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どぷん、と濁った音がして、全身が何かに飲みこまれたみたいな感覚に襲われる。 ゆらゆらと、頼りなく揺れる体。底のない水面にゆっくりと深く沈み込んでゆくようだった。けれど不思議と恐怖や不安は無い。 まるで眠りにでも誘われる時の甘いまどろみにも似たそれは、いっそ心地よささえ与えてくれる。指先まで微細に神経が張り巡らされ、その全てが一つ一つ独立して研ぎ澄まされてでもいるかのように感じるのに、なぜかその指先すらも上手く動かすことが出来ない。どこか浮世離れしたその甘やかさの中に、ジワジワと体と空気の境界が朧げになっていく。そんな感じだった。 穏やかな水に全身あますところなく包容されるような、いっそ母体の羊水に包まれる胎児に返ったような、それはなんとも形容しがたいそんな無償の安心感の中に漂っているようだった。落ちているのか、浮かんでいるのか、それすらも分からない。 (なんだ…これ…?) そのまどろみの中、次第に意識だけがクリアになる。視界は全く役に立たないけれど、聴覚だけはなぜだか明朗で、その無音を鼓膜が捕えた瞬間に、ああ俺はこの感覚を“知っている”と、反射的にそう思った。感じた、というのにも近い。 実際感じただけではなく、いつも以上によく働く脳が記憶の中からその感覚の正体を弾き出す。俺は確実に過去に一度…いや正確には二度、これと同じような状況を経験していた。 この空気、この空間、この場所、時間、感覚、音、視界。 目を瞑っているのか開いているのかすら朧げになるような黒は、前に見た時と変わらない。頬を撫でる風も、相変わらず生温かく産毛を柔らかく撫でた。 『うしろの正面だぁれ』 『だぁれ?』 『みつけた、みつけた、』 クスクス、クスクス。 その空間にこだまするように聞こえてくるのは、意識が途切れる寸前まで聴いていたどこか昔懐かしい童歌。それを、男とも女とも、子供とも大人ともつかない声が口々に、輪唱でもするかのように囁く。 壊れたラジオみたいに耳につくノイズの混じる、耳障りな声だった。 ネジ巻きをなくしたオルゴールのように、同じ言葉ばかり何度も何度も繰り返し歌う。それはこびりつくように耳の奥に張り付いて、なかなか消えようとしない。 かごめ、かごめ かごのなかの トリは、 『あげない、あげない』 『出してあげない』 『だってせっかくつかまえタ、』 それはまるで子守唄のようで、その声が次第に大きくなると段々と唯一鮮明だった意識すら濁って少しずつ何も考えられなくなっていく。飽和したみたいに意識が溶ける。今にも握っているその意識の断片を手放してしまいそうだった。いっそ離してしまったほうがきっと楽なのかもしれない。だけど本能の奥の方が、それを無理矢理に引き止める。 離してはダメだと鳴らす警鐘が体中に響き渡る。 (……ここは、どこだ…?) だから意識を散らさないように、必死に思考をバラバラと巡らせた。 現実でないのは分かる。 けれど、夢でもない。 ここは、あれだ。多分、いや絶対。 (御幸に、会ったところに似てる…?) つい最近経験した臨死体験の時にいた場所にそっくりだ、と思った。さっき感じたのと同じことを、はっきりと心の中で言葉にする。闇の深さも、何とも言い難いこの不思議な感覚も。そっくり。でもあの時より少しだけ嫌な感じもする。その不思議な感覚に、あの時は感じなかった恐怖が軽く全身を走り抜けた。 そんな中、最近なんかこんなのが多いなぁ…と、なぜか頭は冷静だった。いっそ怖いくらいに。慣れってのは、ある意味相当危険だ。 (御幸。) 一度、心の中で強く名前を呼ぶ。 これが、あの時の場所と同じようなものなら、俺にはどうすることも出来ない。何が起きたのかは分からなかったけど、それは分かった。ここは多分、人が介入出来るような世界じゃねぇんだ、きっと。あの時だって俺は、指一つ動かすことが出来ずにいた。 でも唯一、動く場所があった。 「……み、ゆき……、」 口を開けば、喉を伝って声が出た。自分の声が、空間に混ざる。不協和音の中、呟いたその短い言葉は微かな音だったはずなのに、妙にはっきりと響いた。 どうしたらいいのか、何をするのがベストなのか、方法なんて何一つ分からなかったけど。 守ってやる、と、アイツは言った。 なら、守ってみせろよ。 なぁ、仮にも俺を、主人と呼ぶんなら。 契約だと、あの妙に美麗な妖が最初に紡いだ時に呼んだように、強く。 舌がヒリヒリと痛んだ。咎められるようなその痛みに眉を潜めるものの、それはぐっと力を込めてやり過ごす。 御幸。 御幸。 『どうして』 『どうして?』 