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ガシャン、と静かな空間に盛大に響いた音と共に、自転車が横向きに倒れた。 カラカラと倒れた拍子に回ったペダルが少しだけ回転して、やがて音も立てなくなればシィンと辺りに再び沈黙が落ちる。 自分の自転車を路肩に止めて、今まで同級生が引いていたはずの自転車に手を伸ばす。 持ち主を突然失ってただ寂しく横たわるそれにそっと触れると、小さくため息を一つ。 ざわりと空気が震える。それがなんなのかなんて、考えなくても分かった。 「後悔するくらいなら、しなきゃいーだろ?」 「………随分、早いんですね。」 まぁ、当たり前か。 背後からかけられた声に、そんな内心の呟きと共に振り向く。 自転車を二台とも脇に寄せて立てかけた東条が返答と共に視線をやった先には、呆れた表情で腕を組む男の姿があった。 ほんの一瞬前までその場所には人の気配すらなかったその場所に立っていた男は、夕闇の中といえども怪しく光るアンバーを細めて、東条を睨みつける。 まるで射抜かれるような視線に、思わず自分の中にある本能が身震いした。 男の、御幸の浮かべる表情からは何も読み取れない。いっそ穏やかとも取れそうなその顔。けれど感じる。分かる。自分の中の妖の部分が、警鐘を鳴らす。 自分よりずっと大きな力を前にして、感じるのは純粋なる恐怖。 (…俺はまだ、自分のことを妖だと思ってるのか…。) 感じるだけで、何も出来ない。中途半端な自分。人にも妖にも、どちらにもなり切れない自分。 ふ、と自嘲にも似た笑みと共に視線を落とす。 そんな自分を、人の形をした妖が真っ直ぐ何かを見極めるように見ているのに東条は気付かなかった。 一つ大きく息を吐いた御幸が、小さく呟く。 「沢村の力が途絶えたからな。」 「ああ。それで縛りが解けたんですか。参ったな…。それを計算にいれるのを忘れていました。…というか、上級階級の妖は学校からここまでたったこれだけの時間で移動出来るんですか。」 「まぁ俺は、お前みたいな半端モノとはモノが違うし。」 クスクスと笑う御幸相手が当たり前のように吐く言葉に、言いかえすことも出来ない。 そう。所詮自分は半端モノ。何にもなり切れない中途半端な存在。 力も無く、一族に認められることもなく、人の世界でも生きられず、ただ在るだけの自分。 「あの一瞬でここまで辿るのは流石の俺でも苦労したんだけどね。」 肩を竦めた御幸が言う。 苦労。 (…貴方のような存在が、) 俯いて、拳を握りしめて、御幸から見えないように、くすりと笑う。 ああ、世の中というのは酷く理不尽だ。 考えないようにしていた。いや、いくら考えないようにしていたとしても、いつだってその事実は自分の上から東条秀明という存在を押さえつけて意識せざるを得なかったのだけれど。それでも自分は、こんな形でも誇りだけは持って生きているのだと、『真っ当』である道を諦めたとしても、自分の存在意義はいつかどこかで見つけられるのだと、そう、思って。 どんな形であれ誇りだけは常に忘れぬようにと。 そう、生きて来たのに。 それなのに。 こんなにも完全なものを前にして、そんな誇りは簡単に靄の向こうに霞んで見えなくなる。 “人の形”をした、“完全な”妖。 「苦労なんて、したことが無いくせに。」 ずるい。 ずるいずるいずるい。 まるで糸か何かが解けるかのように、力の均衡が急に崩れて、御幸をその場に縛り付けていた力が消えるのを感じた。 その一瞬で、探し人の力の元を探る。そのチャンスは本当にほんの一瞬だった。沢村の声によって奪われていた自由は、今沢村の意図しない形で途絶えた。それが何を意味するのか、分からない御幸では無い。それに、沢村の隣に感じた気配、それはさっき感じた微弱な妖力。もちろんすぐに、印刷室で話したあの男に間違いないことは分かった。 だからすぐに追いかけることはそんなに難しくは無かったのだけれど。