ずっと、嫌われているんだと、思ってた。 周りからはいつも。 気にいられてんだよ、とか、愛情の裏返しだとか、そんな風に言われて。 沢村はいいな、なんて、言われることもあった。 最初の頃は、そんなことねーよ、って言いながらも、他の人よりはもしかしたら近くにいるのかも、なんて思ったりもして。 だけど、俺は気付いた。 確かに、気にかけられてはいると思う。それは分かる。感じる。そこまでバカじゃない。 だけど、それ以上に。 あいつの…御幸の目は、俺を映していないことに、俺は気付いちまったんだ。 (また、違うところ。) 隣に居ても。 話をしていても。 御幸は、俺を見ない。 嫌われてるのかと、疎まれてるのかと、思ってた。 だけど、本当は多分そんな簡単なことじゃなくて。 御幸は俺を、好きでも嫌いでも無く。 ただ、興味が無いだけなんだって気付いた時に初めて。 ――――――コイツのことが、好きだって気付いた。 「どういうことなの?」 …ああ、最悪だ。 なんで。 「ねぇ、答えてよ。私の何がいけなかったの?何が駄目だったのか、言ってくれたら私直すから…!」 耳に付く、金切り声のような女の子独特の高い声。内容こそしおらしいものの、その声に含まれる怒気は、決して“可愛い”とは言い難いレベルのもので。 その後暫く繰り返される討論(とはいっても、主に女の方が叫んでるだけだけど。)。 …知り合いの修羅場ほど、居た堪れないものはないな、と、偶然居合わせてしまったドラマのような一ページを背後に、討論しているであろう二人のうち、片方の顔を想像して、小さく笑う。 少しして、穏やかとはお世辞にも言えない言い争いの末に、突然、バンッ乾いた音が空間に響いた。 「一也のバカ!サイッテー!!」 一番の大声と同時に、勢いよく開いたドア。そのままバタバタとスカートを翻して去っていく後ろ姿。 背中に落ちる長い黒髪が、走る度に跳ねて、ふわりと人口ものではない“女の子の匂い”の残り香が、鼻を擽った。 (…。) なぜかその場所を暫く動けなくて、ぼうっと、もう見えなくなった背中を目で追う。 残り香が、空間に漂う。それが酷く胸に残って、嫌な感じがした。 なんか、吐きそう。 (いいじゃん…気付けよ。自分が恵まれてるってこと。) チャンスを与えられて、わざわざそれを棒に振るなんて、と。そんなことを思う。 だって、そうだろ? あの人は。 少なくとも、あの女の人は。 「……あれ?沢村?」 ビクッ。 体が、声で震えた。 「何してんの?そんなとこで。」 「御幸…センパイ…。」 そう、あの人は。 あの人は俺と違って、女なんだから。 “男”の俺とは違う。 愛される権利がある。女なんだから。 突然声をかけられて、思わず何も返せなくなった俺に首を傾げた先輩は、少しして、何かを納得したように、ああ、と小さく呟いてから、ふっと笑った。 「見てたんだ?」 心臓が、跳ねる。 妙に高鳴る鼓動を何とか抑え込んで、さっき女の子が出てきたのと同じ教室から顔を出した御幸先輩を見た。 赤くはれた頬は、多分さっきの音のもの。軽くそこを擦りながら出て来た先輩は、酷く緩んだ顔をしてた。 それは、他の何でもない、別れ話の痕だった。 「…偶然、っすよ…。」 「ん?別にいーのに。よくあることだし。」 「それ、はいそーですか、って簡単に言っていいことじゃねーだろ。」 「そーお?」 「…アンタ、さっきの…。」 「ん?…ああ、彼女?……あ、もう元彼女か。」 「…最低だな。」 「ははっ!さっきも言われた。1日に2回も最低呼ばわりされんのも、ある意味凄くね?」 ケラケラウ笑う御幸先輩は、すげぇおかしかった。笑えるとか、そういう意味じゃなくて。なんか。 「…アンタって…。」 「ん?」 「アンタって、可哀想だよな。」 「なんだよ、失恋した俺を慰めてでもくれんの?」 「振ったのアンタだろ。」 「ちげーよ、俺はかわいそーに、振られたの。」 …まぁ、間違ってはねーけど、も。 でもやっぱり、原因はこの人にあるんだから、御幸が悪いんじゃねーかな。 