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それは最初から決めていた最後。 思えば多分、あの人に再び会った時から決めていた。 幸せになって欲しいから、幸せでいてほしいから。 そのためには一番何が必要で、何が邪魔なのか。俺自身が一番分かっていた。 邪魔なのは、俺の存在。 そして一番必要なのは、そんな俺が彼の前から消えることだ。 出会わなければ良かったとは思わない。 だって彼と出会ったから、暗闇しか知らなかった俺は今、こんな幸せな気持ちで逝ける。 最後の最後まで、貰ってばかりだった。 ああそういえば、 (好きだとは告げたけど、ありがとうって言うの…忘れたな。) 約束を破った俺に、あの人は怒るだろうか。…もしかしたら、泣いてくれるだろうか。 それは少し、望みすぎかもしれない。 「…ありがとう、沢村さん。」 その声は、音と煙に掻き消されて、誰にも届くことはなく―――――――…。 煙の臭いが全身にまとわりついて来る。 呼吸するのも億劫なくらいだから、もちろん視界なんて殆ど見えない。 茶色なのか白なのか、よく分からない煙が目に染みて、鼻の奥をツンとさせて、思わず零れそうになった涙を寸でのところでこらえた。 頼りにならない視界。元々地の利も無い場所で、更に進行方向すらままならなくなってしまえば、出来るのはただがむしゃらに床続きに進むことだけ。 (なんでだよ…。) 戻ってくるっていったのに。 いってらっしゃいって言ったはずなのに。…これは一体、どういうことなのか。 御幸の考えが分からない。御幸が何をしようとしているのか、分からない。 けれど今ここで御幸を見つけないと、なんだか全部駄目になる気がして、そんな焦燥感だけが心の中を渦巻いて、その不安だけが俺の脚を動かしていた。 ガラガラと音はしているけれど、歩いている廊下が崩れているわけではない。 さっきの爆発音は多分、建物のどこか…一部から起きたもの。だから多分、この漂う噴煙の元にさえいければ、…きっと御幸はそこにいるんだと思う。 奥に奥に進んでいく度に、煙の濃度が増す。色がどす黒くなって、重さも増したような気がした。 目に染みる。息もしづらくなっていく。鼻で息を吸ったらツンと目がしらに涙が一瞬で溜まった。口で息を吸ったら、喉に何かが張り付いて、一気に肺の中まで煙が充満していくかのように感じた。 (…なんとなく、だけど。) ―――こうなるんじゃないかと、思っていた自分は、居た。 それはただの勘だけれど。でも、なぜか確信に近い思いだった。 あの時、一人背を向ける御幸を見て。 こうなるんじゃないかと、俺は本当は分かっていたんじゃないのか。 なのに、止められなかった。 俺はいつもどうしてこう、毎回毎回全てが遅いんだろう。 後から後悔するのは、もう沢山だと、何度も思ったのに。 (……えー…?) ピタリ、と足が止まる。 一瞬脳裏を何かが掠める。それはここ最近、何度か感じてる奇妙な感覚だ。 なんだ、と思うけれど、その答えが出るよりも先に、はっきりとしない視界の中に、人影を見つける方が先だった。 「………御幸…?」 名前を呼べばその目が、驚愕に見開かれる。 はっきりとは見えなかったけれど、けれどなぜか、くっきりと、俺の目には見えた。 「なんで…。」 声が聴こえる。それもなぜか明瞭に。 気付けば走っていて、触れるくらいの距離にきてやっと、御幸だと分かった。 その薄汚れた全身を見て、ぐっと伸ばした手で胸倉をつかむ。 「こんなところにいるんだってのはもう聴きあきた!!」 思いっきり息を吸いこんだら、思わず噎せた。 ゲホゲホと、肺の中をいっぱいにする汚れた空気が、体を巡る。くらりと軽く眩暈がした。 ここまでずっと、こんな粉塵の舞う空間を走って来たんだから、当たり前といえば当たり前かもしれない。 御幸の胸倉をつかむ腕の握力が、弱弱しく緩む。 そんな俺を、呆然と見下ろす、御幸の目。 「どうしてあんたはこんなところまで追ってくるんだよ…。」 