11 |
無知というのは何よりも残酷で、そして何よりも、罪深いものだと思う。 知らなかったから、と言って罷り通るのであれば、それほど世の中にとって不条理かつ理不尽なことは無いだろうと、身を持って実感した。 知らないということで、全てが許されるのならば。 世の中から、悪や罪は消えてなくなってしまうだろう。 さぁ、種明かしをしよう。 沢村栄純は、若くしてとても優秀な研究員だった。 化学分野の知識、中でも薬学の知識と才に恵まれ、15歳の若さにして海外の大学で博士号を取得。 その後、熱烈なラブコールを受けてとある企業へと就職をしたのが、大学卒業から数ヶ月後のことだ。 その当時の日本は不景気まっただ中で、将来の利益より目先の利益。 そんな風潮が国内どこへ行っても色濃く、政府も直接的な利益の出る公共事業や社会福祉に資金をつぎ込んでいた。 そのため、化学や物理といった研究分野への資金援助が少し敬遠されていた時代だったこともあり、科学系の研究所はどこも赤字が続いていて、設備も諸外国と比べて充分とは言い難いものしか用意出来ないことが殆どだった。 沢村にとっては、好きな研究が出来る環境であれば、特に国内外問わなかったこともあり、大学に残って研究職に就くことも考えたけれど、とある企業から声がかかり、実際その誘いに乗ったのは、その企業の充分すぎるほど大掛かりな設備に心惹かれたからだ。 沢村の在学していたのは、日本人の誰が聞いても一度は名前を聞いたことのあるような有名大学で、世界でも有数の研究設備が整っていたけれど、そんな沢村でも資料でしか見たことのなかったような様々な器具や薬品が揃えられた研究所は、沢村の興味をこれでもかと言うくらいに、引いた。 二つ返事で了解をして、それからはとにかく、好きな研究に没頭する毎日。 なんの不自由もなく、ただ平和だった。 与えられた社宅(社員寮と言われたが、寮と言い切るには待遇が良すぎた)に暮らして、気付けば日を跨ぐことも、研究室に泊りこむこともあったけれど、基本は自分の好きなことをして、たまに会社のお偉方のような人から与えられた事をこなす。 そんな、平穏な日々。 その少年と出会ったのは、ちょうどその頃。 日本に帰国して、会社勤めをはじめて、数週間経ったころの話。 「……お前、そんなとこで何してんの?」 「これが遊んでるように見えるなら、オニーサンの頭も大したことねぇな。」 朝一番、いつも通りに研究室の扉を開けたら(この研究室はほぼ沢村の専用みたいになっているから、沢村以外は誰も使うことはない)、そこにいつもはあるはずの無い人影があった。 ちょこんと机の上に座る、小さな影。 椅子から上ったのか、少しだけ遠くに離れた俺の椅子の下には、ご丁寧に靴が並べて置いてあった。 机に座って、ぶらぶらと足を揺らしながら、股の間についた手に体重をかけて、少し前のめりになったような状態で、こちらを見ている子供の口からは、何だか生意気な言葉が聴こえた気がした。 子供特有のデカイ目を縁取る大きめの眼鏡がまた、なんだかアンバランスな子供だ。 「っつーか、俺が聞きたいのは、なんでここにいるかってことなんだけど。鍵かかってたろ。」 「かかってたけど。」 「なんで入れてんの。」 「…?入れたから?」 きょとんと不思議そうに目を丸くして、首を傾げる子供に、眉根を寄せる。 昨晩帰る時、確かに沢村はこの部屋を施錠したはずだった。既に癖のようになっているから、どうだったかと思い出しても記憶は正直定かではないけれど。それでも確かに施錠した、はず。 この部屋は沢村専用のようになっているから、あまり他人が入る事は無い。とはいっても、誰が鍵を持っているかなんて沢村自身も知らない。関係者であれば自由に出入り出来るようにはなっているんだろうけど、沢村は研究以外の細かい事は基本どうでもよかったこともあって、気にしたこともなかった。……が、こんな小さな子供が、“関係者”であるとは到底思えなかった。 まずどうして、こんなところにいるのか。他の社員の誰かの、子供だろうか。 「もしかして、迷子?」 「いや?ここに来たくて来たわけだから、目的地はここだし、迷子では無ぇな。」 「目的地?ここが?」 「そう。新しい研究員が入ったって噂になってたから、見に来てみた。」 「見に来てみたって…。」 「そしたら、唯のガキでびっくりした。」 