07 | ナノ

07



「やー、やっぱ海は広ぇよな!広大だな!大いなる我らの母なる海は!」
「……知らなかったなァ、俺。」
「んー?なんだよ、なんか言ったか、御幸ー。」
「…沢村さんに、」


遠くから、御幸の声がする。
ザァァっと音がして、その声が全て持っていかれるような。
そんな波の音に、御幸の声も俺の声も掻き消された。


「……極寒の海でデートする趣味があったなんて!」


張り上げた御幸の声の内容に声を上げて笑う。
薄着の御幸が、両手で抱えた体を震わせる。俺が一つくしゃみをすると、それに合わせて御幸の顔が歪んだ。
すぐに駆け寄ってきて、風邪引いたらどうするんだと怒られる。
こんなんじゃ、どっちが“子供”で、どっちが“大人”なのか分かったもんじゃない。
くしゅん。
また一つ、くしゃみをすると、御幸の手がふわりと俺の頭に触れた。

見上げた先、端正な顔立ち、心配そうに見下ろすアンバーが、波の音と一緒に大きく揺れるのが、見えた。


「みゆき、」


なんですか、と寒そうに身を震わせた御幸が、いつもの調子で返してくるのを見ながら、少しだけ微笑んだ俺は、普段あんまりしない真面目な顔に表情を引き結んで、ゆっくりと見上げた先、見えたのは、御幸の顔。

ザァ…と、今度は遠くで、波の音がする。

顔を上げた御幸が、そんな俺の顔を見て、何か感じ取ったみたいに、小さく体を硬くしたのが、空気で分かった。




「…御幸、お前さ…、本当は何者なんだ?」



俺の声で揺れたさざ波が、大きく波打つのが目の前に見えた。















「デートしようじゃないか。」
「……夕飯の後のプリンなら、1個までって約束は変えませんよ。」


何か珍しいものでも見るような目で俺を見ながら、呆れた声でそう告げる御幸に、「そうじゃなくて!」と声を荒げる。
明日の弁当の仕込み(最近の御幸はこんなことまでするようになった)だと言いながら、キッチンに向かう御幸に向かって唇を尖らせれば、やれやれと言った風に近くにあった布巾で手を拭った御幸が、漸く振りむいてくれた。
「なんだよ。」って、料理を邪魔された時は少しだけ不機嫌になるその顔に向かって、「だからデートしようって言ってんだよ。」と、さっき言った言葉をもう一度繰り返せば、緩く首を傾げられる。なんで?そう如実に語る瞳。


「思えば俺とお前は仮にも家族だと言う割に、家族らしいことを何一つしていないことに気付いた。」
「……えーっと。」
「子供の教育は大人の義務だからな。うん。」
「盛り上がってらっしゃるとこ悪いけど、子供子供って俺もう18…。」
「問答むよーーう!!」


バンッと大きく机を叩く。
驚いた御幸の顔を見ながら、いつも御幸がするように、ニヤリと口元を歪めて。


「いいから黙って、俺とデート!これもう決定だから!」


無理やり取り付けたデートの約束。
勝手な人だなと笑う御幸に、俺はいつもみたいに笑い返せなかったけど、あの時御幸は気付いてたんだろうか。

デートの時に、俺が“言おうとしていること”に。
















「…デートってもっと色っぽい話とかするもんじゃないんですか。」


御幸の静かな声が、俺に届く。
ここだけまるで、世界から切り取られてしまったみたいな感覚に錯覚するけど、残念ながら時はきちんと動いてる。横で音を立てて揺れる波や、身を縮こまらせるくらい吹き荒れる冷風が、それを告げる。

俺の問いかけに返って来た言葉は、望んだ言葉ではなかったけれど、それに対しての文句は言わない。
何となく、はぐらかすような御幸の言葉は、予想されたものではあったからだ。
変わりに、ニッ、と歯を出して笑う。あまりに大きく口を歪めて笑ったから、俺の歯に御幸の顔が鏡みたいに映って、泣きそうな顔が、笑顔に反転すればいいのにな、なんておかしなことも思う。
仕方が無いから、また一歩、俺から踏み込んだ。