どうして、なんて。 そんな。 そんな、当たり前の、ことを。 「当たり前だろ!!お前がどこに行ったってな…!俺はいくらでも追っかけて、そんで引きずって帰ってやる!!」 「なんで、俺のためにそこまですんの――…?」 御幸の声が泣きそうに聴こえたけど、泣きたいのはこっちだ、バカ野郎。 本当に、どうして。 どうして俺がこんなことまでしなきゃならないのか。 聴きたいのは、こっちだ。バカ野郎。 「俺は…!大事な事全部、忘れちまってるのかもしれねぇけど!」 踏ん張れ、足。 どうにか声を張り上げて、御幸を思いっきり睨みあげる。 「今の俺は確かになんもおぼえてねぇよ。でも、お前と一緒に暮らしたのは、事実だ。それだけでもう、家族だろ!!」 「…俺は、アンタに迷惑しかかけられないんだよ、沢村さん。」 「そんなの今更だ、バカ!」 「…もっと…もっとだよ。これからもきっと、迷惑をかける。多分、一生、」 「だから!家族なんてそんなもんだ、って…!」 この押し問答を、何度したのか。 煮え切らない御幸の態度に苛々して、ここでこんなこと、してる場合じゃないって分かってはいるけど。 「逃げんなよ、御幸…。」 「沢村さん…。」 「お願いだから、もう、一人にすんなよ…!」 ぎゅうっと、服を握る手に力を込めた。 ピクリとも動かない御幸の顔から視線を逸らして、ただゆっくりと下に落とす。 訪れる沈黙が、痛い。 流れて行く時間が、ひどくゆっくりに感じた。 「………アンタに迷惑をかけるのは、分かってた。」 「え…?」 「沢村さんが、生きてるかもしれないって分かった時。俺が接触すれば、いい事にはならないって、分かってた。」 「御幸…。」 「だけど、俺が。…俺が、我慢できなかった。」 ポツリ、ポツリと、御幸の声が頭から降って来る。 「少しだけでいい。本当に、覚えて無いなら、無かったことに出来るかなって、思った。それなら、少しくらいなら、って。だけどアンタ、やっぱり沢村さんなんだもん。やになるよな。ホント。…全然覚えてねぇとかいいながら、実は全部うそで、本当は全部覚えてるんじゃねぇのってくらい、沢村さんなんだよ。本当、やになる。」 御幸の声は穏やかだったけれど、まるで全部ひとつひとつが涙の落ちる音みたいに聴こえた。 だから全部無かったことにしようとした、と。 一番迷惑をかけるものだから、 消えてなくなってしまえば、それでいいんじゃないかと思った、と。 「バカ!」 御幸が全部言い終わるより前に、反射的に叫んでいた俺の声が、空間を裂いた。 その声に驚いたように、漸くピクリと御幸の体が動く。 「なぁ…お前、俺と家族になりたかったって言ったじゃん…。」 「沢村さん、」 「俺だって、そうだった。ずっと一人だったから…だから、お前と一緒に居るのがすげぇ楽しくて、」 「…沢村さん…。」 「お前は意味わかんねぇやつだったけど、ずっとこのままだったらいいのにって、思ったりも、して…!」 「沢村さ、」 「なのにお前は、また俺を一人にすんの…?」 「……ッ…!」 言い終わるより前に、思い切り御幸に体が引き寄せられた。 ぼすんっと音を立てて、引っ張り込まれる体。 じわりと、温度が触れたところから移って来る。 「どうして…。」 その声が泣いてるように聴こえて、背中に回した腕で、あやすようにポンポン叩いてやると、抱きしめる腕に強く力が籠って、その腕の中で小さく笑った。 やっと取り戻したと、ようやく、思える。 「…そんなの、家族なんだから当たり前だろ。」 「沢村さんって、苦労性っぽいよな…。」 「お前には、言われたくねぇけどな。」 二人して、笑う。 その空気が妙にくすぐったくって。 (…ああ、多分きっと。家族って、こんな感じなのかも。) 少しくすぐったくて、照れくさい。 だけど、触れあう体温に安心して。その温かさに、掬われる。 そしてそれは、 「…おかえり。御幸。」 「ただいま。沢村さん。」 ――――唯一無二の、帰る場所。 [TOP] |