06 |
激しい、警告音。全身を劈く、不快な機械音。 「…っ、はァ…!」 心臓が、煩い。 遠くから、幾重にも重なる足音が、地面を通して伝わって来る。 まるで心臓が背中に移動してしまったかのように、背に触れる冷たい壁越しに心拍数の上昇した鼓動の音が響いて、酷く気持ちが悪かった。 薄暗い照明も、無駄に真っ白な壁や床の続く廊下も。 男にとっては随分と見慣れた風景ではあったのだが、今日ばかりはその白さが妙に攻撃的に男の瞳を焼いた。 建物自体は広い。不規則に枝分かれする室内は、さながら迷路のようで、その実、一度間違った道に迷いこんだら、正しい目的地に着くことは厄介なのだ。 男はそれをよく知っている。 何度も何度も、その壁に行方を阻まれて来た男は、誰よりもそれをよく知っている。 男にとってここは、もう何年も生活の場であったのだから。 揃わない息を殺すように、両手で口を塞ぐ。上下する肩が、激しく高鳴る心臓が、全身を流動する血液、その全てが、今にもその口を破って出て来そうだった。 逃げられるのか。 男は自分に問う。答えは返って来ない。変わりに脳裏を過る、絶望的な想像。 ぎゅっと目を瞑る、その瞼の裏いっぱいに鮮血が広がる。けれど、その前に 「………………な、っにやってんだ!アンタ!!」 大声に弾かれるように顔を上げる。 幾重にも枝分かれした廊下から繋がる部屋の扉が突然開いて、その中から出て来た男より大分幼い男…否、寧ろ少年と称した方が正しいような子供の手によって、軽々と引っ張り込まれる。 暗闇でよく見えなかったけれど、その一声だけで、男にとっては充分だった。 綻ぶ表情。伸ばした先、闇色に慣れない瞳では分からないけれど、そこには確かに温かい温度が手に触れた。 瞬間、触れた場所から穏やかな気持ちが溢れるような気分に、ふっと緊迫した男の表情が緩む。が、ほんの少しの間をあけて、逆に、暗闇の中でも分かるくらいの激昂した空気を纏った少年の、怒気の含まれた声が静かに響いた。 「なんでまだこんなところにいるんですか…!?早く逃げろって、あれほど…!」 「うん、でも、」 「でもじゃなくて!」 「だって…!やっぱり俺、お前と――…、」 「…っ、!しまった、気付かれた…!」 「え…?」 一体何の部屋なのか分からない狭い室内、乱れた呼吸が混ざり合うくらいの距離で、重なり合う声の途中、少年の声が響いた。 「この部屋、今は使って無い太い配管が通ってます。それを使ったら、すぐに外に出られるから。」 「でも!」 「でもじゃない!」 「…っ、」 「…俺は一緒には行けない。ちゃんと話して、納得しただろ?…ほんと、聞き分けのない大人だなぁ…。」 「でも…。」 「…ほら早く。もう時間が無い。」 今まで、滲みだすほどの怒気を纏っていた少年の声が、ふっと柔らかく撓む。 張りつめていた線が、ゆったりと伸びやかに緩んで、掴まれた腕は、そっと力が抜けた。 それと同時に、離れる距離。…遠くでまた、足音が聴こえた。 「…お前だけこんなところに…、置いて、いけねぇよ…!」 「…相変わらず、変なところで欲張りなんだよなァ、アンタは。」 「だっ、て!」 「…大丈夫、絶対アンタだけは俺が助けるから。だからアンタは、安心して逃げればいい。」 違う、そうじゃない。 俺の望みはそんなことではなくて、と、否定の言葉を叫ぼうとしたけれど、それは許されなかった。 「……さよなら、」 少年の口が、ゆっくりと紡ぐ。最後のことば。 離れた体をぐるりと反転させられて、無理やり押し込まれる。 振り返ろうと思っても、足をかけて体を押し込めた配管は、太いといえども、大人一人が漸く入れるほどの大きさで、後ろを見ることは叶わなかった。 「 ―――…、っ」 響く、足音。叫び声。 鳴り響く警告音。響く扉の音。 暗闇の中。 男に残された最後の記憶は、聴覚にだけ深く刻まれた。 絞めつけられるような痛みに、涙の変わりに小さな呟きが落ちる。 それはもう、誰にも届くことは無く。 「………御幸――…、っ」 その日は、いつもの悪い夢は見なかった。 まるで突然、暗闇から引きずり出されたみてぇな感覚。 意識が一瞬で覚醒して、瞬きをする前に、“目が覚めた”ってことが分かった。そんな、感覚。 誰かが呼んでいるような、誰かを呼んでいるような、ここ数日ずっと見ていた悪夢は息を潜め、けれど変わりにくっきりと瞼の裏に焼き付いていたそれは。 