俺は御幸みたいに経験豊富でもなんでもねぇし、詳しいこと知らねぇから、何とも言えないけど、でも、何でもない人は、あんなふうに怒ったりしない。 さっきの女の子の背中は、すげぇ小さく見えたから。 (カワイソウな、ヒト。) 今頃さっきの女の人は泣いているんだろうか。 御幸先輩は、ネコみたいな人だ。 元々は、野球部の先輩。 初めて会った時は知らなかったけど、後からすげぇ人なんだってことを知った。入学してみたら、それは更に強く、毎日嫌でも思い知らされた。 勉強もそこそこ、野球でも天才って言われて、その上顔も良い。これで目立たないはずがなく、そんな目立つやつを女子が放っておくはずもなかった。 初めて御幸先輩に彼女がいることを知ったのは、今から少し前。 でもその二週間後、別れたって聞いた。それから3日、また彼女が出来たって聞いて、今度はその二日後に、別れたって聞いた。 その後御幸先輩は、誰と付き合っても上手くいかずにすぐに別れるんだって聞いて、周りの奴らは不思議がったり、微妙な顔をしたり、色々だったけど、俺は何より、やっぱりなって思うのが一番だった。 だって、そうだ。 御幸先輩の目は、誰も映していない。いつもそうだ。 彼女と居る時の先輩も見たけど、やっぱりいつもと変わらなかった。 先輩は、誰も見ない。 先輩にとって、自分以外の他人は皆等しく、他人。それ以外の何でもない。 近くにいると、それが凄くよく分かる。 だからかな。 多分、“彼女”として一番近いところに入りこんだ子達は、その時になってやっとそのことに気付くんだ。 先輩の一番が、自分じゃないこと。 先輩が自分を見ていないこと。 …そして多分、これから先もそれがずっと変わらないことに。 だから、別れる。すぐに、未来が見えなくなって。 俺はそう思ってたし、確信してた。だって俺は、“彼女”みたいな特別な位置のことはよく分かんねぇけど、確かに先輩の“近いところ”にいるから。俺だから、分かる。 …そして、その度に思う。 “俺なら―――”、 (俺なら、) 先輩の孤独の意味を初めから分かってる俺なら、もしかして。 そんな、甘い。 期待。 はぁ…と小さくため息を吐く。 お互い言葉を発さずに黙り込んでたら、後ろからチャイムの音がそた。 「…あ。」 始業を告げる、無機質な音。 「…サボってんなよ。」 「お前も人のこと言えねぇじゃん。」 「アンタが引きとめるから、」 「別に引きとめたつもりはねぇけど?」 「…声かけるから!」 さっき出て来たばっかりの扉に御幸先輩が手をかける。 がらりと音がして開いた先は、ただの空き教室だ。ただ、さっきまで先輩が、別れ話のために、彼女――元カノと二人でいただけの、ただの空き教室。 「……お暇なら、ご一緒しません?」 (ぜってぇやだ、そんなとこ。) ふざけた調子で問いかけられた言葉に、心の中で悪態をつく。 そしてそのまま、一つだけ静かに頷いた。 「…いーっす、よ。」 暇ですし。 扉の境界線を一歩踏み越えた。有るはずの無い残り香が、消えない。 ―――――ああ、吐き気がする。 向かい合って、お互い机の上に座る。 深めに腰掛ければ、床に届かない足がぶらぶらと宙に浮いた。 ふと目をやった窓の先、グランドを駆けているのは何年生だろう。俺の次の科目なんだっけ。…なんかすげぇ、ぼんやりしてて、何も考えらんねぇや。 こんなに静かで、穏やかなのに。 「沢村ってさ。」 「んあ?」 「よく、サボったりすんの?」 「まさか。俺は優等生もびっくりの優等生だって。」 「とかいって、授業中とか寝てんだろ?」 「ぬ…。」 (ばれてる。) 「はは、図星か。」 「…たまに、だけどな…!」 「たまに起きてる、の間違いじゃねェ?」 「…アンタって本当いちいちムカツクよな。」 「よく言われるー。性格悪いらしーよ、俺。」 貶されてるくせに、御幸はよく笑う。 ケラケラ、カラカラ。凄く質量の軽い笑い声。 本心とかそういうものが、まったく感じられない笑い方。 人のことボロクソいって、知ったふうな口ききやがって、それなのに、自分はどうだ。 