『まだ、だって』 『嫌だ、だって』 御幸の名前を呼ぶ度に、歌声が弱まっていく。一人、また一人と輪唱の輪から外れていくように、夏の夜の蛙のような合唱はやがて次第に微かな囁きへと変わっていった。その声が震えて、怯えのような色が混ざる。 「……、…来いよ、御幸…っ、」 そんでさっさと、俺を助けろ。 唇がそう言葉を呟いた瞬間、辺りにある音全てを一気に掻き消すような風が吹く。 こんな暗闇に、一体どこから。 そう疑問を持つのももう何回目だろう。 「……見つけた。」 それは、“かごめ歌”の終焉。 「…ったく、こんな小物が俺の獲物横取りしようなんて、1000年早ぇわ。」 楽しそうな声が聞こえる。 この声は、知ってる。 御幸、と一度名前を呼んだ。心内で呼んだはずのその言葉に、なぜか「なんだよ、そんな弱った声出して。」と御幸から返答が返って来て、驚く。 …けど、弱った声なんかこれっぽっちも出してねぇ。その反論には答えは返って来なかった。 「遅ぇし…。」 「っとに、注文の多いゴシュジンサマだな。沢村。」 悪態を吐く俺に、御幸が小さく笑う。 その声に俺も自分の口角が少しだけ持ち上がったのを感じた。 『ドウシテ』 『ド…、シテ』 それにすっかりとか細くなった童歌の声が、ざわざわと葉がこすれ合うような微かな音を紡ぐ。 風の音に今にも掻き消されてしまいそうなその声は、さっきまでとは違ってただひたすら弱弱しさだけが伝わって来る。 「俺のマーキングに気付かず踏みこんできたお前らが悪いよ。」 御幸のどこか呆れたような声が聞こえて、次の瞬間、空間全部を薙ぎ払うみたいな風が吹き荒れる。 「…お仲間にも伝えといたほうがいーぜ?消されたくなかったら、コイツに近寄るな、って。」 そんな言葉だけを残して、唯一残っていた意識が一気に拡散した。 「おーい、」 「ん…、む…、」 「さーわむら。さわむらー?起きろ、ほら。」 「んあ、…」 「あーんま無防備に寝てると、食っちまうぞ?いいの?」 「あがっ!?」 なんか寒気!寒気来た今! 体が発した何かを感じ取って、勢いよく体を起こす。ガバッと擬音語でもつきそうなくらいの、それはもうすげぇ反射神経だった。人類の限界軽く超えてた。今。 かっぴらいて瞳孔丸まった目で、きょろりと当たりを見渡す。 あれ? っつーか、体を起こす…って、いつの間に俺、寝て…? あれ?俺確か普通に…学校に行く途中で…。 「………!が、学校!!」 ハッとして周りを見渡せば、なぜか尻の下には見知らぬベンチ。さやさやと音を立てる緑色の木は妙に清々しい。 視線の先、見上げた空は茜色。 「お前まず一言目いっつもそれな。」 「え?え?あれ!え?」 その横に現れる、相変わらず見慣れないムカツク美系。…御幸だ。 何で御幸?いや、まぁ御幸はいるだろうけども。いねぇほうがいいけど、まぁ仕方ない。居るだろうけども。 今の問題はそこじゃない。なんで夕方?なんでこんなところに? 俺の記憶が正しければ、さっきまで俺は爽快にチャリを飛ばして、朝の爽やかな通学路を走ってたわけで。間違ってもこんな状況、全く身に覚えが無い。 「ど、どこだここ…?」 「公園のベンチ。にしてもお前よく寝れんね。こんな寝にくそうな場所で。」 「寝っ…!?」 「それはもうぐっすりと。」 「は!?え?あ?あぁ…!?」 「お。混乱してる混乱してる。」 なぜにアンタはそんな楽しそうなんですかね。 口元にあてた御幸の手の間からクツクツ笑い声が漏れる。 それを意味が分からなくて睨めば、手の離れた口元がだらしなく歪んでるのが見えた。 「ほら、落ち付いたらゆっくり思い出してみろよ。…覚えてるだろ?何があったか。」 「思い出すって…。」 「カゴメ歌に引っ張り込まれたんだって。お前。」 「…………あ。」 そうか。そうだ。思い出した。 なんか寝起きみたいに頭がぼんやりしてたからよく分からなかったけど、御幸に言われた言葉にさっきまでのことを一気に思い出す。そうだ、カゴメ歌。 「そうだ…俺、急にまたあの真っ暗なトコに…。」 「真っ暗?」 「…違うのか?」 「…。…ああそうか…お前人間だもんな。」 「立派に人やってますが何か。」 「……説明面倒だからそこは省くけどさ、」 「は!?省くなよ、そこは!!」 「行間読んで。」 「そもそも行がねぇえええ…!」 「カゴメ歌ってのはあれだな。六道の…まぁいわゆる、黄泉の国と現世を繋ぐ歌なんだわ。」 もうまるっと俺の言うことは無視する方向なんですね。 …まぁいいけどさぁ…。よくねぇけど…。 「黄泉…?」 (ってあれか。死後の世界とかいう…。) ぼけっと首を傾げると、御幸がコクリと一度頷いて腕を組む。 「そ。