夢の変わりに見た、それは。 ――――…よか、った……。 まるで何かを責めるような、苦しそうな。 泣きそうに歪んだ、御幸の顔だった。 「…それで、俺のところに来た…ということか。」 静かな声が、室内に響く。 落ち着き払ったその声は、少々小声過ぎてたまに聞き取り辛いのが難ではあるけれど、もう随分とこの人の喋り方に慣れた俺にとっては、そう気になることでもない。 シンプルな、特に装飾も何も無い、清潔感の溢れる白衣に身を包むその姿を前に、俺は小さく苦笑を零した。 「はい…。…他に、頼れるところもなくて…。」 その言葉に、そうか…と、小さく返答が返って来る。じっと真っ直ぐ見つめれば、その目に映る光は、ここ最近もやもやとしていた俺の心を妙に落ち着かせてくれた。 「…クリス先生くらいしか、相談出来る人もいねぇし…。…忙しいのは分かってたんすけど…。」 「俺はお前の主治医なんだから、遠慮せずに話してくれればいい。これも治療の一環だ。」 「クリス先生、専門外科っすよね?」 「…まぁ、古風に言えば、病は気から、だな。」 「ふは、」 思わず笑みを零せば、それに合わせてクリス先生の顔も緩む。それにまた、安心する。 「…それで、最近お前のところに突然来たって言う少年の話だが。」 「あ、…ハイ。」 「…そいつは自分が、お前の息子だと言ったんだな?」 「…そんなこと言ってましたけど。でも俺ホントに、なんも覚えが無くて。」 昔のことを思い出そうとすると、どれが現実で、どれが夢なのかよく分からなくなることがある。これは昔からそうで、御幸に会う前からたまに感じていたことだったけれど、特にその時は気にするほどの大きな違和感でも無く、事故にあったんだからこれくらいは普通にあんのかな、程度に感じるくらいだったはずだった。 「一人で考えてても埒あかねぇし、だから、俺が事故にあったとき治療してくれた先生なら、何か知ってるんじゃねぇかと思って…それで…。」 「俺はお前がそんなに破天荒な子供だったとは思えないけどな。」 「…ですよねぇ。」 クリス先生は、俺が事故にあった時に治療してくれた先生で、死にそうだった俺の手術の執刀と、その後の経過を見てくれるいわば主治医のような存在で、事故の後記憶が曖昧な俺の色々な面倒も見てくれたいわば恩人みたいな存在でもある。 外的な怪我が全て治癒して、通院の必要が無くなっても、こうしてことあるごとにたまに病院に会いに来ては、話を聞いて貰う。 だから今回も、ついに自分では持て余してしまった御幸の話を、クリス先生に聞いて貰う事を選んだ。 何か明確な答えが欲しかったというよりは、この違和感を誰かに口に出して話したくて。 黙り込んだクリス先生と、俯いた俺の間に、沈黙が落ちる。 「……その、少年だが、」 「へ?」 「………その少年、“みゆきかずや”という、名前か?」 「え!?」 「やっぱりそうなのか…。」 「え?え?クリス先生、なんか知ってるんすか?アイツ…御幸のこと!」 やっぱり、といって考え込んでしまったクリス先生に、思わず一歩近づく。 話した覚えのないその名前が、相手の口から発せられたことに、ただ驚く。だってまだ、諸事情は話しても“御幸本人のこと”を、俺は一言も口にしてはなかったから。 何かを思案するように難しい顔のまま言葉を止めたクリス先生を、落ち着きなく見やる。でもまさか…、と躊躇うように口にする、いつもの小声より更にワントーン音量の下がった声は、ギリギリ耳を掠める程度の大きさだった。 そんな、クリス先生の態度で確信する。 やっぱり俺には、“俺の知らないこと”が、ある。 「何か知ってるんすか…?」 クリス先生、と呼べば、顔を上げた先生の顔に、真面目な色が灯る。 それに、思わず身構えて体を硬くした。 俺も詳しいことは知らないが、…そう前置きをされて、重く開かれた口から出た言葉は想像すらしない言葉ばかりだった。 「……覚えていないなら、言う必要もないかと思って、今まで黙っていたことが、いくつかある。」 長い付き合いだけれど、その雰囲気は今まで見たこともない色を纏っていて、ごくりと唾を飲む。その音が、思いのほか大きく静かな室内に響いた。 「18の時、お前が大怪我でこの病院に運び込まれたことは、お前も知ってるだろう。」 「はい。」 「暫くして意識を取り戻したお前と初めて話した時、俺は“交通事故にあった”と話した。お前は覚えて無いと言ったけれど、事故後にその記憶が無くなることはよくあることだとも、俺は言ったな。」 「…はい。」 「…だけどそれは、半分は嘘だ。」 「え…?」 「お前は確かに大怪我を追って瀕死の状態でここに担ぎ込まれた。その手術を執刀したのは俺だ。それに間違いは無い。だけど俺は、殆ど喋れる状態じゃなかったお前と、一度手術の前に話をしてる。」 「…!」 そんなことは、初耳だった。覚えても、いない。 驚いて何も返答出来ずにいると、更に珍しく饒舌にクリス先生の言葉が続く。 「その時、お前は言った。“追われている。助けて欲しい。逃げるための体が俺にはまだ必要だ。”そう言ってお前は、俺に治療をせがんだ。…あの時の必死さは、もう随分と経った今でも、忘れることが出来ない。」 (え――…?) 追われている? 逃げるため? …何に?何から? 意味が、分からなかった。 「お前は交通事故に遭ったわけじゃない。何らかの理由で怪我を負って、ここに運び込まれたんだよ。」 初めて明かされるその話が、冗談ではないことは、その瞳に映る光ですぐに分かった。 驚きと、戸惑いと、けれどそれと同時に、心の奥底からわき上がる、「やっぱり、」と言う気持ちがぐるぐると回って、言葉にならない。 そんな俺の様子に気付いたクリス先生が、ふ、と小さく微笑む。 「…驚いたか。」 「驚くなって言うほうが無理っす、よ。」 「だろうな。」 「でもどうして今まで…そんな話、一言も…。」 「言っただろう。…あのときの様子は尋常じゃなかったし、目を覚ましたお前は全くそのことについて覚えていなかった。それなら、何も知らない方がいいのかもしれないと、判断した。」 「そう、だったんすか…俺、そんなことちっとも知らなくて…。」 実際、聞いた今も実感が持てない。 自分にそんな壮絶な過去があったなんて、全然。 周りと同じく、毎日をただ普通に過ごしていただけだと思っていたのに、自分の知らない自分について他人の口から聞くのは、酷く妙な感じがした。 「…その時のお前に、これだけは無くせないから預かってほしいと必死に頼まれたものが、一つある。」 振り返った机の一番上の棚についている鍵穴に、近くにあった無数の鍵の中から一つ選んで差し込んだクリス先生が、そこから手の平に納まるくらいの何かを取り出す。 それが何かは遠くからだとよく分からなかったけど、椅子から立ち上がったクリス先生が、取り出したばかりのそれを俺に手渡した。思わず受け取ったそれを手の中で開く。 それは小さな、紙切れだった。2,3枚の紙を四つ折りにした、少し古びた紙。 一見しただけでは、ただの切れ端のようにすら見えた。 開いた先にあった、知らない文字列の数々。人の名前と共に、並ぶ数字。 「それが何なのかまでは、俺は知らない。だけど、逃げて来た、と言うお前が唯一持っていたものが、それだ。」 「……これ、を…俺が?」 問いかけに返って来たのは、一度首をゆっくり縦に振る、クリス先生の顔。 もう一度、手の中の紙に視線を戻す。 見たことも無いそれは、何度見ても全く何も覚えもなければ、浮かんでくることも無かった。 知らないもの。 そう、完全にそれは俺の“知らないもの”でしかない。 けれど、数年前の俺が、何よりも守りたかったものだと、クリス先生は言う。 こういう時、もし漫画やドラマだったら、記憶の一部でも疼きだしてもいいようなもんだけど。 残念ながら俺には、そんな気配すら、どこにも感じなかった。 現実は上手くいかないもんだなぁと思いつつも、どこか現実離れした感覚の中で、一人地に足のつかないふわふわした状態のまま、紙切れから視線を逸らす。 分からないことが多すぎて、どうしたらいいのか更に分からなくなっていることに、小さく笑う。 そんな俺に、「それから…」と、再び小さく前置きしたクリス先生が、またもやどこか躊躇いを感じるような声音で、けれどさっきよりもずっとはっきりした声で、言った。 「傷からの熱にうなされて意識の無いお前が、一つだけずっと呟いていた言葉がある。」 その先は、いくら鈍いと言われる俺でも、聞く前に分かった。 クリス先輩が小さく息を吐く。それに合わせて、俺の呼吸は、時間が止まってしまったかのようにゆっくりと止まる。 「“ごめん、御幸。”…お前はずっとそれだけを繰り返し繰り返し、数え切れないほど、唱え続けてた。」 手の中に握りこんだ紙が、ぐしゃりとつぶれる音が、した。 [TOP] |