独特の、鼻をつく香りが充満する部屋。 その生々しさに、眉を潜める。 散乱する衣服、音一つしない室内 思う存分欲を吐きだしたはずなのに、なぜか随分と体が重く感じた。 ぐらり。 頭が揺れる。ガンガンと嫌な頭痛が、全体に鈍痛を広げていく。 (俺は、何を、した?) 数十分前。 カッとなって組み敷いた体は、だれの。 だれのもの、だった。 「ん、ん…。」 背後でガタンと音がして、くぐもった声が漏れる。 思わず呆然と立ちすくんだまま空間を見ていた視線が、一瞬でそちらに意識と一緒に集まった。 広い教室の中、異質に広がる一部分、量産された机が並べられた、狭い空間。 互いの息遣いだけが響く。吸った息は、どちらのものだったか。 「さわむ、ら、」 全部声にする前に、遮られた。 沢村の、弱弱しい、けれど強い、声に。 何も映していないのに、涙も流れて無いのに。 「ごめん、みゆき…。」 小さな小さな声だったのに。 なんの抑揚もない声だったのに。 泣き声見たいに、聴こえたそれに “誰か”に対して一番初めに抱くのは、純粋なる興味。 ただ俺は、どうも執着心ってのが薄いみたいで。つーか世の中さ、おもしれぇモンが多すぎんだよなぁ。 どうせなら、出来る限り、いろんなことがシてぇし、いろんなモンを見てみたい。 そんな欲求に、俺はちょっと人より従順で、だからその分、酷く移り気だった。一応自覚はある。 いい加減にしろと倉持あたりは昔から俺を叱ってくれたけど、俺が“どうしようもない”ことに気付くと、それすら無くなった。 俺が、手に入れたのは、自由。 けれど、軽くなった分だけ、なぜか妙な空虚感に襲われるようになったのも、その頃だ。 『ねぇ、一也。一也は私のどこが好き?』 多分それは、どこにでもある恋人同士の、なんてことのない愛のやりとり。 いつだったっか、何人前の、何人目の彼女だったのかはもう忘れたけど、そう聞かれた時に、唐突に気付いてしまった。 (好き、って。) (なんだ?) その時は多分、適当にはぐらかした。 確か、最低となじられはしたけど、俺だって結構衝撃だったんだぜ。だって、その時分かってしまったから。 俺は確かに、おもしれぇもんは何でも好き。 おもしれぇやつも、みんな好き。 俺を楽しませてくれるやつは、みんなが好き。 それは、みんな、同じくらい。 平等、に。 その時、気付いた。 ああ 俺って 誰のことも 特別 に 想えない 『アンタって可哀想なやつだよな。』 誰かの声が、リフレインする。 …誰の? 怪我なんかしてねぇのに、そのせいで体の奥からドロリと何かが流れような、気がした。 ごめんなさい。 顔を背けた背中から、頼りない声が聴こえた。 そのあまりの弱弱しさに、最初はだれの声か全然分からなかった。 だってそれは、初めて聞く音。 ごめんなさい、もう一度聴こえた、声。 風でも吹けば、掻き消えてしまいそうな脆弱性を孕んだその声の主は、確認するまでもなく、当たり前に沢村だ。 だってここには。 今この部屋には、俺を沢村の二人だけ。 けれどそれはその事実が無ければ、見失ってしまいそうなくらい、初めて聞く声だった。 (お前はそんな風に謝るようなヤツじゃねぇだろ…、沢村…。) けれどそうさせてるのは、紛れもなく。 (俺、) 頭がズキリと痛む。 ドロドロ体の中で何かが溶けて、全身の毛穴から流れ出てしまいそうだ。 嫌悪感で、吐きそう。 そうだ、これは、 全身を襲うこれは、嫌悪。 他の誰でもない、自分自身への、明らかな嫌悪。 思わず、口元を手で覆う。 するとそれを見た沢村が一瞬ビクリと体を震わせた痕、ふっと笑って、ごめん、ともう一度小さく謝罪の言葉を告げた。 