09 | ナノ

09



「御幸はもうここにはいねぇ。戻ってもこねぇ。それをお前に伝えるのが、俺の役目。」


淡々とそう告げた来訪者は、それだけ言うと扉にもたれていた体を浮かし、「そんじゃ、」といっそ清々しいほどの軽さを含んだ声を跳ねさせて、ひらひらと手を振る。
そのまま踵を返してあっさり外に出て行こうとするもんだから、一瞬呆けた俺は慌てて我に帰ると、声を発するより先に足が動かした。
フローリングの床を蹴って、一歩、二歩三歩。歩数を進めるごとに大股になって、一気に距離を詰める。一瞬だった。自分がこんなに早く動けるのだと、初めて知った。


「ちょ、待って!」


手を伸ばす。大人になっても学生時代からそう変わらなかった体格のせいで、決して長いとは言えないリーチだったけれど、それを精一杯ぐんっと伸ばして、ひらりと揺れた布を掴む。
掴んだそれを思いっきり引けば、静かだった部屋に蛙の潰れたような鈍い声が響いた。


「ぐえっ!」
「ちょっと待て、意味わかんねぇし、ちょっと!」
「が、…が…っ!」
「なんでそんなことだけ早々逃げようとすんだよ!なんなんだよ、アンタ…!」
「ぐ、ぐ、…ぐ!」


必死に、まるで縋るように、ぎゅうっと握りしめた布は離さない。だって今これを離したら、もう一生本当に御幸に会えないような気がした。
すると、急にじたばたと暴れ始めた少年が、思いっきり力を込めて引っ張るもんだから、逃げられちゃ困る、と更に力を込める。どうして、なんで、ただ、聴きたいだけなのに。
そう思って少年の方を向けば、なぜかジタバタと体を動かす。必死に。…必死、に?


「…あ。」


思わずパッと手を離したら、べしょっと思いっきり少年が床に膝をつく。
磨き上げられたフローリングに、少年の顔が映る。よく見なくとも、その顔は真っ青だった。
…やっべ、締めすぎた。


「…っ、は!!…てめぇ!!殺す気か!!」
「だ、だってあんたが逃げるから!!」
「だからって絞殺の勢いで絞めんじゃねーよ!!」
「ご、ごめん…。」
「…んだよ、」


流石に悪いと思って謝る。
烈火のごとく怒りだされたらどうしようと思ったけれど、予想に反して目の前の少年は、一度大きく舌打ちをしただけで、なんどか深く呼吸をして、息を整えることに徹しているようだった。
その後吐き出された言葉には、勢いと圧力はあれど、怒気は無い。
どうやら見た目に反して、そこまで怖い人間ではなさそうだった。そう意識してみれば、ぐっとその顔にもあどけなさが宿って見える。御幸と同い年くらいだろうか。ふとそんなことさえも思った。
だから、自然と口に出していた。「御幸、どこに行ったんだ…?」

俺のその言葉に、至近距離で何度か深呼吸をしていた少年の雰囲気が、ザラッとしたものに突然変化する。


「どこって…、別にどこでも、お前には関係ねぇだろ。」
「ある!!」
「は、」


その変化を、不穏な空気を、振り払うように反射的に大声を上げる。流石の少年も間髪入れずに返って来た大声に、少しだけ目を丸くして、言葉を止めた。その隙に、声を張り上げる。


「だって御幸は、ついこの家で一緒に暮らしてて、俺の息子だって言って、料理とか洗濯とか…!とにかく一緒に、住んで、いろんなことを、して、話して、なのに突然…、それで、」



それで、なんだろう。
続く言葉が見当たらない。それで、そう何度も繰り返す。それで、その言葉が所在なさげに宙を舞って、どこにもぶつからずに、落ちることなく、ふわふわと宙に浮いた。
変わりに視線だけが、ゆっくりと落ちて行く。立ちあがった少年の顔はもう、フローリングには映らない。


「一緒に暮らしてた、って?」
「…そうだ、よ…。」
「…あいつは突然ここにやってきたんだろ。あやしいと思わなかったのか。アンタ。息子だなんて、まさか本気で信じてたわけじゃねぇよな。」
「…それ、は…、」
「理由を言わずに来たんだ、理由を言わずにいなくなるのまた、自然の流れだとでも思っておけばいいんじゃねぇの?」


そうまるで正論のようにはっきりと言われるものの、その言葉に明らかに含まれるのは、多大な理不尽さだ。
突然やって来た人間を暫く何も言わずに面倒見て?いなくなったら気にせず元の生活に戻って?何も知らず、何も知ろうとせず?
…一体どこの聖人君子だ、そんなの。

