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「なぁ、御幸!」 「ん?なーに?」 バタバタと地面を靴底が叩く音が、警報や地鳴りみたいな建物が崩れる音に混じる。 階を離れれば煙は確かに随分と薄くなってきてはいるけれど、それでも単調な作りの建物の中では、煙の周りも早いのか、階段を下りても薄暗さはそのままだった。 全部でどれくらいの部屋があって、どれくらいの人数がいるのか、そんなこと、俺は全然分からない。 知ってるけど、知らない場所。不思議な感覚に、居心地の悪さしか感じない。 狭い廊下の壁がまるで迫って来るみたいだ。気を抜けば、飲まれてしまいそうな。 (でも…。) 少しだけ前を走る背中をチラリと見る。 さっき、一人で走っていた時とは違う。足音だって、二人分。重なる音に、追う背中に、安心する。 (御幸がいるなら、大丈夫。) それは確固たる安心感として、俺の中に落ちてくる。落ち着いてる。それがひしひしと伝わって来た。 (…へへっ…。) 御幸に見えないところで、小さく笑みを零す。 名前を呼んだきりで何も言わない俺を不思議に思ったのか、御幸が走りながら少しだけ顔を後ろに向けた。 「沢村さん?」 少し遠いけれど、はっきりとその顔が俺の名前を呼ぶ。それがこんなに、嬉しい。 ニッ、と笑って少し足を速める。 「なぁ…なんでここ、こんな簡単そうに見えてなかなか抜けらんねぇの?」 「なんか、特殊な作りしてんの。だから元々警備も少なくて……なんで沢村さんが一人で来られたか不思議だよ。」 「……なんでだろ。あ!体が覚えてたんだったりして!」 「……沢村さんって昔から方向音痴でよく迷ってたけど。」 「……。」 さいですか。 さすが俺。今も昔も変わんねぇのな…。 今だって会社の中で迷うわ。ええ、迷いますとも。 なんか悔しくなって唇を尖らせる。それに小さく御幸が笑った。 「ほんと、変ーわんねぇなぁ。アンタは。」 ふは、と御幸が笑う。なんだか馬鹿にされたような気がしないでもないけど、あまりにも楽しそうに笑うもんだから、気のせいってことにしてやることにした。 それにしても。 (…ことあるごとに、変わらない変わらない、って。) それにはちょっとだけムッとする。 なぜかは分からないけど、っつーか、この前まで気にならなかったけど、今はなぜか、御幸にそう言われると心の中が少しだけもやっとする。 (俺もそれなりに一応年食ってんのにさぁ…。) そう考えて、でもなんだかそれはちょっと違う気がした。 なんでかは、分からないけど。 建物に満盈する煙みたいに、心の中にも何かがプスプスと燻ぶる。けれどその正体はよく分からなかった。…そういえば前もいつだったか、同じようなことを思ったことがあるような気がする。あれは、いつだっただろう。 こう、心がもやっとしたことが…前にも。確かそれもやっぱり、御幸のことを、考えていた時だったんじゃあ…。 「沢村さん。」 名前を呼ばれてハッとする。今完全に自分の世界にトリップしてた。思いっきり。 すると御幸が不思議そうな顔をして、今度は少しだけ首を傾げながら、「沢村さん?」ともう一度俺の名前を呼んだ。 (やっべー…今は、目先のことに集中しねぇと…!) 自然と遅くなっていた足を叱咤しつつ、心の内で頬を張り上げた。 「…何だ?」 「あのさ、」 「うん?」 「…ここ出て逃げれたらさ、」 「おう。」 「今度はちゃんと、デートしよっか。」 「…っ。」 驚いて足が止まりそうになるのをどうにか抑える。 …っつーか、何言ってんのコイツ。突然!こんな時に! 取りみだしかけた心をどうにか沈めるよう努力して、出そうになった心臓の変わりに声を絞り出す。 