「…俺さ、聞いたんだよ。」
「沢村さん、」
「昔、バス事故の時に治療して貰った医者がいてさ。その人にこの前、話聞きに言って来た。」
「…。」
「それが、結局まぁ、バス事故なんかじゃなかったんだぜ。笑うだろ。…その上、俺の知らない話、沢山聞かされたんだよ。笑うだろ。」


同じことを繰り返す。笑うだろと、そう言って俺が笑うのに、御幸は笑わない。
その表情は珍しく強張っている。こんな表情を見るのは、そうだ、あの時。俺が階段から落ちそうになった時も確かこんな顔をしていたなと思う。
良くないことが起きることを感じ取っているような。そんな顔だ。


「実は俺って、なんか誰かから追われてる?みたいな?そんで逃げる途中で大怪我して、それから軽い記憶喪失。何のドラマって感じだけど、これが実際ドラマだったらベタ過ぎて白けるよなー。」


御幸は何も言わない。ただ俺の方を、じっと見てるだけだった。
何かを探るような?ううん、戸惑ったような、御幸の方こそ、言葉を探しているような、そんな顔で。


「なんかの冗談かと思ったけど、あの人そんな性質の悪い冗談…言わねーことくらい知ってるし。」
「…何か、」
「ん?」
「何か聞いた?」
「……面白いことなら、一つ。」


漸く言葉を発した御幸に、そう勿体ぶって焦らしつけてみる。すると面白いくらいにその表情が曇った。


「…俺って昔から、お前と知り合いだったんだって。」


一体どこでだろうなぁ?
俺の記憶の中では、お前と会ったのはつい数カ月前が初対面だったはずなんだけども。
御幸、俺さ、なんかすげぇ大事なこと忘れてるみたいなのに、全然思い出せねぇんだよ、それ。
思い出せねぇっつーか、もうそれ通り越して、覚えがないっていうか。
御幸の居た“過去”なんて、俺にはどこにもねぇんだよ。

それとも遺伝子レベルで、とか、SF気取りのことでも、言ってみる?
なぁまだ、“息子”だなんて薄っぺらな嘘に、納まろうとする?

なぁ…答えろよ、御幸一也。


無言の問いかけには、嫌な沈黙だけが流れた。
浮かべていた笑みを消して、じっと見つめた先で絡まる視線は、まるで御幸を窒息させるみたいにその身を縛り付けているのかもしれない。けれど一度開いた口を、俺はもう閉じなかった。追い打ちをかけるように、もう一度さっきと同じ言葉を、声に乗せる。真っ直ぐ、御幸にめがけたそれを、避けられないくらいに強く、速く。「なぁ御幸、お前何者なんだ?」


「俺、は、…。」


煽られるように口を開いた御幸が、何かを言いたそうに何度かその口を開閉させる。
けれど、続くと思われた言葉は、続かない。
ただ沈黙だけが落ちていく。世界だけが、動いていく。


「…御幸はさ、俺の“知らないこと”を知ってんだよな?そうだよな?」
「沢村さん、俺は、」
「…言いたくねぇなら、言えねぇなら、言わなくてもいいよ。」


ハッとしたように御幸が目を見開く。
そんなことを言われるなんて予想外だ、と顔に書いてある。
それに思わず、笑ってしまった。こういうところを見ると、普段大人びて見えるこいつも、ああまだ子供なんだなと思ってしまったりして。そのあまりに場違いな自分の能天気な思考が、唯一緊迫した場を和ませる穏やかな感情だった。


「…っ、」
「無理やり、聞きだしてぇわけじゃねぇんだ。そりゃ確かに知りたいけど…でも、いいんだ、別にそれは。」
「…いいって、」
「だって俺多分、何言われてもわかんねーし。なんか昔のこと聞いたけど、何日経っても思い出す兆しもない。全然前と変わらない。だから多分さ、お前から何聞いても、ふうん、って思うだけだと思うんだよ。」
「沢村さんって…そういうトコ案外適当だよな…。」
「ふふん。変幻自在だろ。」
「…それ言うなら多分、臨機応変。」
「む、」
「……ほんと、沢村さんって…、」