それを聞いて思わずカッとなって、近くにあった机を叩きつける。 じわりと、痛みが温度になって、殴った場所から全身に広がった。 「なんで、お前が謝ってんだよ…。」 「だって、」 「だってじゃねぇだろ!?」 「…っ、」 「謝るのは!謝らなきゃなんねぇことしたのは!」 お前を。 嫌がる沢村を力で抑え込んで、その体を汚したのは。 「俺だろ…っ」 振りむいた先、机から体を起こした沢村は、さっきまで流してた涙でぐしゃぐしゃになった顔に、乱れた衣服を纏って。 なんだか、 笑っているように、 見えた。 沢村から向けられる“好意”の種類に気付いたのは、もうそんなに最近のことでもなかったと思う。 いつだったのかすら思い出せない。そんな頃。 最初は、妙に目線感じんなァ、と思うくらい。 沢村は、捕手としての俺にすげぇ執着してたから(まぁ、あいつの入学理由が“あの日”で、俺だってんなら、何となく気持ちも分かったけど)そのせいかとも思った。それくらい簡単に考えてた。 だけど。 クリス先輩に犬みたいになついて、倉持に可愛がられて、自然に人の輪を作りだすあいつに、俺が存在理由でなくなっても、沢村からの妙な感覚は変わることなく、寧ろ強くなるばかりだった。 沢村の世界が広がる度に、更に強く、感じるようになった。 それは、エースとしての貪欲さとは違う。 もっと、別の。 もっと熱を孕んだ、何か。 気付いたのは、そうだ。 俺を好きだと告げる女に、その鮮やかな黒髪が重なって見えた時だ。 気付いたのは、その時。 沢村は、多分。 いや、間違いなく、俺のことを、ソウイウ目で見てる。 答えが出れば、見返してみればそれは随分と簡単な方程式の過程だった。 けれど、当の俺はやっぱり、そこに何の感慨も、感情も浮かばず。 去っていく背中を追いかけることすらしなかった何人もの“彼女”にも抱けなかったのと同じ。 空っぽな感覚。 そこには感情なんて存在せず、1つの事実認識しかなかった。 そして、気付く。 自分が、おかしいことに。 自分の中に、何もないことに。 空っぽな自分に気付くのは、想像以上の恐怖だった。 世界から、切り離される感覚。 かわいそう、 そうだ、そう言ったのは沢村だ。 けれど正確に言うなら、この感情は、 強烈な、恐怖。 『ねぇ私、一也のことが好き。』 『アンタなんか…好きじゃない…!』 何度も聞いた、愛のセリフ。 皆、俺を好きだと言った。 けれどその意味は、分からなかった。 沢村は、俺を好きじゃないと言った。 けれどその意味は、 その意味は、痛いくらいに、よく分かった。 「ごめん、みゆき…。」 ぽつり、と。沢村が呟きを落とす。 それに思わず驚いたのは、俺だ。 「だから…!」 なんで、沢村が謝るんだ。 感情に任せて、我を忘れて、暴走したのは、俺なのに。 「悪いのは、」 「俺だよ。」 「沢村、」 「俺が、いけなかったんだ。変な期待をして、御幸に迷惑をかけた。」 「さわむら、」 「御幸、」 「沢村俺は、」 「御幸先輩。」 「さわむ、」 「…アンタが気付いてるなんて、思わなかったから。だから、甘えた。ごめん。もっと早く、もっと早く、諦めるべきだった。」 ビクリ。 また小さく、体が震える。 「沢村…。」 「御幸先輩ごめんなさい。全部俺が悪かった。謝ります。だから。」 それは、明らかな、恐怖。 音が全部喉に張り付いて、声にならなかった。 「―――俺は、アンタのことが、」 自分の手で引き裂いて。 怪我して壊して、 傷つけて それから気付いた 壊してはじめて、 恐怖は、 俺の弱さそのものなんだってことに はじめて、気付いた。 「アンタのことが、好きでした。」 それは、死刑宣告にも似た。 [TOP] |