どうして勝手に。全部勝手に。ぶつけたい憤りはどこに投げつければいいのか。ゴミ箱か。丸めてゴミ箱に捨てれば、消えてなくなるんだろうか。否、そんなの、無理だと思った。だって少なくとも俺は、御幸のことを本当に家族みたいに思ってたんだから。その期間が、例え短く儚い、夢みたいなものだったとしても。




「とにかく、御幸はもう戻ってこねぇよ。」




だから、重ねて言われた言葉が、痛かった。
離れた手が、宙を掴む。ひらり。布が舞う。上手くつかめない。ああこれを離したらもう、御幸には会えない気がするのに。
手を伸ばすけど、至近距離の相手の体が捕まえられない。もし捕まえても、まるで泡みたいに消えてしまいそうで怖くて力がいれられなかった。
さっきまであんなに渾身の力で、握りしめていたのに。俺の心の中を満たすのは、今や怯え唯一つ。


「…っ!いってぇ…!!」


遠のいていく現実に、引き戻してくれたのは少年の大声。
ハッとすれば、まだその姿はほんの目の前にあった。
けれど俺の手は、その体のどこにも届いていない。俺の体の横にだらんとくっついて、脱力していた。それなのに、目の前で、少年が頭を抱えて蹲る。

なんだ、何が起きたんだ。


「…バーカ。」


するとまたもう一つ違った声が、少年を越えた先から聴こえた。「…何年上虐めてんの?倉持。」軽やかなのにどこか重さを含んだ、そんな声。青年というべきか、青年というには、その声はどこか細く、透き通っているような気がした。
それにいち早く反応したのは、俺じゃない。
俺がその正体に気付くより先に、バッと勢いよく少年が立ち上がる。


「りょ、亮さん…!」


名前を呼ばれた先、遮られた視界の片隅で、桃色が揺れたのが一瞬目を掠めた。


「お前は頭まで筋肉なの?バカなの?ああ、バカか。」
「ひ、ひで……、っつーか、なんでいきなり殴るんすか!」
「酷いのはどっちだか。…まぁ俺的には正直どっちでもいいんだけど、後から御幸に煩く言われんのは、面倒だしね。」
「それ、は…。」
「さっきのが“説明”になるんだったら、世の中の取り説は一文でいいことになるよな。そしたら日々あちらこちらで裁判沙汰だ。日本は弁護士の数が足りなくなって、さぞ大変だろうねぇ…。」
「俺が悪かったです。」
「うん。分かればいいんだよ、分かれば。」


突然現れた新たな声の主に俺が反応出来ないでいる間に、目の前で繰り広げられる攻防。さっきまで、自分より小さめのその体格である少年に、言い知れぬ大きな恐怖さえ覚えていたというのに、そんな少年が今はまるで、悪戯を咎められる子供のように見えて、戸惑う。
一体なんなんだ。っというか、今更だけど、だから鍵はどうした。鍵は。


「…あの…お取り込み中申し訳ねぇんですけど…」


恐る恐る、声をかける。
少年が視覚で、その先はあまりよく見えない。


「「ん??」」


ほぼ同時に、返って来る声。


「……誰なんだよ、アンタら…。」


そう言えば一度も答えてもらっていない質問。同じ質問を今日三度目、口にする。


「…ああ、“例の”。」


もしかしたらまた返って来ないんじゃないかと一瞬頭を過るものの、存外穏やかな声音に包まれて少し肩の力が抜ける。
立っていた少年が少しだけ横にズレた先、目に飛び込んできたのは鮮やかな桃色。
場に不似合いな穏やかそうな笑みを浮かべた小柄な、…少年?
華奢で小柄。見た目だけでいえば、少年と言っても異論無さそうだったけれど、その顔に浮かべられている表情を見て、ゾクリと先ほどの少年に対して抱いたのとはまた違った種類の恐怖が背中を走った。


「御幸の、“オトーサン”。」
だろ?


