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沢村の声には、“力”がある。 生まれながらにして破魔の力を体に宿したその子供の声には、妖の中では最大級に力を持つ御幸をも呼び寄せるくらいの、強い力がある。 その声に含まれた「拒絶」は今、確かな力で御幸を制した。 いや、沢村が御幸をその声で制したのは、正確にはこれで二度目だ。 つい先日の、あの公園での出来事が御幸の頭を過る。 (俺が。) (この俺が、動くことを忘れるくらいに。) カゴメ歌の時と同じ。沢村の声は、妖に対して蜜であり毒でもある。 その上、願い事の契約によって、沢村との関係が深い御幸にとってはなおさらだ。 意識もあれば、感覚だってあるのに、沢村の意思に反した動作だけは出来なくなる。その緊縛がとかれるまで、動くことが出来ない。沢村を追う感覚も靄がかかったように鈍る。 「……あんの、バカ。」 落とされた御幸のため息とともに、小さな舌打ちが響いた。 何も出来ないまま、「分からないのが怖いのだ」と、去り際に叫ばれた沢村の言葉を思い出す。 御幸は“人”ではない。だから、妖という存在自体が本来なら人間から畏怖されることはあっても、御幸自身は怖いだとか恐れるだとか、人間が持っているそんな感覚を感じたことが無い。だからそれがどんなものなのか、分からない。 御幸が沢村に何も話さず、何も語らないのにはわけがある。 妖にとって、「知らない」のと「知っている」のとでは全くもって意味が違う。 沢村が自分の力を長年に渡って封じ込められていたのも、その記憶から力を使っていた頃の記憶が無くなって、何も知らない状態になっていた、ということに起因する。 年を重ねて御幸の封じていた力が弱くなって、影を視るようになったのもそれだ。影を知らなかった頃は、影は視えない。それは何も「知らない」からだ。だけど一度影を認識してみれば、もう沢村は影が見えなかった世界には戻れない。なぜならそれは、沢村がもう影を「知っている」から。 認知は、沢村のリスクを更に高める。御幸はそのことを知っている。だから、必要以上に多くは語らない。 否、語れないのだ。 けれど沢村は、そのことを知らない。このちぐはぐとした関係。 それが二人の間にすれ違いを生んでいることも御幸は分かっているが、それでもどう対処したらいいのかというところまでは分からなかった。 これだから、人間という生き物は面倒臭い。 妖と人は、所詮相容れぬ存在でしかないのだと、こんな時に感じる。 御幸が人に干渉することは少ないが、それでもやはり人との間に感じる隔たりは、いつの世でも変わらない。 漸く動くようになった足を踏み出す。周りを見渡してみるものの、まだ曇ったように視界がぼやけて、上手く沢村を探すことは出来なかった。 「…、」 死んだほうがましだったと思う時が来るかもしれない、と、あの時沢村に言った言葉を思い出す。 それは同時に御幸の、自分自身への詰問でもあった。 本当にこの子供を助けてもよかったのか、と。 そんな後悔が胸を過る。 今沢村を追いかけて見つけて、それから御幸が何を言ったとしても、沢村に伝わるとは到底思えない。けれど今はただ、その姿を探す。 妖という存在は、人よりも本来ずっと単純な生き物なのだ。 思わず勢いで、御幸を振り切って逃げてしまいました。 「……逃げて逃げられるわけでもねぇっつーのに…。」 下駄箱まで一目散で足を動かし、途中振り返ってもなぜか追いかけて来ないその影に不思議に思いつつも、誰もいない静かな下駄箱前で、走ったことによって激しく上下する胸元を抑えながら、深く長いため息とともにそう吐き捨てる。 元々後先考えずに物事を口に出したり態度に表わす俺は今日も健在で、けれど逃げた所で結局家では顔を合わせるんだろうし、ただ気まずいだけだ。 (…何やってんだろ、俺。) 何か重たいものを、ため息とともに吐き出す。 それは重く、歩みを止めた足元に落ちた。 分からない。 いろいろなことが起こり過ぎて、分からな過ぎて、苦しい。 自分の周りの世界が音を立てて崩れていくような感覚に襲われて、地に足をつけることすら怖くなった先にあったのは、ただひたすらに純粋な恐怖。 非日常は日常の殻も悔い破り、侵食していく。東条のことも、御幸のことも、周りのことも。何を信じていいのか、分からなくて苦しい。 そう、苦しくて。 御幸が近くにいるようになって、1週間。さすが毎日ほぼ寝ている時以外を共に過ごしていることもあって、少しだけ、ほんの少しだけ、居心地良ささえ感じ始めていた。 妖だってことを忘れそうになるくらいに御幸は普通で、態度は偉そうだし色々ムカツクこともあるけど、それでも流れる時間は、平和だった。だから俺はそんな時間の中で、少しだけ御幸が近く感じられたような気さえして。 それが多分、嬉しかったんだ、俺は。 けど、実際は違った。 御幸はいつだって自分とは違う世界を見ていて、俺なんて眼中にも無い。 共に過ごした1週間なんてそんなもの、所詮御幸にとってはとるにたらないものだったんだって感じて、それが酷く悲しかった。 肝心なことを何一つ教えてくれない御幸との間にどうしようもない距離を感じて、それがなぜかどうしようもなく俺をイラつかせた。 あの日から、俺の中で何かが変わってしまった。…御幸いわく、もっと前から俺は特別だったらしいけど、それでも俺の中で何かが変わったのは確実にあの事故の日だ。 あの日から、変わってしまった、全てが。 それはもう、認めざるを得ない。 だから俺は、理解したいと思った。御幸のこと、俺の知らない世界のこと…それらを理解したいと思ってた。 だけど御幸は違う。 御幸にとって俺は、結局ただの人間の一人でしかない。俺は数多くいる人間の中の一人。そう、“沢村栄純”よりも、前に。 俺はただの人間でしかない。 「沢村?」 突然名前を呼ばれて、ビクリと肩を震わせる。 一瞬御幸かと思って振り向いた先には、鞄を肩にかけて目を丸くてこちらを見ていた、 「…東条…。」 俺を見た東条が、少しして小さく笑う。 「また明日って言ったのにな。」 軽口を叩くように呟かれたその言葉と共に、クスクス笑う東条の顔は、今までと何ら変わりが無いのに。 けど東条も、ほんの数時間前までとはやっぱり違う存在なんだ。 「…東条…。」 妖。 人とは違う生き物。別の世界を生きる、違う存在。 俺の知らない世界。 俺の、踏み込めない世界。 その知らない世界を、御幸と同じように見ることが出来る、友達。 「ん?」 「…協力してくれるってさっきの言葉、今でも有効?」 顔をあげて、真っ直ぐ対峙した東条をじっと見つめる。 数秒だけ時が止まったように静まり返る。そのどこか張りつめた糸のようにピンと張った空気を緩ませたのは、ふっと洩らされた東条の笑みだった。 「……もちろん。」 どこか幻惑的ともとれるような笑みで、東条が笑う。それを見ながら少しだけきゅっと唇に力を入れる。 目線の先、東条が笑う。半分とはいえ、俺とは違って、その世界をよく知る人物。 御幸と同じ世界を、見れる存在。 「……じゃあ、俺に教えて欲しい。」 「…何を?」 全てを分かっているような目をして、それでも俺に続きを求めるその言葉に、息を吸い込む。 「妖の、ことについて。」 真っ直ぐ見つめた先、緩く弧を描く半円を見た。 「俺でよければ、いくらでも。」 (御幸が教えてくれないなら、俺だって自分で勝手にしてやる。) 何も知らないのは、 嫌だ。 「“全部”教えて欲しい。」 俺の知らない、世界のこと。 [TOP] |