10 | ナノ

10



願い事というものは。
永く願えば、いつか叶うものである。
永く、永く。
永久に。

それは気が遠くなるほど、永く。









強く。














実際学校に来てみれば、1時間たらずで正直来なけりゃ良かったと後悔した。
太陽が天辺にサンサンと輝く今となっては、大後悔だ。
思い出っつーのが美化されるのがひしひしと分かった。


「…鬼…。」


ぐったりと机の上に項垂れる。頬に当たる木の感触がとてつもなく気持ちいい。
鬼だ、鬼過ぎる、と何度も同じ言葉を繰り返す。


「ううう…鬼ー…。」


それは主に勉強的な意味で。
想像していた以上に、俺にとって空白の時間は強敵だった。覚悟はしてた。してたけども!


「先生ももうちょっと気使ってくれても…いいはずだ…!」


一応これでも怪我明けなのに。俺、死にかけたのに。つーか死んだのに。
それが現実には事故つっても怪我無し異常無し、ってことにされてるもんだから、困った。
学校ってのはそれほど甘いところじゃない。現実ってのは案外容赦なく襲いかかって来る。突っ伏す横に山積みにされた課題を前に、まだ午前しか終わってねぇってのに俺のライフはもう既に零に近かった。寧ろマイナスだ。


「自業自得だ、バカ。」
「いって!」


もう動かない左手でシャーペンを握ったまま、化石もびっくりなくらい固まっていると、頭に突然衝撃を感じた。瞬間、当たった場所が、鈍く痛む。
顔を上げるとそこには、呆れ顔のクラスメイトの姿。ため息交じりに俺を見下ろす金丸が、口を結んで眉を寄せて立ってた。その手には一冊のノートが握られていて、それではたかれたのだと悟る。


「おら、さっきの授業のノート。」
「…へ?」
「…いらねぇなら貸さねーぞ。」
「…!いる!いります!金丸大先生!」


さっきは俺への凶器となったそのノートを差し出してきた金丸が天使に見えた。
見えたっつーか、天使以外の何物でもない。今俺はお前の後ろに白い羽が見えんぞ、金丸。想像してにあわなすぎてちょっと吹いたけど。金丸!


「ううううお前っていいやつだな…!」
「テスト前に泣きついて時間とられるよりマシってだけだ。さっさといるとこだけ移して返せよ。」
「うう…もうこのノート全部丸ごと欲しい…。」
「…今すぐ返して貰おうか。」
「嘘ですごめんなさい冗談です全力で移します。俺の!ノートに!」
「…ったく…。」


ふぅ、と腰に手をあてた金丸が息を吐く。
あぶねぇ。天使怖い。
パラリとノートを開いて、とりあえずさっきの時間、あまりにも分からな過ぎて板書すら出来なかったノートの真っ白なページを開く。
びっしりと書かれたノートは別段整っているというわけでもなく、かといって汚いわけでも無く…その文字を何とかシャーペンを握って移し出す。めんどくさい。果てしなく。
そんな俺の様子を少しの間黙って見ていた金丸が、ふと突然思い出したように口を開いた。


「…コピー。」
「え?」
「コピーとりゃ済む話じゃねぇの?ソレ。」
「…あ。」


ソレ、と指さされたのは見かけによらずびっしりと整理されて板書された金丸のノートと、それに対比するように並ぶ俺の真っ白いキャンパス。
確かにそうだ。コピー出来ればそれに越したことは無い。越したことはない、が。


「…コピー機…。」
「別にそれ今日じゃ、」
「…そうだな、うん、そうだ!これは一か八か頼んでみるほか無い!あの鬼…じゃなかった、センセー達もそれくらいの情けはかけてくれるだろうよ!」
「は、?」


一気に元気になった俺の張り上げた大声に、金丸が不愉快そうに眉を寄せる。
その横で、音速を超えた早さでノート類を一気に纏め上げると、揃える余裕もないまま両腕に抱えて立ちあがる。目指すはコピー室。その前に職員室か。
残された昼休みはもう昼休憩の半分も無い。急がないと、と一度思った俺の頭からは、その他の情報や考えは全てシャットダウンされた。
自慢じゃないけど、俺は猪突猛進型だ。