揶揄するような響きを含んだ言葉を、クスクスと空気を震わせるような笑みを一緒に投げかけて来る。

さっき、恐怖にたじろいだのを何とか隠して、じっと真っ直ぐ目線を合わせた。
絡まる、視線。
どちらも何も言わない。
空白が室内に宙ぶらりんに落ちる。

何か言おうと口を開いたけれど、それより先に、「っつーかめんどくせぇ!」と間に挟まれていた少年の大声響いた。


「倉持、煩い。耳が痛い。」
「俺、こういうまどろっこしい事苦手なんすよ!!」
「腹の探り合いは基本だよ。」
「…こいつに探れるような腹があるとは思わないんで。」
「……まぁ、それも一理あるね。」


何だか凄く馬鹿にされてる気がするんだけども。


「…あの、」
「まぁ、簡単に言やさ、俺たちは、御幸からアンタに伝言頼まれて来たんだよ。めんどくせーけど、わざわざな。」
「…伝言…?」

「御幸はね、ずっとお前のことばっかり考えてたよ。」


俺の質問に対しての答えは返してくれなかったけど、そう御幸、と言われれば自然と意識がそちらへ持っていかれた。
そういえばさっきも、御幸の“知り合い”だと言っていた気がする。
伝言、そうだ、もう、ここには戻って来ないって。それで。


「…今も、昔もね。」
「…昔、も?」
「御幸と一緒に居たころのことなんか、沢村は忘れちゃってるのかもしれないけど。」


どうして俺の名前、とは、もう言わなかった。
それくらいではもう、疑問にも思わなかった。
忘れているのかもしれない、それは多分、俺の。「昔の記憶…?」呟いた言葉に、ふっと桃色の髪をした少年の口元が一瞬緩む。
いい子だね、と、聴こえた気がした。


「ここから先は、正直聴いただけじゃ信用すら出来ないような話ばかりになる。」
「多分、普通に聞いていたら、“そんなのあり得ない”そう思うだけ。」
「現実的じゃない。映画にしては陳腐過ぎる。」
「そんな“現実”の話だよ。」


淡々と、本当にただの“伝言”のようにつらつら並べられる言葉を聞いていると、一瞬心の中に迷いが生まれる。
生まれた迷いを見透かすかのように、少年の目が、真っ直ぐとこちらを見た。
それは多分、御幸が隠していた、箱の中身だ。
『確かに俺、ちょっとアンタに言えないことがあります。』


開いてもいいのか、御幸。
この二人は、お前が俺に寄越した、“鍵”なのか。どうなんだよ御幸。


そう何回問いかけても、答えは無い。傍にいたころと変わらない。居ても居なくても変わらない、御幸は俺の疑問に一つも答えてくれない。
いつも、勝手だ。


だから俺だって、勝手にする。


「それでも聞、」
「聞く!」


言葉尻に食いつくように、大声を上げる。
一瞬驚いたみたいな色が浮かんだ少年の顔。間に挟まれた少年は、咄嗟に耳を塞いで嫌そうな顔をしていた。「聞きます。」もう一度、しっかりと言葉にする。

すると、さっきよりもはっきりと笑みを口元に浮かべた少年が「良い返事だね。」と小さく呟いた。


「じゃあ、説明してあげる。」
「…お願いします。」
「っていっても、俺じゃなくて、倉持がね。」
「俺かよ!」
「あれ?文句あるの?」
「…や……無い、っす、けど…。」


なんかたった数分だけど、この二人の力関係が分かって来た気がした。「…ったく亮介さんは…。」そう不満そうに漏らされた呟きの後、コホン、と一つ落ちる小さな咳払い。
無遠慮にズカズカと歩いて来て、突っ立っていた俺を通り過ぎ、ドカッと音を立てて椅子に座りこんだと思えば、無駄のない所作で足を組んだ少年が、少し穏やかになった声音でポツリポツリと語りだす。
振り向けば、いつの間に移動したのか、そこにはもう一人の少年の姿もあった。


「俺の名前は、倉持。…んでこっちが、亮さん、…小湊亮介さん。」


くらもち、
こみなと。

どちらを聞いても、聞いたことのない名前だった。「俺と亮さんは、御幸のいわゆる“腐れ縁”みたいなもんで、」、倉持と名乗った少年が、そう続ける。


「簡単に言うと、“御幸一也”や…まぁ、俺や亮さんは、“ある組織”に所属しててな、」



はあ…?



「……はあ。」



思わず思ったことがそのまま口から出る。

それくらい、本当に途方もない話だった。





『アンタの傍に近づいたのは、決して、アンタに何かしようとか、』
『アンタをどうしようとか、そういう、つもりとかじゃ、全然無くて、』
『沢村さん、俺はね、ただあんたの家族になりたかったんだ。』




目を閉じた先でならいつでも会える御幸は、

なんだか泣きそうな顔をしていた。





「アイツ、……御幸は、組織の命令でお前相手に派遣された、組織の工作員の一人だったんだよ。」








[TOP]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -