08 | ナノ

08



どれだけ現実に近いリアルな夢を見ていたとしても、目が覚めて、意識が覚醒してくれば、「ああ、あれは夢だったんだな。」と心の中で感じるのが夢だ。
疑似現実のように、痛みや感情を感じても、涙を流したり笑みを浮かべたりしても、所詮それは自分の脳内が移しだす都合のいい映像の中の出来事でしか無い。
現実に戻って来た後の自分にとって、『日常』とはかけ離れたそれらは、完全なる『非日常』でしかなく、それが現実に干渉してくることは、ほぼ皆無に近い。
今も、まるでそんな感じだった。


目が覚めて、朝食を取る時間が無かったから、昼飯まで我慢する。
何とかギリギリで仕事に行って机に座り、昼飯時になれば、コンビニか食堂に走って腹を満たす。
その後また机や、独特の匂いのする部屋で永遠と顕微鏡や試験管と睨めっこして、時計の針が下に落ちれば、いつの間にか黒に染まりきった空をぼんやり見上げつつ、帰路に着く。
家の近くになってから、ああそういえば冷蔵庫に何も無かったなと思いついて、ふらりと右折した先のコンビニで、籠を持つのも申し訳ないくらいの決まりきったメニューを、どこか愛想の無い店員から受け取って、人差し指に引っかけたコンビニの袋を軽く揺らしながら、部屋に帰る。
買ってみたパンは、なぜか味気なく、明日は違うヤツにしようとその時は思うけど、多分明日になればそんなことも忘れていて、また同じようにこれを買って来てしまう気もした。「たまごコロッケパン」と書かれたビニールを、丸めてゴミ箱に捨てる。たまごのコロッケなのか、たまごとコロッケなのか、そのネーミングセンスは良く分からない。けれど、どちらにせよ、口の中にのこる味は、たまごともコロッケともパンとも分からない、なんだかなんとも言い辛い味だった。


そんな、日常だ。
そんな日常が繰り返されるだけの、普通の毎日。
夢から覚めた後の現実に、夢は何ら影響を与えない。


だからここの御幸がいないことなんて、すぐに慣れると思っていた。
あれは夢だったのだと、鈍い脳が錯覚することを期待していた。


だって、御幸がいた時間よりも、一人でいた時間のほうが断然長く、元来ここは、俺一人の居場所だったんだから。
すぐに、戻れると思っていた。
右手が動く。探すのは、ライター。けれどふと思いついて、ライターはあれど、煙草が無い事を思い出した。
最後に吸ったのはいつだったっけ。ふとそんなことを考えるくらいには、久しい。
ああそうだあれは、あの日だ。
御幸が初めてこの家の敷居を跨いだ日、口から落ちた煙草を踏みつけたのは俺の脚だった。


そんな俺を見て、確かに御幸は『現実』で、俺に向かって笑ってたじゃねーか。


(ああ、バカだなぁ。俺。)

丸めたビニールが、弧を描いて、飛ぶ。空間を移動して、コツンと音を立てて当たった先は、残念ながらゴミ箱には当たらず、その隣にあった便利ラックにぶつかって、落ちた。
そこにあったのは、静かに鎮座する、炊飯器。
この家に、家電製品があったのだということを。
それを教えてくれたのは、確かに御幸だったのに。


「…なんだお前、そこにいたのか。」


帰って来た格好のまま、よれたスーツの胸元には、それ以上に不格好に曲がった、ネクタイ。
ポツンと呟いたらそれが揺れた気がして視線を落としたら、「お前最近また曲がったネクタイで仕事来るようになったよなぁ。」と、職場の同僚の声が聴こえた気がした。彼女とでも別れたか、と冷やかしの含まれていたその声が、耳にこびり付いて離れない。
彼女なんかじゃねぇよ。居なくなったのは、息子だよ。

否、本当なら息子ですらなかったのだから、何なのだろう。
御幸はなんだったんだろう。
たった数カ月、俺と一緒に暮らしていたあの少年は、一体だれだったんだろう。



『…好きなんだよ、沢村さん。』



他にいくつだってあるはずなのに、思い出すのはその言葉だけだ。
瞼を閉じればその裏に映しだされるのに、目を開けたらどこにもいない。
いない、いないんだ、御幸が。どこにも。
消えてしまった。最後に一つ、朝食だけを残して。


