』 逃げるどころか、辛い思いばかり、させて。 「…お前の幸せは俺から解放されることかもな。」 そうだとしたら、俺は。 「俺は、お前には馬鹿みてぇに笑ってて欲しいと思うから。」 握りしめた拳が、氷みたいに冷たい。 掌に刺さった爪が、全身をそのまま引き裂いていくようだった。 だから。 告げた一言に沢村の目が見開かれるのを、何だか他人事みたいに見届けて。 何も言わない、沢村に背を向けた。(これ以上見てられる自信なんて、どこにもないから。) 静かに手をかけた扉をゆっくりと開けて、そのままその重さによって隔てられた距離を背に、零れたため息が一つ。 (…幸せなんかどこにもねぇのに、まだ逃げてくのか。) 『終わりにしようか。沢村。』 告げた唇に立てた歯から、ジワリと金属が溶けだして咥内を染めた。 |