01 |
小さい頃、事故に遭った。 その時のことは、本当によく覚えて無い。 覚えてるのは、そう、空を覆い隠す程に生い茂る緑と、その隙間を埋める黒。全身が二つに引き裂かれたみたいな熱さと、静かなはずなのに耳の中が煩くて塞いでしまいたくなるような感覚だけ。 声帯を震わせて、何かを叫んだ。だけど果たしてそれが声になっていたのか、どうか。 縁取られた世界が遠のいて行く。その中で、一つだけ覚えている声があった。 『死ぬのが恐いか?子供。』 それはまるで森の木々が葉を擦り合わせるような音に似ていた。聞こえるというよりも、聴こえる。煩かったはずの耳に、はっきりと響くその声に、俺はなんて答えたんだろう。 『助けてやろうか。俺が。』 『ここで人に死なれるのも、面倒だしな。』 『それにお前、』 『一度だけ、助けてやるよ。人間のガキ。』 『だけど一度だけだ。一度だけ。それを忘れるな。』 その時のことは、本当によく覚えて無い。 『助けて欲しかったらその口で、俺の名前を呼ぶといい。』 燃えるような喉を、動かした。音が風に混じる。空間を満たすような、たった一言に、俺は。 『ただし、同じ願いを、願っていいのは一度だけ。』 その時のことを、目が覚めた俺は何一つ覚えていなかった。 俺の朝は毎朝毎朝、それはもう大忙しだ。 起床だってそんなに遅くない。寝坊だってする方じゃない。寧ろ、朝起きてから欠かさず毎日早朝ランニングに出かけるくらいには、健康かつ健全な毎日を送ってる。6時の起床、1時間のランニング、それから用意しても8時20分の始業時間には充分な時間がある。学校にだって片道チャリで20分くらいだから、全くもって問題無い。 だけど悲しいことに俺は、既に入学3か月くらいで生活指導の先生に目を付けられるくらいには遅刻の常習リストに名前が挙がるようになっていた。 寝坊してるわけじゃない。遅刻だってしたくてしてるわけでもない。家だってちゃんと、7時半には出てる。 だから原因は、決して俺のせいじゃない。 「だーーーもーーー!またなんか変なのきたーー!!」 バッグをチャリのカゴに突っ込んで、ダッシュすること数分。 いつもの道、いつもの交差点、いつもの曲がり角。学校までの通い慣れた道を、慣れた様子で自転車かっ飛ばして進んでいると、家から少しだけ離れた場所で、また今日も俺は“ソレ”に出会った。 キッと甲高いブレーキ音を響かせて止まった先、前輪から数センチってところにうじゃうじゃと溜まる小さなネズミくらいの大きさの黒い物体。ゴミのように見えるそれらは、思いっきり小さくだけど確かに蠢いていて、俺の進路を明らかに妨害していた。 「毎日毎日、なんなんだよこれ…!」 その奇妙な物体を見るのは何も今日が初めてじゃない。というよりもむしろ、最近の俺を悩ませる原因が、これだ。 生き物のように見えて、生きてるものじゃない。まるで影の塊みたいに動く黒い物体は、目算だけでも20近くあった。特に何をしてくるわけでもなく、俺の進路をただ妨害するように集まっているだけ。今日はこの大きさだけど、昨日はちょっとデカイ大型犬くらいの大きさの影だった。 この、毎日日替わりでそれはもう食堂のおばちゃんの日替わり定食もびっくりなくらいのバリエーションを見せる影が、生き物じゃないって気付いたのも、随分前の話だ。 これを初めて見出したのは、中学を卒業する頃だから、今年の春だったはず。ある日いきなり、突然こんなものが見えるようになった。それは何も登校中だけじゃない。外にいると、こんな得体のしれない影に突然出くわす。けれどそれらは何か危害を加えるでもなく、ただそこにあるだけ。しかもそれが、俺にしか見えないということに気付くのはすぐだった。 「何なのかな…これ。」 自転車を降りて、道端に止めると、道路にまではみ出るくらい溢れているまっくろくろすけに近づく。 近づいても、うねうね蠢くだけで、それ以上動いたりすることもない。大人しいもんだ。だけど、俺の進行を妨げるそれらを退けない限り、俺は学校に行くことが出来ない。そう、俺を悩ませる遅刻の原因は、この意味不明な影だった。 毎朝こいつらを片っ端から片づけてから学校に行くと、時計の針はもう朝礼の時間を軽く回っていて、手こずる時には1限が始まってることもある。 