ガンッと勢いよく振りかぶった足が、机のあしに当たって、大きな音を立てた。 ぐわんと一瞬だけ大きく揺れて、残った振動が天板を通して伝わって来る。 じいん。 下半身からわき上がる、嫌な痺れ。 「…あんた、さぁ。」 小さく呟いたはずの俺の声、静かな空間に怖いくらい妙に響いて、ドキリとした。 御幸の顔から、笑みが消える。そして浮かぶ表情は、一見すると真面目に見えるけれど、違う。 踏みこんでくんなと、一瞬でバリアが張られた、空気。 その様子に少しだけ尻ごみしたけど、二人きり、誰もいない、そしておそらく暫く誰も来ないであろう空気が、俺の背中を後押しした。 「アンタって、なんでそんなにいろんな人と付き合ったり別れたり、してんの?」 急に室温の下がった空気が、肌を、切り裂く。 けれどその空気とは裏腹に、少し間を置いて御幸から発せられた言葉は、怖いくらいに穏やかだった。 「さー?なんでだろう。」 「…あんたって可哀想なやつだよな。」 「…さっきも同じこと言ってたな。」 「よくお覚えでっ!」 「沢村とは出来が違うし。」 御幸が足を揺らす。ガタン、と小さく音がする。 軽い机が、何も入っていない空っぽな空間が、簡単に揺れた。 「アンタって、誰か好きになったことあんの?」 我ながら酷い言葉だと思った。 あんなにモテて、あんなにより取り見取りで、彼女だって途切れたことない奴に言うセリフじゃない。 しかも、先輩に。 一応上下関係だって厳しいはずの運動部の先輩に、本来なら言える言葉じゃない。 「なーに言ってんの、沢村。」 くすくす笑う御幸の声が、耳に付く。 顔を上げたらそこには、普段通り笑みを張り付けてる御幸の顔。 ムカツク顔。人をイラつかせる、顔。 「俺はみんな、大好きだけど?」 「うそつき。」 アンタは誰のことも、見てねぇだろ。 好きどころか、嫌いでもない。 そういう、可哀想なやつなんだ。 思ってることが、どこまで言葉に出てたのか分からねぇけど、流石にピクリと揺れた御幸の眉が見えたから、もしかしたら全部言っちまったのかもしんねー。 「…沢村、ってさぁ。」 責められる、と思った。怒られる。 怒鳴られるかもしれない。だって御幸は、怒ると怖い。 変な汗が背中を流れた。 けれど不思議と、後悔はしなかった。言わなければよかった、なんて、思うこともなく。 だけど、聴こえて来た御幸の声は、俺の予想したものとは全然違うものだった。 「俺のこと、よく見てるよなァ。」 「え、…」 「今もそう。…まるで俺のこと分かってるみてぇなこと言うし。」 「そん、なこと、ねーだろ…?」 御幸の声が、怖い。 なんでだろう。よくわかんねぇけど、嫌な予感がする。 さっきまでとは違う、嫌な感じ。 背中の汗が冷たくなる。なんだろう。これ。 本能が告げる。嫌な予感。嫌な、かんじ。 (逃げろ、って聴こえる、気がする。) 「なぁ、俺、知ってるんだけど。」 「…な、にを?」 「お前ってさ、いっつも俺のこと、 見て るよな。」 「は…?」 喉が渇く。 声が張り付いて、上手く出ない。 (まさか、) 答えは、一瞬。 「お前さ、俺のこと好きでしょ。」 それは、死刑宣告にも似た無情な声。 頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じた。 吸い込んだ息が、空いた空洞を通って、こひゅっと音が鳴る。 「違う!!!」 咄嗟に大声が出た。ガタンッ、と思わず力いっぱい立ちあがった後ろ手、机が倒れて、ガランガランッと大きな音を立てた。 「違う!そんな、の!」 「別に誤魔化さなくていーのに。」 「誤魔化してなんか!」 「…だってお前さ、いっつも俺のこと見てるだろ。気付いてねぇと思ったの?」 「…っちが、う…!ちがう!」 (どうして、どうして、どうして。) なんで、バレてる? どうして。 御幸の顔が見れない。 けれど、絶対笑ってるんだ。きっと、人を小馬鹿にしたような、顔をしてるんだ。 どうして。否定したいのに、否定しないといけないのに、上手く言葉が出てこない。 