ガキにガキって言われたんだけど、 「…そういうお前はどこのガキだよ。」 「俺?俺は、ここに住んでる。」 「は?ここに?」 …どういうことだろう。 ニコニコ笑う子供が嘘をついているとは思えないけれど、その純粋な笑みにどこか合わない大人びた言葉に、妙な違和感を覚えた。 大人をからかうなと言おうかと思ったけど(その前に自分も世間一般では子供に分類されることに気付いたけれど、見ないフリをした)、それより先に、ぶらぶらと揺らされる少年の足にふと目が行った。 半ズボンの先、膝より下の衣服から出た足の部分には、よく見れば奇妙なくらい多くのガーゼや絆創膏が貼られている。 よく見れば、首元にも。 これくらいの年の子供には普通のことかもしれないけれど、それにしては少し数が多いように思えた。 偉そうな態度は少しイラッとしたけど、所詮子供だとその辺は上手く割り切って、思わず「お前怪我してるのか…?」と問いかけていた。 するとそれに首を傾げた少年が、心底不思議そうに目を大きくする。 「怪我?」 「だってすげぇ数の、その、絆創膏とか…。」 「ああ、これね。さっきまでちょっと血が止まらなくて不便だったから、貼ったんだ。」 ニコニコ笑う子供の笑みは、全く変わらない。 痛々しいくらいにガーゼの貼られた足から、べりっと一枚ガーゼを剥がす。ちょっと、なんて言うにはあまりにも生々しい傷が、その下から現れてぎょっとした。 「おま、それ…!」 「なぁ、オニーサン、“さわむらえいじゅん”って人だろ?」 「え?あ、まぁ、…。」 「ふうん。アンタが、“天才”ね。」 舐めるように上から下まで見渡される視線の動きを感じて、なんだか居た堪れなくなる。 なんだこの、マセたガキは。 「…アンタの目は、普通なんだな。」 「え?」 思わず自分の世界に旅立っていたら、反応するのが遅れた。聞き返したけれど、それに言葉は返って来なかった。 ぴょんっと飛び降りた子供が、机の下の靴を引っかけて、俺のところまで走って来る。 小さい。 近くで見たら、想像よりもっと小さかった。幼稚園…いや、小学生くらいだろうか。 「俺は、御幸一也。」 よろしく、と、一丁前に差し出された小さな手を反射的に握り返したのが、確か最初の記憶だった。 それから御幸は、ことあるごとに沢村の研究室に入り浸るようになった。 勝手に部屋には入って来るけれど、余計なものに触ったり余計な事をしたりはしないから、最初のうちはいろいろと咎めていた沢村だけれど、段々とその回数は減り、そのうちに御幸がいることが普通になってきていた。 御幸はただ研究室に来て、何も言わずにそこにいる。 たまに構って欲しそうな視線を感じてそちらを向けば、案の定目が合うこともあった。 「どうして一緒に居られねぇの。」 不満そうに頬を膨らます姿は年相応子供っぽい顔。それに、小さく笑う。 「そりゃお前、俺には仕事があるからだよ。」 「つまんねぇの。なんで仕事してんの。」 「そのためにここにいるんだから、仕方ねーじゃんか。」 「おわったら、遊んでくれる?」 「いいけど…お前いいのか?いっつもこんなところ来て。」 「いいよ。…でも夜が来たら帰れなくなるから、それより前には帰るかな。」 「そうしろそうしろ。お前マジで暗いの駄目だもんなー。」 「…今ガキだと思っただろ。」 「お、正解。」 「…罰として今日はここに泊めて貰うことにした。」 「はぁ!?なんだそれ勝手に、」 「………嘘だよ、ちゃんと帰る。」 それまでに何して遊んで貰おうかな、と言いながら、足をぶらぶらさせて御幸が口笛を吹く。 その横で俺は小さく息を吐いてから、今日もまた顕微鏡や試験管と睨めっこする。 ちらりと盗み見た小さな子供に少しだけ笑みを浮かべて、それに気付かれないように俯いた。 「沢村さんと一緒に寝たら、寝れなさそうだし。」 「それは俺の寝相云々のことを言いたいのか。」 「…。」 この何も知らないような無垢な顔でケラケラと笑う子供が、 組織の実験モルモットの一人であることを沢村が知る頃には、それから3年の月日が経過することになる。 「どうしてそんな大事なこと、俺に話してくれなかったんだ。」 子供にとっての3年は長い。だから初めて出会ったころから少しだけ伸びた…とはいっても、まだまだ小さな体で机の上に座り、出会ったころ同様、ぶらぶらとその机の上で足を揺らす姿はどこからどう見ても小さな子供だ。 