「な、んだよ…、突然…!」 「んー?や、純粋にさ。やりてぇこと考えてたら、そうなった。」 「…まずはちゃんと逃げること考えろよな…。」 「まぁ、うん。そうなんだけどさ。」 ポリポリと走りながらら御幸が頬を掻く。 それを首を傾げて見上げていると、こんな緊迫した状況にもかかわらず、だらしなくその頬が緩んだ。 「何かしてぇなって先のことに目的持つのなんかすげぇ久々だったから、なんか嬉しくなったんだよ。」 …ああ、もう…! 「…っ、デート!」 「ん?」 「……次は、どこ行きたいか…真剣に考えとけ…!」 「…まずは逃げること考えるんじゃなかったの?」 「うっさい。」 「ははっ、…りょーかい。」 サンキュな、と、お礼の言葉が降って来る。それに無言を返しながら、今視界があまり利かないことに感謝した。 耳まで赤くなった顔を、見られなくて済むから。 (…このファザコン…。) そんな“ニセモノ”の息子が走る横を全力疾走しながら。 こんな場面なのに。まだ、どうなるか分からないってのに。 幸せだ、と。 そう思った。 「あと1階分降りたら、外の階段に出られるから!」 「ん!」 外が近い。 その言葉だけで俄然やる気が出た。足を動かす動力にも力が籠る。後少し、後少しだ。 長かったこの運命から、やっと逃げられる。御幸を、逃がしてやれる。今度はちゃんと、守りきってやれる。 階段をバタバタと駆け下りる。建物全体が不安定になっているからか、時折大きく床が揺れた。 御幸が言うには、この塔の中枢を担う部屋をいくつか爆破してきたらしい。この短時間でどうやって、と聞きたかったけど、ここは俺の家だからね、と言われてしまえば、その前に人並み外れた能力を見せられた後に、全てを問うことは無粋のように思えたから、やめた。 それに御幸は離れる前に、『子供たちを助ける』と言っていたはず。建物の中枢。それを、壊して来た、という意味は。多分。 壊れて行く建物はまるで、御幸の心の中を体現しているようにも思えた。 ぐらり、とまた地面が揺れる。 高さばかりで、建物自体の作りも脆いのだろうか。階段を下りる足が、一瞬ぶれた。 あ、と思うより前に足元が歪む。小さな亀裂音がするのと、何かが折れる音がするのはほぼ同時。 俺の後ろで変な音がして、一気に足元が崩れた。 視界が一段落ちる。 前を走る御幸の驚く顔が見えた。 ――――…落ち、る? 「沢村さん!」 反射的に、腕を伸ばす。 それを御幸が、思いっきり掴む。 そのすべてが、まるでスローモーションのように、眼球に映って。 掴まれた腕に、力が籠る。 御幸の目が、俺を映す。吸い込まれそうなほど、強い瞳。 「絶対助けるから…!!」 (え――――…?) 『大丈夫、絶対アンタだけは俺が助けるから。』 これはいつの、きおく? 引っ張りあげられたその先に、眩しいくらいの光が見えた。 「何勝手なことしてんだ、テメーらはよ…!!」 ブルブルと肩を震わせる倉持さんの前に、御幸と二人で正座。 倉持さんの横には、相変わらず何を考えてるのかよく分からない顔の亮介さんが、これまたよく分からないオーラを発しながら仁王立ちしていらっしゃる。 どう考えても怒ってるのがまるわかりな倉持さんとは違うけれど、なんだか亮介さんの方がずっと、…なんて言うか…うん、怖かった。 結局、命からがらって言葉がぴったりなほどギリギリのところで建物を逃げ出した俺と御幸は、外で待っていた倉持さんと亮介さんに拉致…保護された。 亮介さんと倉持さんの姿を見た時に、無事だったんだと安心するのもつかの間。 「聴いてんのかよ、沢村ァ!」 …まさか、いきなり説教されようとは。 「…き、きいてます…。」 「だったら返事くらいしろ!」 ダンッ、と思いっきり倉持さんが地団駄を踏む。 