着いたその場所に残念なことに、…というか、予想通り沢村はおらず、東条の姿だけがあった。その横に立てかかる2台分の自転車。見当たらない沢村の姿。それだけで何が起きたのかなんて予想することは簡単だった。 化け猫の子といえども、あれは無力。何の力も持たない、言わば空っぽの器だ。 幸いなことに本人自身それには気付いていないようだったから、少し甘く見ていたかもしれない。 (器には、本当は使い方がある。) とはいうものの、今は全くの無力だと思っていたのに。まさか沢村をロストされるとは思ってもみなかった。 狭間に引きずりこむにはもちろん力がいる。過去2度ほど沢村はあの場所に飛んだことがあるけれど、1度目は自分の、2度目はカゴメ歌の妖力によって引きずり込まれた。けれど今回は東条にはそんな力はどこにもないはず。そんな自分の中の油断が招いた結果に、舌打ちせざるを得ない。飄々と立ち尽くす男の涼しい顔に少しだけ苛立った。 「ホントに、やってくれたなァ…。」 「悔しそうですね。」 「そりゃまぁ悔しいね。してやられたし。…っつーか、沢村が余計なこと言わなけりゃこんなことにはならなかったのに。」 「沢村を怒らせたのは貴方が原因だし、自業自得なんじゃないですか?」 「…そこを突かれるとどうしようもないかな。」 「…やっぱり妖に人間の気持ちは分からないんですよ。」 クスクスと、東条が笑う。 沢村を追いかけて行くことは簡単だ。自分の力があれば、沢村の所に行くことも、見失うこともない。寧ろ、探しに行く場所が分かっているだけさっきまでより随分と楽なんだけども。 「今お前、妖力があるだろ?」 唐突に投げかけた言葉に、ぴたりと笑うのをやめた東条の顔が、少しして笑みの形に変わる。肯定はなかったけれど、それは明らかな肯定の証だった。それだけじゃない。先ほどから殺気のように感じるこの力は、化け猫のそれだ。 一族から毛嫌いされているであろう異端児に、近づく物好きがいたか…と考えて、ああなるほど一人だけ、該当者が思い当たる。 「…………母親か。」 「正解です。」 …やっぱりね。 器の本当に使い方を、分かっている奴が近くにいることは誤算だった。 先ほどまで空っぽだったはずの東条の体の中に、今は脈々と流れる猫の血を感じる。原液に近い濃度の圧縮されたその力は、まるで存在を主張するかのごとく東条を中心にして蠢く。 「沢村を喰って、力を吸収しようって腹?」 「…あれだけ大きな力なら、母さんの力も戻るはずなんです。」 「一族を迫害された母親、か。」 化け猫の同族意識の強さと、プライドの高さは妖の中でも随一だ。 たまに御幸ですら呆れるほど、あの血の流れる連中は誇りだとかブランドだとかを気にすることは知っている。だから、その中に産み落とされた異端児と、それを産み落とした存在がどんな経緯を辿って来たかなんて…妖力を奪われ、叱責され、一族に居られなくなることくらい、想像に容易い。 そして、化け猫は妖力でその生を現世に繋ぎとめる妖だ。 妖力の無くなった猫が、これからどうなるのかも、また。 「俺のせいだから。」 東条が拳に力を込める。ぶわりと辺りの空気が揺れる。 毛並みを逆立てるように空間を揺らした力が周りを巻き込んで世界が歪む。 「だから、その邪魔をするなら例え力の差は歴然でも、俺は貴方を止めます。」 その力強い一言と共に向けられた鋭い視線に、今まで黙って表情一つ変えずにいた御幸の顔が、口角をゆるりと上げて、ゆっくりと笑みの形に歪んだ。 「―――――…上等。」 確かに東条の境遇を考えれば、そこには同情を感じたっておかしくはないし、死の近い母親の為に頑張る孝行息子の気持ちを笑うつもりはない。 けれど、そんなことは自分にとっては関係ない。そう、関係ない。 御幸にとって、沢村以外のその他大勢がどうなろうと、ただ、関係がないのだ。 「やれるもんならやってみろよ。」 だってあれは、俺のものだから。 [TOP] |