「沢村、!」
「悪い金丸、ちょっとこれ借りんな!」


抱えたノートはそのままに、勢いに任せて次の瞬間には教室のドアをピシャリと二回大きな音を立てて揺らしていた。


「…別にそれ、今日じゃ無くてもいいっつってんのに…。」


金丸の落とした一言は、悲しきかな、俺には届かない。











「だあああああ!くっそー!あの鬼!悪魔!鬼ー!!」


足を思いっきり床に打ちつけて、ボキャブラリー貧困な罵り声を上げながら、昼休み終了目前の廊下を歩く。その足取りはとてつもなく重く、そして強い。
抱えたノートがずっしりと重みを腕に伝えてきて、それが一歩踏みしめるごとに全身から足に伝わっていくようにも感じる。踏み出す一歩が重い。今にも踏んだところから床が抜けそうなくらいのその地鳴りに、何事かと廊下に居た人が振り返っては、俺の形相に恐れをなしたのかすぐに視線を逸らされた。
今の俺は最高潮に機嫌が悪い。唇を尖らせて、眉を寄せてる顔はきっと般若のようだろうと思うけど、周りに気を遣えるほど余裕はなかった。


「コピー機くらい…貸してくれたっていいじゃねぇかよ…!」


予算だの、紙がどうのだの、私用がなんだの…なんだか小難しい言葉をつらつらと並べられて、お世辞にも良いとは言えない俺の頭では処理しきれなかったけれど、とにかく答えがノーということだけは分かった。勇んで出て来た分だけその落胆は大きく、折角善意でノートを貸してくれた金丸にも申し訳なくて食ってかかってはみたものの、やっぱり答えは変わらなかった。
どうして最近の学校はこうケチなのか。学ぶ側の人間にとってもう少し寛大でもいいじゃないのか。どうなんだ。


「それもこれも…全部あの疫病神のせいだ…。」


ずっと口には出せなかった恨み辛みが、いろいろなことが限界でついに口からポロリと落ちる。
ああ、そうだ。全部あの日から始まったんだ。あの忌まわしい事故の日。あれさえなければ、今こうして俺が苦労することも、これから教室に戻ったらまだ変わらず机の上に積んであるであろう課題と対峙しなくてはならない未来が待っていることも、全部全部無かったはずなのに。
あの日から、全部が変わってしまった。
その原因は、…まぁ、もとはといえば俺のせいっちゃ俺のせいではあるんだけども、でも今は他に責任転嫁しないとやってられなかった。


「…御幸のバカ野郎…。」
「…黙って聞いてりゃ、ひっでぇ言い草だよなぁ…。」
「…っ、!」


ひょこんと横から突如顔を出したのは、今思いっきり悪態をついた人物。
今まで一体どこにいっていたのか、あまりにも自然に姿を現した妖に、俺のほうが驚いて体が跳ねた。そんな俺の様子も特に気に留めることなく、ふぁ…といつものように欠伸を漏らした口元が、その直後ニヤリとニヒルな笑みを浮かべる。


「“命の恩人”に対して、それはあんまりじゃね?」
「う…っ、」
「それとも沢村クンは、あの時あの場所で、短い生涯を終えたかった、と。」
「そ、そんなことは言ってねぇ、けど…!」


そう言われてしまうとぐうの音も出ない。
人の痛いところをついてくる妖に、思わず足を止めて言葉も一緒に飲み込む。確実に大人しくなった俺の横で、御幸はそんな俺を見下ろしながら、ふっと小さく息を吐いた。


「あの時死んだほうがよかったって後悔するかもしれねぇって言ったろ。」
「え、…?」


ふいに御幸の声音が変わったような気がして、反射的に顔を上げた。
そこには、深く底の見えない濁ったような琥珀色がただ静かに佇んでいて、その目には一切の感情を読み取らせないような、どこか恐ろしさすら感じるほどの無が映っていた。


