12 | ナノ

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その頃俺にとって、世界は“知っていることが全て”だった。


生まれてこの方、一番その目に映した色は、暗闇の黒さと、目を焼きそうなほどの室内の白。
四方を見えない壁に囲まれた牢獄のような場所で過ごした俺にとって、それが世界であり、現実であり、日常だった。
与えられるもの全てが、いわば、当たり前のようなもので。
“普通”がどんなものか知らない俺にとって、日に日に増える傷跡も、何もかもが、当たり前のものでしかなかった。

だからもちろん、疑問に思う事もなかった。
…ただ、俺や、俺と同じような子供を見る大人の目が“普通ではないこと”だけは、何となくだけど、気付いていて。
けれど、だからといってどうしようもなく、俺はただ漫然と、自分の世界を生きるだけだった。


そんな時だ。


その目――――沢村栄純に、出会ったのは。








『お前怪我してるのか…?』


印象的だったのは、その言葉と共に向けられた、驚愕に見開かれた大きな瞳。
黒い、零れそうなくらいデカイ目をぐりぐりさせて、こっちを見る。
年にすればきっとまだ子供。纏う白衣がどこかアンバランスで、笑えた。

新しい研究員が来た上に、それがどうやら子供らしいってことを噂で聞いて、興味半分で見に来てみただけだったのに、なぜかその目に捕らわれてしまって、気付けば俺は何度も何度も、その場所に足を運ぶようになっていた。

思えばあの頃から、俺は沢村さんに惹かれていたんだと思う。
ガキのくせに。マセたガキだったなぁ…。



そんな沢村さんと過ごす日々は、今まで実験室の中しか知らなかった俺にとって何もかもが新鮮で、子供にしか見えない沢村さんが、実はスゲー頭良い事も少しずつ知った。沢村さんのことについて、知らないことより知っている数の方が増えて、ただそれだけで幸せだった。
夜が来て、時間に遮られるまでずっと、多くの時間を沢村さんと過ごしたと思う。子供ながら、スゲー執念だと、子供の頃の自分に笑う。
暗闇は、嫌いだった。
夜は、苦手だった。
そしてそんな時間を続ける度に、沢村さんとの時間を終わらせる夜が、どんどん嫌いになっていった。



組織の人間はみんな、腐ったような目をしてる。
暗闇でもそれがわかるくらいだから、相当だ。
けれど沢村さんは違った。話していて、ああこの人は何も知らないんだと思ったけれど、敢えて何も告げなかった。
沢村さんは、優しい人だから。きっと知ったら、怒る。そしてきっと、悲しむ。
なんでかな、俺は沢村さんのそんな顔が、きっとただ見たくなかっただけだったんだろうと思う。


それなのに俺は結局、一番させたくなかった顔を、沢村さんにさせてしまった。
最後に見たのが、背中だったのが救いだったかと言われれば、でも決して是とは言えない。

俺だけが、振り返る。やっぱり泣き顔でも怒った顔でも困った顔でも、最後に、最初に惹かれたその目が見たかったと、後悔した。






沢村さんは組織から逃げた人間として、後を追われることになった。
俺はその手助けをした。本来ならば、何らかの罰を受けるか、…さもなくば殺されるか。どちらか絶対だったはずだけれど、その頃には既に情報部にて手腕をふるっていた亮介さんのおかげで難を逃れて、疑われることも罰せられることもなかった。

けど、日々の生活から沢村さんがいなくなった俺に残ったのは空虚感は、懲罰房にいれられること以上に大きな傷となって、しこりを残した。
沢村さんがこの研究所に来たのは、3年前。共に過ごした日々は、たった3年。けれど、その3年は、俺の人生の中で一番大切な時間だったから、失ってどんなに自分が沢村さんに依存していたかを思い知った。
傷は一向にふさがる様子は無かったけれど、それでも。
あの人がどこかで生きていてくれるなら、それでいいかと思って、それだけが俺の全部だった。


それから少しして。
小まめに情報を探ってくれていた亮介さんから、組織が沢村さんが死亡したと認定したと知った俺は、死ぬよりも辛い思いを味わって、声を枯らした。









それからの数年は、ただただ、流れる時間と与えられるもの全てに身を任せて、自分が生きているのか死んでいるのかすら分からないようなあやふやな時間を過ごした。
小さかった体は、その面影すら残さないほど成長し、少年へ、そして青年と呼ばれるような年齢へ。
俺の体は俺のものであって俺のものではなかったから、死ぬ自由すら与えられず、いつの間にか『天才』と、かつての沢村さんに貼られていたレッテルが自分に付いて回るようになって、ただそれだけのことに喜びを感じるくらいに麻痺した生活を送っていた。

そんな時だ。

組織が、『沢村栄純』に似た人間を秘密裏に追っていると知ったのは。

例え間違いでもいい。
勘違いであってもいい。
俺はすぐに、それに飛び付いた。

すぐさま手を回して貰って、その任務に自分の名前が挙がるように仕組んだ。
そしてあの日、あの家のチャイムを鳴らして。
あの頃よりは随分と大人になった、けれど、しっかりと面影を残すその顔を見た瞬間。