「ちが、う…。」 違う、好きなんかじゃ。 駄目だ、こんなこと、一生言わないでおくつもりだった、ことのなのに。 どうしてこんなに簡単に、しかもよりにもよって御幸に見つかってしまったんだろう。 「…いいぜ?別に。」 ふ、っと。 御幸の穏やかな声が降って来る。 戸惑って上手く働かない俺の頭上に、御幸の声が降って来た。 「え…?」 「だから、いいけど?別に。付き合っても。」 「は…?」 「何回言わせんの。だから、付き合ってもいいって言ってんの。」 御幸の口から、そんな言葉が漏れる。 泣きそうになって俯いていた顔が、反射的に持ち上がった。 だけどそれが、失敗。 (あ…。) 「俺お前のこと、嫌いじゃねぇし。」 そこにあったのは、よく見る、“あの顔”だった。 誰も映してない目。誰のことも、見ていない目。 俺にも、同じ。 御幸が別れた彼女たちと、同じ、目をして、俺を見てた。 さあ、っと、沸騰したみたいにパニックになっていた頭から、一気に何かが引いていく。それは一瞬だった。 「…、…ない、」 「ん?なんだって?」 「いら、ねぇっつったんだよ!!」 一度顔を背けて、それから思いっきり、ギッと御幸を睨みつけた。 涙は出ていないはずだけど、妙に視界がぼやける。情けない。こんなことで。 俺の突然の剣幕に、流石に驚いたのか、御幸の動きが一瞬止まる。 その隙を見逃さずに、その横をすり抜けて、教室のドアへ向かう。 (駄目だった、俺でも、駄目だったんだ、) 御幸の特別には誰もなれない。 もしかしたら、今まで抱いていたそんな淡い期待は、一瞬のうちに簡単に打ち砕かれた。 他の誰でもない、御幸の手で。 それはもう、いとも簡単に。 「アンタなんか、好きじゃない…!」 嫌い。 力任せに叫んだ暴言。誰かにこんなに負の感情をぶつけたのは、初めてだった。 「沢村、」 「…もう、行きます。」 「沢村」 呼ばれた名前にはもう言葉は返さず。黙って御幸の横をすり抜ける。 俺と御幸の間に、残るような香りは一つも無かった。 変わりに通り抜ける、小さな風。その風が、俺らの距離が交わらないことを、如実に示していた。 けれど。 「…何勝手に出て行こうとしてんの?」 「いっ…!」 すり抜ける直前、御幸が俺の右手を掴む。 その手には、信じられないくらい力が籠ってて、驚いて声を上げる。 御幸の顔が見れない。だから振り向かない。けれど振りほどこうとしたその手には、更に思いっきり力が入れられて、叶わなかった。 どうして。 「離せよ!何すんだ、バカ御幸!」 「離したらお前逃げるじゃん。」 「逃げてねぇよ!」 「だけど行くだろ。」 「これ以上ここに居る必要ねぇからな!」 「…どうして?」 「は?」 「なんで?付き合ってやるって言ってんのに。なんでお前怒んの?」 「…それ、本気で言ってんの?」 「本気も何も。なぁ、なんで?」 (…ありえねぇ、こいつ。) 御幸の目には、確かに疑問の色が浮かんでいて、それはとても純粋な色だった。 それはまるで、何か解けない問題を問いかけるみたいに、とても簡単に、当たり前に、自然に、ただ問いかけられるのは、純粋な一つの疑問。 「ふざ、けんな…っ、」 「ふざけてねぇよ?ほら、好きだって言って、抱きしめて、キスして、セックスだってしてやるのに。」 「やめ、ろ…」 「ばかみてぇに甘い言葉囁いて、大事にしてやるし、」 「…っ、いやだ…!」 叫んだ瞬間、腕を思いっきり引っ張られる。 驚いて目を見開くのが早いか、それとも、視界が反転するのが早いか。 (え、?) 気付けば、背中を打つ冷たい板。浮き上がる、足。 目の前には天井。 それを遮る、御幸の。 「なぁ沢村俺、可哀想なんだって。」 「みゆ、」 「沢村、」 そんな声で、名前を呼ぶな。 「…アンタって本当、最低、」 (でもどうしようもなく、 すき。) 太陽が差し込む教室の中。 逆光でよく見えない顔が、 見下ろされた先の、御幸の顔が 悲鳴が体を劈くその空間で、 なんだか泣いているように、見えた。 [TOP] |