その横で、いつもなら試験管片手に一人実験に励む沢村の手には今日は何も無く、難しい顔で拳を強く握って俯くだけ。 それを御幸はいつも通り飄々とした表情を浮かべて受け流しながら、小さくため息をついた。 「知らなかったなんて知らなかったし。」 「嘘つけ!」 「…聞かれないことは、わざわざ言わないし。」 「ふざっ、けんな…!!」 バンッと思いっきり叩きつけた机が振動して、小さく御幸の体が揺れた。 その手足に日ごとに増える、包帯やガーゼの数々。 昔から、おかしいとは思ってた。思ってはいたのに、どうして今まで聴かなかったのかと、沢村はただ強く唇を噛む。 「あんな…!あんな実験してるなんて、俺は知らなかった!!」 「だろうね。」 「どうして…あんな、酷いこと…!」 「…人体実験なんて、いつの時代にも付き物じゃねぇ?」 「あれはそんな生易しいもんじゃねぇだろ!」 「んー。まぁ、確かに優しくはねぇなァ…。」 「笑いごとじゃねぇよ、バカ!」 沢村の握る拳に、力が籠る。 先ほどみた光景が、瞼に焼き付いて離れない。悲痛な叫び声が、鼓膜にこびりついて、離れない。 部屋にある今までの自分の実験成果を全て、燃やしてしまいたかった。 これが今までどう使われていたのか、考えただけでぞっとした。 これがどういうことに使えるのか、沢村が一番よく知っていた。 そして多分御幸が、その次くらいにその身を持ってよく知っていたのだろう。 「…お前が、暗いところを極端に嫌がったのも。」 「ははっ、…あの部屋暗いんだよなぁ。悪趣味なくらい。」 「人が近くにいると、目が覚めるのも…。」 「…いくら寝てても叩き起こされるからさ、もう習慣?」 「全身に、信じられねぇくらい怪我があるのも…!」 「……いたいけな子供の体いじくりまわしてどうするんだってぇの、なぁ?」 ケラケラ、と。 相変わらず御幸は、子供らしくない子供の声で明るく笑う。 それを見る度、沢村の顔はどんどん酷く歪んだ。 この手が。 何も知らなかった自分の手が、例え直接ではないといえ、御幸や、他の子供にどれだけの傷を与えたのだろう。 いとも簡単に人を傷つけることが出来る、それだけの技術を、自分が持っていたことをどうしてもっとよく考えなかったのだろう。 自分の有り余るほどの知識が、怖い。 自分の信じられないくらいの無知さが、怖かった。 「お前は、俺が護るから。護ってみせるから、だから…!」 隣にある、小さな手を掴む。 けれど見上げた先にあった瞳の色に、ゾクリと小さく体を震わせた。 「バカだな。…沢村さんだって、組織の人間には変わりねぇじゃん。」 え…?と声がきちんと出ていたのかどうかは分からない。 ぴょんっと机から飛び降りた御幸が、いつも通りきちんと揃えていた靴を引っかける。「楽しかったのになー。」確かにそう御幸が小さく呟いたのが、聴こえた。 そのまま沢村の傍まで近寄って来た小さな体は、その大きな眼鏡の後ろで大きな笑みを浮かべる。 「だから、さよならしよう。」 激しい、警告音。全身を劈く、不快な機械音。 「…っ、はァ…!」 心臓が、煩い。 遠くから、幾重にも重なる足音が、地面を通して伝わって来る。 まるで心臓が背中に移動してしまったかのように、背に触れる冷たい壁越しに心拍数の上昇した鼓動の音が響いて、酷く気持ちが悪かった。 薄暗い照明も、無駄に真っ白な壁や床の続く廊下も。 沢村にとっては随分と見慣れた風景ではあったのだが、今日ばかりはその白さが妙に攻撃的に沢村の瞳を焼いた。 建物自体は広い。不規則に枝分かれする室内は、さながら迷路のようで、その実一度間違った道に迷いこんだら、正しい目的地に着くことは厄介なのだ。 沢村はそれをよく知っている。 何度も何度も、その壁に行方を阻まれて来た沢村は、誰よりもそれをよく知っている。 沢村にとってここは、もう何年も生活の場であったのだから。 そして何年経っても施設の中で迷う沢村に、「部屋の入口に紐付けて帰れるようにしたら。」なんていつもバカにしたように、御幸に笑われていたくらいなのだから。 揃わない息を殺すように、両手で口を塞ぐ。 上下する肩が、激しく高鳴る心臓が、全身を流動する血液、その全てが、今にもその口を破って出て来そうだった。 逃げられるのか。 …否、無理だ。 だってもう、どこに行ったらいいのか分からない。 どこに逃げたらいいのか分からない。きっと捕まって、逃げたのがバレたら、殺される。 ポケットに入れた手に力を入れる、ぐしゃっと音が鳴る。 白衣のポケット、ズボンのポケット、いたるところに入れた紙切れと、胸ポケットで小さく音を立てて揺れるフラッシュメモリが、体全体を重くしているようにも感じた。 逃げられない。 駄目だ。 (ごめん、御幸。) 折角、逃げろとお前が言ってくれたのに、俺は…。 脳裏を過る、絶望的な想像。 ぎゅっと目を瞑る、その瞼の裏いっぱいに鮮血が広がる。けれど、その前に 「………………な、っにやってんだ!アンタ!!」 大声に弾かれるように顔を上げる。 「みゆ、き…?」 幾重にも枝分かれした廊下から繋がる部屋の扉が突然開いて、同じく突然現れた御幸の手によって、軽々と引っ張り込まれる。 綻ぶ表情。 伸ばした先、闇色に慣れない瞳では分からないけれど、そこには確かに温かい温度が手に触れた。 瞬間、触れた場所から穏やかな気持ちが溢れるような気分に、ふっと緊迫した沢村の表情が緩む。が、ほんの少しの間をあけて、逆に、暗闇の中でも分かるくらいの激昂した空気を纏った御幸の、怒気の含まれた声が静かに響いた。 「なんでまだこんなところにいるんだよ…!?早く逃げろって、あれほど…!」 「うん、でも、」 「でもじゃなくて!」 「だって…!やっぱり俺、お前と――…、」 「それは、無理。さよならって、言ったのに…俺が、どんな気持ちでアンタを…!」 「分かってる、分かってるけど、でも俺は…!」 「…っ、!しまった、気付かれた…!」 「え…?」 「亮さんでも、やっぱり駄目か…。」 一体何の部屋なのか分からない狭い室内、乱れた呼吸が混ざり合うくらいの距離で、重なり合う声の途中、御幸の諦めにも似た声が響いた。 「…この部屋、今は使って無い太い配管が通ってる。それを使ったら、すぐに外に出られるから。」 「でも!」 「でもじゃない!」 「…っ、」 「…俺は一緒には行けない。ちゃんと話して、納得しただろ?…ほんと、聞き分けのない大人だなぁ…。」 「でも…。」 「…ほら早く。もう時間が無い。」 今まで、滲みだすほどの怒気を纏っていた御幸の声が、ふっと柔らかく撓む。 張りつめていた線が、ゆったりと伸びやかに緩んで、掴まれた腕は、そっと力が抜けた。 それと同時に、離れる距離。…遠くでまた、足音が聴こえた。 「…お前だけこんなところに…、置いて、いけねぇよ…!」 「…相変わらず、変なところで欲張りなんだよなァ、アンタは。」 「だっ、て!」 「…大丈夫、絶対アンタだけは俺が助けるから。だからアンタは、安心して逃げればいい。」 違う、そうじゃない。 俺の望みはそんなことではなくて、と、否定の言葉を叫ぼうとしたけれど、それは許されなかった。 「……さよなら、」 御幸の口が、ゆっくりと紡ぐ。最後のことば。 前に聞いたのとは、違う。もっともっと、優しくて、体全体に染み込んでいくみたいな、声だった。 離れた体をぐるりと反転させられて、無理やり押し込まれる。 振り返ろうと思っても、足をかけて体を押し込めた配管は、太いといえども、大人一人が漸く入れるほどの大きさで、後ろを見ることは叶わなかった。 走れ、と御幸が叫ぶ声。 鳴り響く警告音。響く扉の音。 暗闇の中。 沢村に残された最後の記憶は、聴覚にだけ深く刻まれた。 絞めつけられるような痛みに、涙の変わりに小さな呟きが落ちる。 それはもう、誰にも届くことは無く。 「………御幸――…、っ…!!」 それがたしか、最後の記憶。 (なぁどうしてそんな大切なこと、俺に話してくれなかったんだよ。) 人から聞いた話だというのに、繰り返す度になんだか懐かしさが込み上げてくる。 思い出せないのに。信じられないのに。なぜか、胸のあたりが熱くなる。 これに似た感覚を、俺は最近よく味わっていた。 夢見が悪いとぼやく俺を、心配してくれる金色を、思い出す。 お世辞にも安全運転とは言えない乱暴なハンドルさばきで走る車が、グンッとアクセルを踏む度、窓の外を流れる景色が速度を持って流れて行く。 どれだけ走ったのか分からない。 「…着いたよ。」 お望みの場所へ。 そう言われて車から降りて見上げる風景に込み上げてくるのは、懐かしさでもなんでもなく。 (…御幸に会いたい。) ただ、それだけを。 [TOP] |