意味不明なこの怪奇現象は俺の生活を完全に狂わせてくれてる。だけどこんなこと、誰かに言っても信じて貰えない。 そっと手を伸ばして、影の一つに触れる。すると、その影は俺が触れた瞬間に、まるで蒸発でもするみたいに突如バラバラになって消えた。消すのも簡単だ。こんな風に、触れるだけでいい。ただ少しだけ触れれば、勝手に消えてなくなってくれる。数が多ければ大変は大変だけど、でも、ただそれだけだ。これが何かと考えたこともあったけど、こう毎日続くんじゃ、考えるのもいつしか億劫になって、とにかく早く学校に行かないという意識だけで、まるで毎朝の恒例の作業のようになりつつあった。 面倒なだけで、他には特に問題を被ることもないし、だったらまぁ…と段々感化されてきたのかもしれない。 何なんだろう、とは今ももちろん考える。幽霊?怪奇現象?七不思議?だけどそんな考えても意味の分からないことより今は、一秒でも早く学校に行くことのほうが先決。 「今日は数ばっかいんな…くっそ…だーもーめんどくせー!」 動かないだけましだけど、それでもめんどくさい事に変わりは無い。 とにかく早く。傍から見たら俺は相当不審者なんだろうけど、こればっかりは目を瞑って貰うしかなかった。 あと5個、4個、3個…。機械的に処理しては、消していく。どうして触るだけで消えるのかも、良く分からないけど。なんで俺だけにしか見えねぇのかも、わかんねぇけど。 「あと、1個…。」 ぶはっと息を吐いて最後の一個に手を伸ばす。 今日こそ遅刻はごめんだ。もうそろそろ、言い訳のネタも尽きた。面倒くさいし、たまには優雅に俺だって教室に入ってみたい。クラス全員の視線を一身に受けるのはもう沢山だ。 最後の一つに触れた瞬間、それは跡形も無く消える。小さくため息をついて膝を軽く払えば、体を翻した。 けれど。 「…え…?」 振り向いた先、目の前に迫る、 真っ黒の。 真っ暗な。 考えるより先に、耳を劈くようなクラクションの音が響く。 だけどそれもすぐに聴こえなくなって、視界も一気に消えた。 ああ、いざとなった時、世界がスローモーションになるなんて嘘だ。嘘っぱちだ。だって一瞬だった。考える暇も無かった。何が起きたか、頭が処理してくれなかった。 なぜか、変な角度で地面が見える。真っ直ぐ向いたところに空があった。 体全体が燃えるように熱かった。まるで炎に、焼かれるみたいな。 (何が、起きてんだ?) 俺に。 今。 何が。 分からない。 鈍くなって、処理するのをやめた頭には、何も分からなかった。 なんでだろう。頭の中、何かがぼんやりと浮かぶ。これじゃまるで走馬灯だ。おかしいな。走馬灯って死ぬときに見るやつなんじゃ、なかったっけ。 なんだこれ。 まるで、俺が、死んでしまうみたいな。 さっき、いつもと変わらず家を出て来たばかりなのに。まだクリアしてないゲームだってあったのに。昨日の夜に残して置いたプリン、こんなことだったらもう一つも食っちまえばよかった。嘘だ嘘だ。なんで。こんな夢みたいなこと。ああ、そうか、もしかしたらこれは夢なのかもしれない。そうだ、絶対に夢。夢に違いない。だってそうじゃなきゃこんなのおかしい。 まるで俺が本当に死んでしまうみたいな。 こんなことあるわけがない。 何かが落下する音がした。なんだろう。 目がよく見えないから、分からない。首が動かない。体も。今までどうやって体って動かしてたんだっけ。 分からない。だって動かない。 「事故だ!」 「子供が!子供がひかれた!」 「救急車!誰か救急車!」 事故…。子供…? そりゃ大変だ。助かんのかな…。助かるといいな。 なんか俺はすげぇ眠くて、助けるどころじゃねぇけど。 助かると、いいな。 (あれ、でもそういえばさっき俺、タイヤみたいなもんに、ぶつかってー…。) 「あれじゃ、即死だろ…。」 そんな。 子供なんだろ。 助けろよ。誰か助けてやれよ。 「たすけ、…て…。」 体が燃えるように熱い。頭が痛くて、何だかどんどん何も見えなくなる。聴こえなくなる。 「だれ、…か、たす……、て…。」 誰かが助けを呼ぶ声が聴こえた。 その声はなんだか、 なんだか。 俺の声に似ていたような、気がした。 |