ふ、と御幸の表情が漸く緩む。
笑いがこみ上げるけど、でもそれを我慢してるみたいな顔をして、俺の方を見ながら一つ息を吐いた。
そのまま、すうっと細められた目が、俺を通り越して遠くを見る。何を考えているのか、俺の単純な頭じゃ想像も出来なかった。それから少しして、どこか観念したように、御幸がぼそりと呟く。「確かに俺、ちょっとアンタに言えないことがあります。」
そう言って、また一つ息を吐いた。


「ちょっと?」
「…いや、だいぶ。」
「ぶは!なんだそれ。」
「だから言えないんだってば。」
「パパに隠し事すんの?」
「……それも、もう信じてないんでしょ?」
「ばっか、最初から信じてねーよ。」
「はは…っ、…だよなぁ。」


だよなぁ。と、もう一度御幸が自嘲の色を濃くさせた声で呟くから、そうだそうだ、と俺が乗っかる。
だよなぁ。そうだそうだ。二人でそんなことを繰り返して、どちらかともなく笑った。


「突然息子だって言ってやってきた得体のしれない男を、アンタはあんなに簡単に家に住まわせるの?」
危ない人だなぁ。


「…ばっかだな。俺は最初から何となく本能で勘づいてたんだぜ。」
お前と俺には何かある、ってな!



俺の言葉に、「それは侮れない本能だ」と言って御幸が肩を竦める。
今となっては後付けのような、言い訳みたいな言葉だけど、何となく変な感覚だったのは本当だ。
さっきまで遠かった波音は、今は随分と近くから聞こえていた。
俺はさ…と、口を開いた俺の方に、弾かれたような御幸の視線が向けられる。


「過去のことは…いいよ。話せないなら、それででもいい。ただ俺はもうお前のこと家族みたいに思ってるから。だから……これからお前がどうするつもりなのか、それだけは、…知りたい。」


長い長い言葉を、冷たく間を抜ける風が攫って行く。
再び訪れるかと思った沈黙は、存外早く、御幸によって破られた。


「沢村さん、俺はね、ただあんたの家族になりたかったんだ。」


かぞく。
俺の言葉と同じその単語は、言うのはまだしも、言われるのはなんだかくすぐったい。けれどすぐその中に含まれる言葉にはっとした。
穏やかに笑う御幸がいる。ざわり。今度は俺の胸の中で、波の音がした。



「………俺は詳しいことは、話せない。理由も…言えない。」
「みゆき…。」
「けどアンタの傍に近づいたのは、決して、アンタに何かしようとか、」
「おう、」
「アンタをどうしようとか、そういう、つもりとかじゃ、全然無くて、」
「わーかってるっつーの、それくらい。」
「……やっぱり、変わんねーなぁ。沢村さんは。」


そう言って御幸が俺と比べるのは、どこの沢村さんなんだか。
自分自身のことなのに、身に覚えが無いと、それは全くの別人の話みたいで、ちょっとだけ面白くない。
そんなガキみたいなことを言うつもりはないけども、とりあえず誤魔化すようにポケットに突っ込んだ指先が、ガサリと小さな紙に触れる。それは確認するまでもない、この前クリス先生からもらった、これまた意味の分からない切れ端だ。
俺にとっては何の意味も持たないものだけど、御幸の言う“沢村さん”にとっては、これはとても大事なものだったらしい。…そしてもしかしたら、それは、御幸にとってもそうなのかもしれない。


「あの、さ…。」
「ん?」
「……昔の俺が、…持ってたもの、だって。これ。」
「これ…。」
「…今の俺にとってこれは、ただの紙切れにしか過ぎねぇし、これが何なのかも分からない。俺にとってはいらねーものなんだ。…だから、お前に渡す。」