御幸はいなくなってしまった。
言葉にすれば、ズン…と突然ふいに重みを持って、胸の中にずっしりとそれが落ちて来る。
御幸は、いなくなってしまった。


「……礼の一言も、無しか。」
サヨナラの一言も、ねーのかよ。


随分生意気なガキだ。本当。
親の顔が見てみたい。そう思って窓を見たら、暗くなったガラスの先、ぼんやりと映る俺の顔があった。



「御幸…。」



誰もいない空間に落ちた呟き。唇が象った簡単な三文字が口から漏れれば、なぜかそれ以外に熱いものが目から落ちた。
返って来ない返事。元から広い空間が、更に撓んでその分大きく広がったように感じた。


「…もう、戻って来ねぇのかな…?」


例えばまた突然チャイムが鳴って、こんにちは沢村さん、って笑いながら、「俺がいなくても、あんたやっぱ変わんねーな。」なんて笑いながら、生意気なことを言ってのける御幸は、もう戻って来ないんだろうか。

疑問の形を持ちながら、それは確信に近かった。
一度覚めてしまった夢の続きを見ることが困難だってことくらい、知っている。

だからそれは、誰にもぶつかること無く、疑問のままさ、さっき落ちたビニール袋みたいに、部屋のどっかの家具に当たって落ちる予定だった。

けれどそれが、予想だにしてなかった場所から、投げ返される。


「よォ。」
「…、は!?」


だらりと体を預けていたソファの後ろ、自分の頭のちょうど真裏、後頭部の延長線上に伸びた先にある扉の方から、突然小さな声が聴こえた。
小さいといっても、か細いとか音量が小さいとかそういう小ささではなく、短い音がポンとはっきり飛んで来たくらいだったから、最初は何かの聞き間違いかと思ったけど、「顔に似合わずイイトコ住んでんじゃねーか。」なんて、どこかで聞いたようなセリフが聴こえれば、思わず体を反転させて、振り向いていた。

そこにあったのは、もちろん、見知った茶色の髪の毛でもなければ、縁の太い眼鏡をでもない。


「……誰?」


首を捻る。御幸とはまた違った、ある種整った顔立ちの、精悍な少年。…少年?青年?
短い髪が印象的。どちらかといえば、どこかヤンチャそうに見える顔立ちと体格からは、少年と言えるかもしれないけれど、浮かべる表情はどこか眉間に皺が寄っていて、街で見かけたら少し無意識に早足で隣を通り過ぎてしまいそうだな、と考えてしまうような凄みがあった。

総じて言えば、見覚えのない顔だ。
そして確か俺は、帰って来た時鍵を閉めたはず。それは半ば習慣となっていて、意識なんてしたことなったけれど、一瞬で思い返した数分前の自分の行動の中に、鍵を締め忘れたという記憶も別段、無かった。
だから思わず、身構える。得体のしれないものを感じた。それは相手にも伝わったのか、へぇ…と漏らされた呟きと共に、「バカそうだと思ってたけど、鼻は利くのか。」とニヤリと笑われた。


「…誰、だよ…、アンタ…。」


もう一度、同じ質問を。
けれど返って来ない答えに、少し焦れる。
ソファを挟んだ距離。ドアまでの短い距離。警察、と咄嗟に考える。携帯は、どこだろう。脱いだジャケットのポケットか、それとも、鞄か。視線が動く。それを捕えたらしい相手が、「警察はやめたほうがいい。」なんていうもんだから、思わずビクリと肩が分かりやすいくらい大袈裟に震えた。


「なん、で…。」
「別に警察呼ぼうが呼ばまいが、俺は全然構わねぇけど、…困るのはアンタだよ、“沢村サン”?」


どうして俺の名前を。
疑問に思った瞬間に、目の前の少年がプッと噴き出して、顔に出過ぎとケラケラ笑った。


「よく聞けよ、そんで俺に感謝しろよ、バカ犬。」
「は、あ!?」
「探し物も満足に出来ないお前に、俺から出血大サービスだ。」
「探し物、って…。」


探す、と言われて今思い突くのは二つ。
一つは携帯電話の行方、そしてもう一つは。



「俺は、“お前の息子”の知り合いだ。」




来訪者が扉を叩く音がした。





「結論だけ先に言えばな、御幸はもうこの場所には戻って来ねぇよ。」








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