「後悔なんて、生きてる人間の贅沢だぜ?沢村。」


その目が、何も映さないその目が、人では無い別の生き物のその目が、俺を真っ直ぐに射抜いて捉えては、軽く笑う。
投げつけられた言葉と笑みに、思わず目を見開く。けれど、手に持っていたノートが先ほどまでよりもずっしりと重くなったような気がして、その場を上手く動けなかった。
この場の重力全てを一気に受けたみたいな奇妙な感覚。御幸はただそんな俺を、何も言わずにただ見ていた。

ただ、見ていた。


「みゆ、」
「………沢村?」


俺の声に、俺でも御幸でもない違う声が混ざって、ハッとする。
しまった、ここは学校、で。
御幸の姿は誰にも見えないわけで…。


(や、やば…!俺、不審者…!?)


声のした方を勢いよく振り返る。そこには、きょとんと眼を丸くした、


「…東条?」


朝一で顔を見た人物が立っていて、気付いたらその名前を口にしていた。
俺が名前を呼んだ瞬間、少しだけ見開かれていた瞳がふっと穏やかな色に変わる。その目に、疑心感や不信感が浮かんでいないことにほっとしつつ、近寄って来た東条に目線を合わせた。


「どうしたの、こんなところで、…ノート抱えてる沢村なんて、珍しい。」
「あー…っと、俺、暫く休んでたせいで授業わかんなくて…。」
「ああ…。もしかして、金丸辺りにノート借りた感じ?」
「…お察しの通りで…。」
「…そんでもしかして、コピー取りたくてコピー機探してた?」
「う…。」


探してたどころか、たった今撃沈したばっかりですが。


「図星だ。」


黙り込んだ俺に、クスクスと東条が笑う。そんなに俺って分かりやすいんだろうか。ここ数分の行動全部簡単にあてられてしまえば、返す言葉も無かった。
穏やかにいつも通り笑う東条を見ていると、どうやらさっきまでの会話は聞かれてなかったらしいことを悟る。
危なかった…。ついつい俺には普通にその場に“見える”もんだから、御幸が本来なら見えないものだって意識を忘れてしまうけど、傍から見ればちょっとした危険人物にもなりかねない。
チラリとさっきまで御幸のいた場所を一瞥すれば、もう既にそこにはあの妖の姿は無く、またどこかに姿を消してしまっていた。
どこに行ってるんだろうとは思うけど、今はその方が都合もいいから、まぁいい。


「…コピー、どうするの?」
「んー…仕方ねぇから、今日の帰りコンビニかどっかにでも寄ることにする…。出費痛ぇけど。」
「沢村、基本いっつもお金無いって言ってるもんね。」
「高校生は食費に金がだな…。」
「うん、それはよく分かる。」
「だろー…。ちくしょー…マジ最近ついてねー!俺!」


はぁ…、と小さくため息をついて肩を落とす俺に、何やら思案顔の東条が一度視線をさまよわせた後、「ねぇ、沢村。」と小さく俺の名前を呼んだ。
それに弾かれるように顔を上げると同時に、チャリッと小さな金属音が耳に響く。


「、え?」
「…内緒に出来るって約束してくれる?」
「東条、それって…。」


目の前で揺れる、銀色の鍵。事務用みたいなプレートが付いたそれは、さっき俺がいくら頼んでも手にすることが出来なかった代物だ。


「実は俺、ちょっと用事頼まれて、今印刷室の鍵持ってたりするんだけど。」


…俺ってついてない、って思ってたけど。


前言撤回。
ただ今絶賛、運気上昇中かもしれん。

…と、この時の俺は思ってたわけだ。











「マジホント!東条って何者!?神様!?」


ガシャンガシャンと重たい機械の動く音が辺りに響く。思うに学校にある大型の印刷機の立てる音って、今にも壊れちまうんじゃねーかってくらい変な音がする。
だけどまぁ、正常にコピーは進んで行ってるから細かい事は気にしない。時計の針は既に短針も長針も下りにかかっていて、きっとこれが終わる頃には校舎の中も閑散としてしまってるに違いない。
夕方になっても夜にさしかかってもまだ日が落ちないこの時期は、部活動にも熱が入る頃だけれど、もうすぐテスト期間だってこともあってか、最近じゃ下校時間間近になると人もぐっと減る。
昼休みに東条から持ちかけられた話を決行するには、それはちょうどいい具合の静けさだった。


「別にそんなに大したことしてないけどね。」
「いーや!俺にとっては神に等しい行為だった…。」
「役に立てなのなら何よりで。」
「役立つどころか大感謝!あ、お礼は弾むからなんか考えといて!」
「あはは、お礼なんて別にいいのに。」
「いいからいいから!…あ、あんま高ぇのは無理だけど。ほら俺金欠だし。」
「うん、それは分かってる。」


胸を張って言うことでもないけど、同じ高校男児の東条には、どれだけ高校生が貧困なのかはきっと分かってくれるはず。
クスクス笑うその笑みに、つられて頬を緩めながら、フル稼働してくれているコピー機に触れる。
学校所有のその大型機械は、現在俺を助けるために一生懸命働いてくれてる。完全に私用だけども、勉強の一環なわけだから許して欲しい。


「でもさ、あれだな。東条とゆっくり話すのもなんか珍しい気がする!」


ふと、手持無沙汰の時間にそう問いかければ、俺の言葉に一度頷いた東条がゆっくりと言葉を返してくれる。


「そういや、そうかも。」
「金丸とか春っちとか降谷とか…、あの辺で一緒にいることは多いけどな。」
「まぁ、部活が一緒だとついつい固まるし。」
「特に野球部なんて、部活以外はもういろいろ必死だし!」
「それは沢村と降谷くらいだと思うけどなぁ…。」
「う…。」
「…まぁ確かに、ゆっくり話したことはあんまりないね。言われてみれば。」
「だろー?だからなんか変な感じ。」
「でも俺は、沢村とこうやって話せるの、なんか嬉しいけど。」
「へ?」
「……ほら、あんまり部活でも話さないし。降谷と沢村は別メニューなことも多いから。」
「あ、ああ!そういうこと!」


そう言われれば、そうかも。
段々と入学してから時間も経って、一緒に居る奴らも固まって来てるってのものあるし。


「…俺も東条とゆっくり話せんの、なんか嬉しい。」


だから思った通りにそう言えば、少しだけ意表をつかれたように東条が目を見開く。
なんか変なこと言ったかと思ったけど、さっき言われたことをそのまま返しただけであって…。
小さく首を傾げたら、「それはありがとう。」とお礼の言葉が返って来た。…とりあえず間違ってはなさそうだ。


「それにしても、すっげー偶然だよなぁ。」


途切れた会話から少しして、そんな俺の言葉が賑やかな室内にぽつりと落ちた。


ガシャン、ガシャン。
ゴウン、ゴウン。

機械音が鳴り響く。ピー、と印刷終了の音が鳴ればページを変えて、また同じことを繰り返す。
結局あれから、どうせならってことで殆どの教科のノートを半ば頭を下げて頼みこむ勢いで金丸から拝借したノートは結構な量があって、思ったより時間がかかった。
テスト前だから部活もそこまで熱心ではないけれど、東条だって暇じゃないんだろうに付き合わせて申し訳なく思っていたら、別に平気だと向けられる笑みに、菩薩かなんかを拝むのと同じくらいの有り難さを感じた。
今の俺だったら、称えろと言われれば簡単に東条のことをよいしょ出来る気がする。つーか頼まれなくても何ならする。
それくらいの感謝の念を心の中で何度も捉えながら、もうそろそろ終わるであろうノート類を見ていると、入口付近にもたれかかっていた東条が微笑む。


「…偶然?」
「そ。あの時東条に会えなかったら、今こうしてノートもコピー出来てねぇし…。」
「…そう。偶然、ね…。」
「…東条?」


コピー機から飛び出してくる白い紙を、なんとなしに目で追っていれば、どこか探るような東条の声に、顔を上げた。
さっきまで、入口のドア辺りに立っていたはずの東条が、一体いつのまにそうしたのか、気付けばすぐ後ろに立っていて、振り返った時の距離の近さに思わずビクンッと大きく肩が揺れる。

いま。
足音一つ、物音一つ、しなかった。

(…え?)

確かにコピー機は相変わらず音を立ててはいるけれど、気配も無く佇むその姿に変な胸騒ぎが走る。それは何も根拠のない、予感。


「東条…?」
「沢村さ、」
「ん?」
「偶然だったと思ってる?さっきの。」
「え…?」
「俺が、“沢村の欲しいもの”を持って、あの場所に立ってたのが、偶然だったって本気で思ってる?」
「本気でって…。」


違う、のか?


本当にそう思ったから、そう言った。
東条のこの行動に、別に疑問なんて一つも。
だって。


「用事が…あるって…。」


一歩後ずさったけれど、そのかかとが大きな機械にぶつかる。ピー…、と印刷が完了したことを告げる音が鳴り響くけれど、さっきまでのようにまた次のページにノートが開かれることはない。
後ろには印刷機と、前には笑みを浮かべた東条と。
一体どういう状況なのかさっぱり分からない。ただ、からかわれてるにしては異様過ぎる状況だってことは分かる。


「そういうところは、沢村のいいところだよね。」


にっこり、と。
擬音が付きそうなくらい綺麗に笑うその顔に、ゾクリと背中を走ったのは、



恐怖にも、似た。



「…朝視たときから思ってたんだけど。」



その手がゆっくりと俺の頬に伸びてきて、細い指先が頬に触れる。
頬骨を擽って、輪郭をなぞるように落ちて来た人差し指に顎を捉えられて擽られる。細い指。だけど男の硬い皮の被ったその指は、静かに俺の下唇に触れて、まるで何か壊れ物にでも触れるような柔らかさでその弧をなぞり上げた。
まるで恋人にするみたいなその仕草に、一瞬動くことを忘れる。その目にまるで縫いとめられたように動けなくなる。



「なんだか沢村、すごく、…美味しそう、」
「え?」


おいし、そう?



人に向けるにはおおよそ不似合いなそおの言葉に、思考が止まる。
東条から向けられるにはあまり考えられないからかいや冗談の言葉に、反応が遅れた。


「なんだ、それ、なんの冗談…。」


ははは、と笑い飛ばそうとして口を開いたら、思いのほか乾いた笑い声が漏れる。
顔に触れる温度が、冷たい。
真っ直ぐに見据えた目が、俺を見るその目は、まるで。

(…御幸…?)

あの妖に酷く似た色をしたその目に、今度こそ明確な恐怖を感じた。
その底冷えのする、何か別の場所を映したようなその目。今まで見たことの無い、東条の顔。

間に流れる空気は冷たく。あの底冷えするような黒い闇を彷彿とさせた。


「…とう、じょ…、っ、」


なんとか、名前を吐き出す。

けれど、それを呼びきるより前に、どこにも窓なんて無いはずの閉鎖的な印刷室に、突如思いっきりどこからか分からないような風が吹き込んだ。
瞬きをする余裕も無く、景色が変わった。

その風によってバラバラと室内の紙が飛び散って、天井へと舞いあがる。
純白が群れを成して吹き上がり、やがて勢いを失って降って来る。
まるで羽音のような轟音が、辺りに響く。


「は、…!?」
「…だーから、どこまで無防備なの?お前。」
「み、み、みみみみ、みゆ、き…!?」


さっきまで東条が触れていたはずの頬に、後ろからするりと回る腕。
印刷機の上にストンと足音を立てて降り立ったらしい御幸の茶色の髪が、パラリと顔に落ちた。
覗きこまれる目が、ゆっくりと俺を映す。頭を抱きこむようにしたまま、重力を無視したような体勢で覗きこんでくる妖に驚いて、思わず名前を呼んでしまってからハッとした。

(しま、…!これ、東条には、見えねぇ、って…!)


とんだポルダーガイストだ。
風の名残を残した室内に舞い散る紙が視界を遮る中、さすがの東条でも驚くだろう、と思って、前方を見れば、そこには案の定驚いたのか目を見開いた東条の姿があった。

ああ…弁解のしようが無い…。


「あの、」
「沢村…。」
「お、おおおう!?」


案の定目を丸くする東条の顔。
だけど次に聴こえて来た言葉に、俺は自分の耳を疑った。


「…それ、誰?」
「…え?」
「それ。今、沢村の後ろにいる…。」


…え?

(見え、てる?)


どうして。
なんで?

だって御幸は、俺にしか見えないはずで。
今までだって、どれだけ街中に居たとしても、その姿を目視出来る人間は、誰ひとりとしていなかった。
だから今も、東条にとっては突然部屋の中が暴風で荒らされたように見えた、不可解な現象が起きたように捉えられたはずで。
けれど東条の目は、はっきりと俺の後ろの、御幸の姿を捉えていた。
憮然とした態度で佇む、偉そうな態度の妖を、真っ直ぐに見つめていた。


「なんで…。」
「…沢村の知り合い?」


問いかける東条の言葉に、なんて返していいのか分からない。ただ戸惑ったように、あー、だとか、うー、だとか、そんな意味の無い言葉を呟くしか出来ずに立ちすくむ。
知り合いといえば、そうだけど。
御幸が見えないのもまたいろいろと問題だけど、いざ、その存在を説明しろと言われれば返答に困るものがある。
だってこいつは、一言で語れるような存在じゃない。
寧ろ、どれだけ言葉を募ったって、なかなか信じて貰える代物ではないくらいだ。

どうしたらいい。どうしよう。
その二つがぐるぐると頭を犇めく中、言葉に困っている俺の横で、落ちる気まずい沈黙を破ったのは、低く、どこか聴く者の耳を擽るように響く重い声だった。


「…誰、はお前にそっくりそのまま返してぇんだけど。」


その声に、振り返る。
俺をその腕に抱く男、…否、妖が、怪訝そうに寄せた眉にくっきりと皺を作ったまま、少しだけ距離をとっていた東条の方を睨みつけるように見据えた。
投げつけられた声と、それを受ける東条の、――微笑みと。
そして間に挟まれる俺の、困惑。
そのすべてが混ざって落ちる異様な空間で、頭を抱く御幸の手に少しだけ力が籠るのを感じた。



「なんで、“お前みたいなの”が沢村の傍にいるわけ?」



凛とした、御幸の声が響く。
パサリ、と乾いた音を立てて先ほど舞いあがった紙が地面や机の上に落ちた。


「え?」
「…ああ、やっぱり。」


戸惑う俺とは裏腹に、どこか納得したように頷いた東条が、顎に乗っけた手をゆっくりと動かす。
何が“やっぱり”なのか、俺には全然全く意味が分からない。
けれどその東条の言葉で何やらこちらも確信を得たらしい御幸の雰囲気が、更に重くなったのが分かった。


「そこの人、…妖、だろ?」
おれと、おなじ。


東条の口から出た言葉に、ぽかんと一瞬間が開く。

あやかし。
…って。


「…、は?え?…ええええ!?」
「…やっぱりそうか。」
「やっぱりって、え!?え?ちょ、まっ、意味が…!!」


ため息をつく御幸に、一人状況を呑みこめない俺はあたふたと体を揺らす。
なんだか俺一人だけパニクってて、それはもう不審者この上なかったけど、そりゃ戸惑いもするだろう。だって。

御幸が見えるのはいい。よく無いけど、いい。そういう人もいるのかもしれない。
だけど今東条は確かに御幸のことをはっきりと、妖だと言った。そういう存在に対して、疑問一つ抱くこと無く、それはもとより確信のある言葉みたいに、そう言った。
そして聴き間違いじゃ無ければ。


「同じ…?」


同じ、だと。
御幸と同じだと。そう言った。それはつまり。


「東条…?」


にっこりと笑うその顔は、いつもと変わらない。東条の顔だ。
だけど俺の後ろでその顔をじっと見ていた御幸が、その片方の手で東条を指差す。

俺はこの時、神様なんていないってことを本気で悟る。
そして。
俺はやっぱり世界で一番不幸なんじゃないかと、本気で思う。




「あれは化け猫の血が流れてる、正真正銘の妖だぜ?」




日常に戻れば平和が待っていると信じていた俺の何かが大きく根っこから崩れる大きな音がした。






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