ヒーロー面した少年少女と |
それは、女の敵。 圧倒的に有利な性別って武器を使って、女を狙うその卑怯な奴らを、俺は絶対許せない。 女の敵は男の敵でもあるって、小さい頃からじーちゃんも言っていた。 悪い奴は放って置いちゃいけない。野放しにすればするほど、被害はどんどん広がって行く。 誰かが、やんねぇと。 正義のヒーローは、待つもんなんかじゃない。 ガタンゴトンと音を立てて軽い振動と共に揺れる閉鎖空間の中。 帰宅ラッシュのこの時間帯は、それはもう車内の不快指数は半端無く上昇する。隣の人との距離が零になって、肩が、体が、否応なしにくっつく。 右隣のスーツの女の人の香水がキツくて、さっきから何度か気持ち悪くなりかける。それだけじゃなくて、四方から色々な匂いが混濁してるもんだから、それはもう本当に居心地が悪い。つり革とか手すりにつかまっているというよりは、人との圧力に寄って立っているみたいな状態。電車が少し大きめに揺れる度にぐわんと塊で集団が動いて、感じる圧迫感に身体が今にも押しつぶされそうだ。 そんな混沌状態の中視線だけ辺りを巡らせれば、運よく席に座れている勝ち組の中には、女子高生やらスーツやら、様々な格好の人が綺麗に横一列に並んでいる。寝ている人もあれば、携帯を弄る人、音楽プレイヤーのイヤホンを耳から生やす人など、その状態は様々だけど、皆一様にその表情にはどこか疲れのような色が浮かんでいて、1日が終わる夕方過ぎの時間をありありと感じさせてくれた。抱えていた鞄が波にさらわれないようにきちんと引っ張り寄せて、隙間から見える窓の外の風景を眺める。目に残る残像が流れては消えて、流れては消えて行く。灯りだした夜の街のネオンが、まるで流れ星のように流れて行った。 小さく息を吐く。最寄り駅まではもうすぐ。小さく息を吐いて、残りのこの生き地獄をどうにか耐えようと鞄の持ち手を握る手に力を込めれば、その瞬間ふと感じた違和感に目を見開いた。 (…、来た。) 最初は、揺れた時の偶然かと思うくらいの微かな違和感。だけど、知ってる。本当の偶然とは違うそれは、明らかに次の瞬間明確な意図を持った動きに変わる。その手が、体を這う。気持ち悪さにゾワッと背中を悪寒が走ったけど、少しの間だけ我慢する。我慢して、我慢して、…引き寄せて。 ガッ、と思いっきり手を掴んで後ろを振り向いたら、そこには驚いたように目を見開く中年のおっさんの姿があった。 「……今、痴漢しましたよね?」 冷やかな声が響く。 それは、辺りが暗く鳴り始める閉鎖的空間の中での出来事。 今日も、俺の勝ちだ。 「……危ないと思う。」 「へ?」 授業と授業の合間の休憩時間になってようやく机から顔を引っぺがした俺が、そういえばと思い出したように昨日の武勇伝を語って聞かせれば、同じクラスの友人は眉を顰めてどこか窘めるような口調でそう小さく俺を咎めた。 その反応に、へらりと曖昧に表情を緩めると、「笑いごとじゃないよ。」と更に語気を強められて流石にグッと押し黙る。 普段温厚な春っちのその様子に、少しだけ肩を窄めながら、チラチラ伺うように視線を送れば、目の前でその小さな体が、はぁ…と思いっきり息を吐き出す。呆れていると、顔全体に書いてあるような春っちの表情が、前髪に隠されているというのになぜかはっきりと見えた気がした。 「だ、だって…!」 「素人がそんな真似事みたいなことして、危ない目にあったらどうするの?」 「でも、今のところ全線全勝だし…。」 「そういう問題じゃない。」 ピシリと言い放たれて、二の句が継げなくなる。 さっき漸く起きあがったばかりの机の上に、ペションと再び顔をくっつければ、学校机特有の冷たさがひんやりと頬に移った。 ぶうっと唇を尖らせる俺に、春っちが更に重いため息をつく。 「正義感が強いのは、栄純君のいいところだとは思うけど、それは何がなんでもやり過ぎだよ…。」 前の席に座った春っちが、机につっぷす俺を見下ろす。