チャイムを押した手が震えて、泣きそうになったことは今でも忘れない。



(――――ああ、生きていてくれて、よかった。)














「…ゲホッ…。」


咳き込んだ拍子に、口の中に錆の味がジワリと広がる。その不味さに眉を寄せて、思いっきり吐きだしたら、灰色の床に鮮やかな鮮血が広がった。
それを見て、まだ自分の血が赤い事を知り、なんだかその奇妙さに笑えた。

前方を阻む鉄格子。窓一つない四角い部屋。
絵にかいたような牢獄の一つ。とはいっても、ここは別に牢獄なんかじゃない。牢獄なんて優しいものじゃない。
かつて数回だけ踏み入れた事のある“懲罰室”は、もう随分と使われていなかったのか、それとも整備がされていないだけなのか、鍵を見れば錆びついて赤茶に変色していた。

そんな中で、自由の利かない手足を動かす。
なんだか体がだるくて、動かすのも面倒だったから、壁に背をついたまま、動くのはやめた。
低い天井に、妙な圧迫感を感じる。目を閉じて感覚を研ぎ澄まして見ても、近くに人の気配一つ、感じなかった。
見張りもいないのか。逃げられないと思っているのか、それとももう用済みな人間に割けるほど人員がいないのか。

(多分、どっちもなんだろ。)

組織の人数は、昔に比べて随分減った。
いつの間にか膨らんだ大きな組織は、世の中の変化に対応出来るほどの柔軟性を既に失っていて、少しずつ崩壊の一途をたどっていたのだから。
子供の数も、昔に比べてだいぶ減った。けれどまだ、こんな恵まれた時代であれ、子を捨てる親がいるっていうんだから、いつの世もそういう部分は変わらないのかと思えば少し微妙な心持ちになる。
けれど頭の中を締めるのはそんなことより何より。
最後に見た時、なんだか困ったように笑うあの人の顔だけ。
何度も何度も夢に見る。
なのにどうしてか、夢に出てくるのは共に過ごした日々ではなくて、いつも最後には夢の中の沢村さんは泣きそうな顔をしていて、どうしても笑った顔が思い出せないのは寂しいと思った。
もしかして俺は、あの人のこと、笑わせてあげられたことなんて、無かったのかもしれないとさえも思った。


「倉持と亮介さんは、ちゃんとやってくれたかな…。」


あの二人なら間違いないと思うけれど、それでもいくら小さくなったとはいえ、組織の力はやはり大きい。
何事も無く済んでいればいいと願うしかない。
そしてそのまま、あの二人も組織から逃げられていたら、いい。
俺と同じく、随分とここに縛られてきた奴らだから、もう自由になってもいい頃だ。その権利が、ある。
出来るなら多分まだこの建物の中にいるであろう同じような境遇の奴らも逃がしてやりたいところだけど、既に捕らわれの身となった自分には残念ながら無理な話だ。
そもそも組織に戻って来て、その目を掻い潜りながら、倉持と亮介さんを逃がして頼みごとを託すだけでも、精一杯だったのだから。
首筋の薄い皮をなぞる。
そこにある固い、自然のものではない感触にため息をついた。
触れられるところだけではなく、俺の体中いたるところに、この人工的な鎖が繋がっている。これがある限り、俺は絶対にこの場所から逃れられない。

沢村さんは。

どうしたんだろう。


(俺が突然いなくなって、あの人またあんな生活に戻るんじゃねーだろうな…。)

ロクなもの食わずに、掃除も洗濯も、ネクタイだって満足に結べない。
もちろん料理も出来ないくせに、突拍子もない事をやりだす大人。
俺よりずっと年上のくせに、全然年上っぽくないのあの人は、少しくらいちゃんと「生活」をしていてくれればいい。

俺の、ことも、
全部忘れて。

倉持には説明を頼みはしたけど、正直信じて貰えるとは思わなかった。こんなバカげた話。
それならそれでいいと思ったし、それで興味を失ってくれたらそれはそれで結果オーライなわけで。
ふ、となんだか笑みが漏れて、反動で動かすと、体のいたるところが軋んで嫌な音を立てた。

目を閉じたら、くらりとまどろみに誘われる。
このまま意識を預けたら、もう現実には戻って来られないような、そんな気がした。
瞼の裏に映る沢村さんは、やっぱり泣きそうな顔をしていて、少しくらい笑ってよ、と、心の中で俺が笑う。


ゆっくりと、がれていく意識。
ベリベリと音を立てて、現実から、体から、乖離していくような感覚に身を任せる。



「みゆき、」



すると、小さな声。
遠のきそうだった意識を、掴んで引き寄せる、声。


「は…?」


どこにそんな力が残っていたのか、勢いよく目を見開けば。


「バカ野郎…!!」


一瞬、夢と現実が分からなくなったのかと思った。
けれどそれは、見間違いでも、なんでも無く。




「…な、に…やってんだ、アンタ…。」




(なんでこの人はいつも泣きそうな顔、してんの。)




夢と同じ顔をした沢村さんが、

そこに居た。









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