その迫力やいなや、その辺のチンピラなんか目じゃない。絶対。 「ゴ、ゴメンナサイ…。」 「ごめんで済んだら警察はいらねェんだよ!バカ野郎!」 「…スミマセン…。」 大声張り上げる倉持さんに、なぜか俺が小さくなる。…年下なのに。絶対、年下なのに、この関係…。 こっそり涙を流していると、チッ…と舌打ちした倉持さんが、ぐるんと俺の隣に顔を向けた。 「テメェもだ、コラ、御幸!」 「…。」 「なんだこの爆発は。あ?テメェはガキ共助けに行ったんじゃなかったのかよ。何してんだよ、テメェ。」 「はっはっは。」 「よーし、殴られてぇなら歯ァくいしばれ。」 「やっだなー倉持。もうちょっと穏便に行こうぜ、穏便に。」 「お、れ、は!お前のせいで死にかけたんだっつーの!これのどこが、穏便で済むかっつーんだよ!」 「……はっはっは。」 倉持さんが御幸に怒鳴る。 けれど御幸は特に動じた風もなく、へらへらと笑うだけ。それが更に倉持さんをイラつかせるのか、どんどんヒートアップしていく怒声に、俺が何か口を開こうとする前に、ふっと…御幸の表情が緩んだ。 そして急に真剣みを帯びる瞳。 「…あいつらはさ。」 「あ?」 「あいつらは、俺と同じなんだよ。」 「……。」 「寧ろもっと、酷かった。」 何を思い出したのか、一瞬御幸の顔が曇る。 それを忌々しそうに見た倉持さんが、少しだけ目線を逸らした。 ああこの二人には、この二人にしか分からないことがある。そしてきっとそれは、亮介さんも同じ。 (…そして多分、昔の俺も、“分かること”なんだ。) チクン。 また何かが、過った。 「エゴだとは思うよ。だけどそれを背負う覚悟もある。きっとあいつらは、あの場所から出たら生きていけない。けどあのままにしておくくらいなら、いっそ全部俺が終わらせようと思った。」 「…他に考えられなかったのか。」 「ああ。無いね。」 「…そうか。」 黙り込んだ倉持さんが、ため息を吐く。 そのまま何かをふっきるように一度目を瞑った後、ぱっと顔を上げた。 「…そうか。」 その目が今何を映しているのかは分からないけれど、きっと御幸も亮介さんも同じ光景を共有しているんだろうということだけは伝わった。 「…悪い。倉持。」 「謝るくらいなら、先に言え。」 「言ったら止めただろ。」 「…。」 「ふふ、倉持の負けだね。」 「…亮介さん。」 「御幸。」 穏やかな声が、御幸を呼ぶ。それにつられて俺も顔を上げると、今まで黙っていた亮介さんが、ゆっくりと穏やかな声を上げた。 「お前は、今日ここで一回死んだんだよ。」 「…え?」 「だから、死んだ人間は死んだ人間らしく、全部忘れちゃえば、いいんじゃないの?」 「………っ。」 「ま、背負いたいんなら勝手に背負えばいいけど。…でもお前にはもっと別の、“背負うべきもの”があるんじゃない?」 チラリと視線を向けられて、ドキリとする。 その顔はやっぱり良く分からなかったけど、でも。 なんだか少しだけ、笑っているように見えたのは見間違いじゃない気がする。 亮介さん、と。 御幸の声が飛ぶ。俺も正座して同じ高さだったから、分かった。 その手がぎゅっと握られて、地面を握りしめて震えているのが、俺には見えた。 見えなかったけどきっと、御幸は今泣いているんだろうな、とも思った。 「俺たちは今日、自由になったんだ。」 少しだけ遠くで、逃げて来た建物が噴煙を上げるのが見えた。 崩れていく建物の破片が、まるで雨のように地面に降り注いでいく。 やっと。 やっと、全部、終わる。 「沢村さん。」 名前を呼ばれた先の御幸の顔が、今までに見たこと無いくらいに綺麗に笑っていて、俺も思わずぐしゃぐしゃの服と顔で、思いっきり破顔した。 「………帰ろうか、御幸!」 [TOP] |