チラリと視線だけ持ち上げると、さっきまでとは違って、どこか心配そうに顔を曇らせる表情が見えて、ドキリとした。 「女装して、電車で痴漢の犯人捕まえるなんて、そんなこと…。」 さっきと同じ笑みを浮かべれば、笑いごとじゃないと二度目の釘を刺されて、とりあえず顔を隠すように机に突っ伏した。 それ、を始めたのは、数か月前。 ちょうど乗り合わせた帰りの電車で、俺は生まれて初めて痴漢ってヤツを見た。被害に遭ってた女の人はすげぇ小柄な人で、俺よりちょっと年上くらいに見えたけど、なんだか凄く怯えたような顔をしていた。俺も最初は何が起こってるのかなんて全然分からなかったけど、少しして自体はすぐに飲み込めた。女の人のすぐ後ろに立っている男の人の手がどう考えてもおかしな動きをしてたから。ああこれが痴漢ってやつか、って結構瞬間的にピンと来た。気付いてからは速攻で、人の波を少しだけ縫って近づくと、その男の人の手を捻りあげ、「この人痴漢です。」って大声を上げていた。考えるよりも、先に。 結局駅に着いてからその人は駅員に連れていかれて、女の人にはめちゃくちゃお礼言われて…それをきっかけにちょっと注意してみれば、通勤通学ラッシュの時間帯は、案外結構な確率で痴漢現場に遭遇することに気付く。その被害に遭う女の人はみんなすごく不安そうな、怯えたような顔をしてて、同じ男として痴漢ってヤツだけはどうしても許せねぇって思った。 安っぽい正義感だとは思う。それに、この痴漢ってやつがまた強敵で、ラッシュ時の車内じゃ上手く逃げられてしまうことも多々あって、第三者が助けていると間に合わないことも多かった。現場を捕まえないと逃げられる。失敗すると、被害者の女の人が恥ずかしい思いをする。何度かの経験で、そんなことも学習した。 そんな時に、思いついた。第三者が間に合わないなら、俺が当事者になればいいんじゃねぇの、って。 自分が女の人になりきって、痴漢を捕まえる。簡単に言えばおとり捜査みたいなもん。よくドラマや漫画にもありがちなその手法が、使えるんじゃねぇかって気付いた。 それから始めた、俺の痴漢おとり作戦。 もうかれこれ数か月で10件近く捕まえてるけど、その勝率は未だ全勝。 だって向こうは俺を女のつもりで手を出してくるけど、俺は別に男に触られたって気持ち悪いと思うだけで恐いとは思わないし、力だってそこまで負けるとも思わないから、強気に出ることが出来る。 あまりにも良い作戦過ぎて、最初は自分の頭の回転の良さにほれぼれしたもんだ。 満員電車の中じゃ、俺の顔をわざわざ確認する痴漢なんていない。駅に着くと同時に人に預けちまうから、俺の面だってあんまり割れて無いと思うし。 少しだけスカートを短くして、わざと鞄を抱えずに手に握っているだけの無防備な状態でいると、結構な確率で捕まえられる。 正直、チョロイ仕事だ。 「何かあってからじゃ、遅いでしょ。」 でもそんな俺のおとり捜査もどきの行為に対して、春っちはどこか怒ったように眉を寄せる。 「捕まえた人から何かされたりとか、なんか事件に巻き込まれたりしたらどうする気なの?」 「えー?だーいじょぶだって!あんだけ人いりゃ、顔なんかいちいち覚えらんねぇし、そもそも普段は俺男の格好だし。」 「全然大丈夫じゃないよ!」 「だってもう3カ月くらいになるけど、特に危険な目には遭ってねぇし…あ、一回だけマジでスカートの中手入れられそうになったりはしたけど。マジ世の中変態っているよなぁ。」 「栄純君…。」 げらげら笑う俺に、春っちがため息をつく。そんなにため息ばっかついてたら、春っちの幸せどっかにいっちまうんじゃねぇの。 そんなこといったら、誰のせいだよって言われそうだから言わないけども。 「悪いこと言わないから、もうやめなよ?」 「……、ハーイ。」 「何その間!」 「ハーイ。」 「…もう…。」 はぁ…ともう一度ため息を落とす春っちを見ながら、ぼんやりと考える。そろそろ午後の授業が終わって、放課の時間だ。 さーて。今日は捕まえられっかな。 