今回の奴は…お前が聞いてた声は、妖の、っていうより、つまりあれだ。いわゆるお前がさっき言ってた、幽霊に一番近いもんだな。」 「ゆうれい…。」 「人が多いトコにはこの手の奴が多くてさー。公園とか、学校とか。街中とか。だから、行くの?って聞いたのに。お前いくって聞かねぇし。」 「そ、…っ…!」 そういうことはだからきちんと説明しろ!!! 思わず叫んだら、上手く耳を塞いだ御幸に避けられた。…予知能力でもあるんですかアンタ。 「でもまぁ結局助けてやったし、結果オーライってことで。」 「…ちなみにお前が助けてくれなかったら俺って…。」 「そのまま天国へ直行便。」 「のおおおお…!!」 「まぁだから結果オーライだからいいじゃん。」 「よくねぇし!ぜっんぜん!これっぽっちもよくねぇし!!」 「ま、とりあえずあんなのに狙われんのなんてこれから日常茶飯事だから、くれぐれも気を付けるよーに。」 「なにを!?どうやって!?」 「……とりあえず、危なくなったらその馬鹿みてぇにデカイ声で叫んでみれば?」 「さけ…ぶ…?」 ニヤリと笑う御幸が、俺を馬鹿にしたような目で見下ろして来る。…この性悪男め。 「御幸サマ助けて下さいお願いします、って。」 ほんとこいつって、知れば知るほどムカツク男だと心底思う。 だけど助けられたのもまた事実なわけで、何とも反論しようがないのが悔しい。 俯く俺の耳を、小さく御幸が息を吐く音が掠める。 「ホントに気つけろよー?お前は俺のモンなんだから。」 「は…!?」 「誰の餌なのか、自覚を持って行動してくださいってこと。」 「…そもそも俺は餌になった覚えはない。」 「俺に食われるって約束したじゃん。」 「う…。」 「ホント頼むぜ、沢村。」 …俺は一体どういう反応するのがベスト何ですかね、こういう時。 やれやれと言った風に肩を竦める御幸に、立ち尽くすしか出来ない。何とも微妙な立場だ。 俺も小さく息を吐いて、また巻き込まれた摩訶不思議事件にぐったりと脱力するしかない。 「……つーか…今日は1日調子よかったのに…なんでいきなりこんなことに…。」 「それはお前が、」 「…?俺?」 「………あー…、気抜いてアホ面してるから?」 「顔の問題!?」 顔を顰めて御幸を見れば、一瞬だけどこか歯切れの悪そうな苦笑を浮かべたようにみえたけど、瞬き一つの間にそれはすっかりと消え失せていて、見間違いかと思うくらいの速度だった。 (…なんだ?) 御幸、と名前を呼ぼうとすると、突然、カァ…と虚しく飛んでいく烏の鳴き声が響く。ふと空を見上げれば、さっきまで茜一色だった空にいつのまにか夜の暗さが混じって来ていた。 茜、色…。 ……ん?茜色? 「ああああああ!!」 「なんだよ、いきなり叫ぶなって…。」 「が、が、が、学校!!」 急いでポケット探ってごそごそと携帯を取り出して液晶画面を開く。頭じゃ何となくもう分かってたけど、そこに弾きだされたデジタルの数字を見て、思わずその場に膝をつく。 遅刻どころの騒ぎじゃない。 「…下校時間…。」 「それはそれは…。」 「俺はいつになったら学校に行けるんだ…。」 「さあ?明日には行けるんじゃね?」 「他人事だと思って!!!」 「そりゃ、ヒトゴトだし。」 しれっと言い切る御幸のなんて憎たらしいこと!! 結局1日無駄にしちまったし…。厄日だ…最近ずっとだけど。 ため息をつきながら携帯を見れば、新着メールの受信のランプがともっていて、とりあえず機械的に開く。こんな時に見るメルマガほど、虚しいもんはない。 「…あれ?」 そのメルマガの中に、一つだけ見知った名前を見つけて、ぴたりと携帯を操作していた指が止まる。 横で欠伸をしながら伸びをする御幸が自転車の方にひょこひょこと向かう。親指でセンターボタンを押すと、開かれた文面にさっと目を通した。 「…メールなんて珍しい。」 「ん?」 「や、別に。…っつーかお前、帰りも乗る気かよ?」 「じゃねぇとお前、誰もいねぇのに勝手に動くチャリに乗る怪しい少年になるけど。」 「歩くって選択肢はないんですかね!」 パチンッと携帯を閉じて起ちあがると、大股で御幸の待つ自転車の方に向かう。夕暮れ時の空の流れは早い。すっかりと黒に染まりつつある宵の空を見ながら、ポケットに携帯をまた突っ込んで、行きよりも幾分か感じる自転車に跨った。 「明日は絶対学校に行くから、な!」 「ハイハイ。」 そう高らかに宣言して、ペダルを一歩踏み込む。本当に俺って可哀想な人間。 それにしても。 (…めっずらしーの。東条が俺にメールしてくるなんて。) ガシャガシャと二人分の体重を乗せた自転車の音が、夜空が顔を出す静かな空の下に大きく響いた。 [TOP] |