ポケットの中で握りしめて、ぐしゃっとなったままの状態で、ずいっと付きだした拳。
それを驚いたように見てから、おずおずと俺の手の下に御幸が両手を差し出す。ぼとりと塊になって落ちた紙切れは、握りしめてしまえば、更に小さく、ともすればゴミと間違えられそうなものだった。

躊躇うような、戸惑うような表情を見せた後、御幸が小さく頷いてそれを握りしめる。
俺がしていたのよりずっとずっと強く、何かを固めるみたいに、ぎゅっと握った手の中で、ぐしゃぐしゃになった紙が潰れる音がした。「沢村さん」と、少しして、御幸が俺の名前を呼ぶ。


「沢村さん。俺さ、アンタのことがすげぇ好きなんだ。」
「は?」

その、脈絡もない言葉に、一瞬ぽかんと間抜けに開いた口から、反射的に声が漏れた。…や、当たり前じゃね。
さっきまでのシリアスな雰囲気はどこへやら。
一体いつから、チャンネルが変わったんだ。


「すき、って、」
「好きは、好き、だよ。」
「……家族、」
「残念ながら、そういう好きじゃない。」
「…え、っと、」
「突然言われても困る?」
「困る、とか、そういうんじゃなくて、え?…え?」


クスクスと御幸が楽しそうに笑うけど、俺は全然楽しくない。
さっきまで難しそうな顔をしてた子供は、一体どこにいったんだ。

頭がグルグルする。好き?…好き、って、なんだ…?それ、


どうこたえるべきかどうか分からない。何冗談言ってんだろ、と笑い飛ばそうとしたら、笑ってるのに真剣な、そんな良く分からない御幸の目に押しとどめられた。
開きかけの口が、閉じる動作を忘れたみたいに、固まる。


「…好きなんだよ、沢村さん。」


追い打ちをかけるように、御幸が言う。俺にめがけたそれを、俺が避けられないくらいに強く、速く。
戸惑う思考のまま、思わず口を開いていた。



「…父親だろ、俺は。」



自然と漏れた、呟き。
心の奥でまた波の打つ音がした。ザザン、ザザン、と大きな音を立てる。けれどそれは次第に遠くなっていって、ついには消える。



「…だよなぁ。」



そう言った御幸は、小さく笑っていた。

そうだそうだ、とは、言えなかった。















それからどうしたんだったか。そうだ、俺がくしゃみをして、心配した御幸に促されて、海岸を後にした。
今思えば、場所の選択はただのミスだった。どうしても大きなものが無性に見たくなって、衝動的に選んだだけだったのだが、明らかに計画ミス。寒さしか記憶に残らない。
それから、そう、それから。
普通に家に帰って、いつも通りぼんやり過ごして。寝る時に、「おやすみ」と言ったら御幸も「おやすみ」って笑っていたはず。
いや、正確には目が合わせずらかったから、笑っていたかどうかは分からない。笑っていた、と、それはただの俺の願望だ。
夜中、また一度だけ目が覚めた。
こっそり覗いたリビングに繋がる扉からは、やっぱり相変わらず光が漏れていた。
それに一人で、少しだけ安堵する。そこに灯りがあるのは、御幸がそこにいる証拠だった。





次の日俺は、御幸が俺の家にやってきてから、初めて呼ばれた朝食に顔を出さなかった。
深く深く、頭まで布団を被って、御幸の声や、御幸の動作の音が聴こえないようにして。

今何時かも分からないまま、携帯くらいは持って布団に丸まるべきだったと後悔したけれど、時既に遅し。



いってきます、と遠くで御幸の声がした。
玄関の扉の開閉音。無駄に広い家の中に響く。

御幸が来てから初めて、いってきますと、いってらっしゃいの、響かない、朝。


その夜、いくら待っても御幸は返って来なかった。

机の上に、一人分の朝食だけを残して。





「…そうなる気は、してたんだよ。」


だよなぁ。
そう小さく呟く。

そうだそうだ。と、遠くで御幸が頷いているような気がした。







けれど呟いた先。

ネクタイを直してくれるやつは、もう、いない。








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