選ぶ電車にはコツがある。 線によって、人の多さは疎らで、上手くしないと通勤ラッシュに出会えない可能性が出てくるから。 その上、あまりにも押し詰め状態になると、逆に痴漢も出にくい。狙うのは、ほどほどに身動き出来るくらいに運んでるけど、人との間に視線をやるのは難しいような、そんな電車。 学校から出て、学校からの最寄駅のコインロッカーから入れておいた鞄を取りだして、それを抱えた人が少ないトイレに駆け込む。問題なのはトイレから出る時で、女子の制服を来たヤツがトイレから出てくると流石に不審だから、人が居ないのを確認して一気に飛び出す。外に出てしまえばこっちのもんだ。案外堂々としてれば、バレないもの。周りもいちいち気になんてしてない。そもそも俺は男だし、女装したって美人って顔じゃねぇから、目立つこともないし。 だから今日も今日とて、トイレの個室を陣取って、制服を着替える。最初は抵抗があったスカートだけど、衣装だって考えればいつのまにやら慣れた。今じゃ短くするための折り返しだってお手の物だ。 「よーっし。」 準備完了。そして一番ドキドキするのがこの瞬間。 まずは音を伺って、誰もいないことを確認する。それからそっと鍵とドアを開けて、その隙間からトイレの中を見渡せるだけ見渡した。ちょうど鏡を見れば全体を見渡すことが出来るからすげぇ便利。そもそもここは駅の中でもちょっと分かり辛いところにあるトイレだからもともとあまり人は来ないけど、要人するに越したことは無い。 きょろきょろと辺りを見渡す。よし、と安全を確認したらそのまま勢いで駆け抜ける。 「…っ!」 入口の扉に手をかけたら、予想外に簡単な力でドアが開いた。え、と思った瞬間、ドスッと何かにぶつかる。 思いっきり顔が当たって、鼻と額に衝撃があった。 「…っ、つ…!」 「え…?」 ヒリヒリと顔が痛んだけれど、それより何よりも恐いくらいに冷静な頭が、『人が入って来たんだ』と瞬間的に認識して、サァッと血の気が引いた。ヤバイヤバイヤバイ。だって今俺の格好は完全に…。 (ひーー!!これじゃあ俺の方が変態じゃねぇか…!!) 「君、だいじょ…、」 「問題ないっす!!」 どこぞの誰かは知らんが、親切にかけてくれた声を思いっきり一刀両断して、視線を合わせないように落としたまま、思いっきりその横を抜けた。ひらりと視界の端を茶色のジャケットが掠める。 見知らぬ人よ、申し訳ない。だけど俺は断じて変態じゃない!変態違う! 「ちょ、君…!」 だから、声をかけてくれるな。犯罪的なことは全くしてねぇから。寧ろ逆だから。申し訳ない! そんなことを何度も何度も心の中で繰り返しながら、思いっきりいつもより倍くらいの距離を駆け抜ける。何人かがこっちを通りすがりに振り向くのが分かったけど、俺はそれどころじゃなかった。 バクバクと心臓が煩い。跳ねるなんて可愛いもんじゃない。今にも跳ねて飛び出しそうだ。 (あ、あぶねぇ…!あぶねー!!) セーフ?…いやギリアウトかも。 声しか聞こえなかったけど、若い男みたいな…。ああ絶対見られた。間違いなく見られた。 でも俯いてたから、顔を見られてないことだけを祈る。 「…心臓に悪い…。」 暫くあのトイレは使えねぇなぁ…。便利だったのに。 どっか別のところ探すか、それとも暫くやめるか…。ここ最近、頻度が高くなってたから、ほとぼり冷めるまでやらないってのが一番いいかも。春っちにも言われてることだし。 となると、今日はちょっと休止前の最後の一仕事。こりゃ絶対捕まえねぇと! 単純さは、俺の売りの一つだ。 「…うっし。切り替え切り替え!」 パシンと思いっきり両頬を叩いて、ブルブルと一回首を大きく左右に振る。 そろそろ時間もいい頃合いだ。これでラッシュを逃したら元も子もない。 とりあえずさっきのことはちょっとの間忘れるとして、電車に乗るためにホームへの階段を思いっきり駆けあがった。ホームに溢れる人混みの中に、姿を紛らわせて、今日も待つ。 待つのは電車と、それと。 (あー…来たよ、来た来た。絶対これ、そう。) 内心で、うげぇ…と息を吐く。 毎度毎度この瞬間はどうしたって慣れるもんじゃない。そうっと手が這う感覚は、背筋に思いっきりゾワゾワと嫌な感覚が走って、鳥肌が立った。 電車に乗ってものの数分。今までの誰よりも早い新記録かもしれない。 スカートの上から男の手に弄られる。この変態、と心の中で罵りながら、それと同時に、アンタが今触ってんのは残念ながら女じゃ無くて男ですよー、とほくそ笑む気持ちもちょっとあった。 もうちょっと、もうちょっとだけ。引き入れて、引きつけて。怯えて抵抗が出来ないか弱い女を演じる。 本当に、男ってのは馬鹿な生き物だとつくづく思う。 こんな風に卑怯な手を使って己の欲望を満たそうとして…自分さえよければそれでいいんだろうか。俺だって男だし、思春期でもあるわけで、そりゃ確かにいろんな欲望云々だってあるけど、でもこんなことしようとは絶対に思わない。 弱い者を標的にすることで、正当なことなんか一つも無い。だから捕まえられたって、自業自得だ。 (あと、少しー…。) 『何かあったら、どうするの。』 春っちの声が、頭の中でリフレインする。そりゃ、俺だっていいことだとは思って無い。正義のヒーローぶって、エゴ振りまわしてるだけだって、分かってる。そんなの。 だけど。 (だけど、許せねぇもんは、許せねぇんだよ…!) ぐっと唇をかみしめて、鞄を持つ手に力を入れる。体が強張ったのは、まぁ恐怖のせいだと取って貰えるだろう。何せ今の俺の格好は、“女”なんだから。 あと一歩。あと一歩踏み込んできたら、思いっきり手を――。 思いっきりその手を捻り上げようとして動かした手。だけどそれは叶うことなく、ぐっと更に強い力に押しとどめられた。 「……っ!?」 鞄を持っている方と逆の空いている手の手首を掴まれる。誰に、なんて考え無くても分かった。スカートの上で不埒に動く手の持ち主。痴漢の犯人。 その間もその手は休むことなく体の上を這って、けれどなぜか下では無く、上に向かってゆっくりと上がって来た。 どうして、と頭の中をぐるぐると疑問が巡る。自分がしようとしていたことが出来なくなると、人間は小さなパニックに陥るらしい。今の俺がまさしくその状態。何がなんだか分からないままに、這いあがって来た手が、上着の間からするりと滑りこんだ。 俺は男だから。 女子みたいに制服の下に下着とかそういう、色々なものを着てもいないし付けてもない。 だから、制服一枚の下は完全に素肌で、知らない人間の手がスルリと肌を撫でる感覚に、一気に体中に悪寒が走った。 (…っ、の、痴漢…!!) カッと頭に血がのぼる。最低だ、コイツ。今までのどんな痴漢より性質が悪い。最低の男。 けど、止めるための手は動かない。どんだけ動かしても力じゃ勝てそうになくて舌打ちした。これでも結構鍛えてる方だから、力には自信があったのに。 こうなったらもう叫んでやれと、息を吸い込んだ瞬間に、そっと耳元を何かが擽った。 「…いいの?」 囁くみたいな、微かな声。電車の音に紛れて聞き逃してしまいそうなその音量に、思わず吸いこんだ息をそのまま吐き出してしまう。 「…、は…?」 「君さ…、男の子だよね。」 「…ッ、…。」 (嘘!ばれてる!?) なんでなんでどうして。 顔後ろに立ってるだけじゃ、顔なんて見えないはず。なのに、どうして。 「別に叫んでもいいけど…いいの?君が女装してる男だってこと、今すぐ周りにバラしちゃうけど。」 クスクス笑う、余裕そうな笑み。 辺りを見渡せば、制服を着ている人の姿もちらほら見えた。…正直、学校のやつがいたらと思うとぞっとする。 「そうしたら、どっちかっていうと、君の方が怪しまれんじゃない?」 その言葉に迷いが浮かんだ俺は、反射的に大人しく押し黙るしかない。 耳を擽る音が、柔らかく鼓膜を擽る。 「バラされたくなかったら、口開かずに静かにしてな。」 それは心地よい電車の音に交る、不快な音だった。 →02 [←] |