無くした気持ちは。 どこにでもあるような、とてもありきたりなものだった。 けれど俺にとってそれは。 とても大事な、恋だったんだ。 御幸の顔を見て、初めて浮かんだ、「後悔」。 届かない気持ちに、もどかしい毎日を送る辛さより。 生まれて初めて感じる、体を真っ二つに引き裂かれるみたいな痛みより。 驚いたみたいな、後悔したみたいな。 その顔を、御幸にさせてしまったことが。 何より辛くて、何より痛かった。 ごめん。ごめんな。ごめんなさい。 俺が、御幸のことを、好きになったりなんかしたから。 傷つけさせて、ごめん。 だから、おわり。 これが、恋のおわり。 「ごめん…。」 呼吸音すら響かない空間に落ちた声の、なんて情けない。 うるさい黙れと、言われるいつもの声や元気は一体どこにしまわれちまったんだろ。 終わりってのは、随分呆気なく訪れるもんだなと考えたら、自嘲的な笑みが漏れて、寒くもねぇのに体が震えた。 なんて呆気ない、終わり。 けれど、ドラマでもなんでもない現実なんて、所詮こんなもんだ。 ドラマチックな展開なんてどこにもない。あるのはただ、物語の続かない白紙のページ。 (告白の後に謝罪、って。) 我ながら笑いしかねーな。 いっそ御幸も笑ってくれたら、楽になるかもしれねぇのに。 …笑い話にして、笑い飛ばして、くれた、ほうが。 (あー、…やべ、なんか感傷的になってきたぞ、わはは…。) 今下向いたら、運が悪ければなんか落ちるかもしんね。 それだけは絶対に嫌だった。自分で完結させておいて、泣くだなんて、そんな。 だから、上を向いた。 天井はさっきまで凄く高く感じたのに、体を起こしてみれば机の上に座って見上げる天井は、想像以上に近かった。 さっきまでは、そんな余裕なかったけど。何だか不思議な感覚だ。 自分に怒ったことを理解するのは時間がかかりそうだったけど、不自然なくらい頭の中はクリアで、けれど動かす度に鈍痛が走る体が伝える、リアル。 好きな人とする、行為が。 こんなにも悲しくなるだなんてこと、知らなかったな。 こういうことは。 もっと幸せなことだと思ってたのに。 やっぱりドラマは所詮ドラマ。漫画は所詮漫画。 散乱する服をかき集める。それが妙に生々しくて、一瞬夢かと思った。…まぁ、すんげー下半身重くて痛くてだるかったから、すぐに現実だって分かったけど。 カッターシャツを止める指が、小さく震えてるのに気付いたけど、見なかったふりをした。 すべる指先は、なかなかボタンをひっかけてくれなかったけど、時間をかけてどうにか全部止めた。 上はともかくとして、下を履くのはいろいろ躊躇われたけど、そうも言ってられねぇし。 軽く頭を振って髪を整えて、小さく息を吐いて机から置き上がったら、結構体は重傷で、ギシギシ嫌な音を立てやがる。 これ放課後どうすんだろ、って考えるくらいには、何故か冷静で。 時計の方にチラリと視線をやったら、もうすぐ授業が終わるような時間だった。 「…どうして。」 「ん?」 そういえば、なぜか今まで一言も言葉を発しなかった御幸が、突然そんな小さな声を漏らした。 あまりにも沈黙が長いから、出て行けっていう無言のサインなのかとちょっと思ってたんだけど。 「…なんでお前、そんな…。」 「そんな、って…?」 「なんでそんな、簡単に…。」 「………は、あ?簡単じゃねぇよ、ばっかじゃねーの…!?」 「沢村…。」 御幸の言葉につい声を荒げる。 ぼうっとしたままどこか心ここにあらずな御幸の様子も変だったけど、でもやっぱり、どれだけ取り繕ってみても、やっぱり。 「…本当は意味わかんねぇくらい頭ぐるぐるしてるっつー…の!」 「…。」 「いきなりこんなことなって…まぁ仕方ねぇよなって流せるほど…俺は、経験あるわけでもねぇし、大人でも、…ねぇし…。」 「…だろう、な。」 「だけど…っ、…こんなことで、期待を持てるほど…子供でも、ない…。」 「さわむら…。」 なんで俺のこと、抱いたのかなんて。 一番俺が聞きてぇけど、もっと御幸の方が意味わかんねぇって顔してるから、聞かないで置いてやってんだよ。 んなはずねぇけどさ、言わなかったら、口に出さなかったら、…無かったことにも、してやれるかなって、そんなことも思ってんだよ、分かれよ。 今は無理だけど、でも、いつかそうできるかなって、思って、…思ってねぇと、泣きそうなんだよ、わかれよ御幸。 アンタはほんとに、残酷だよなぁ。 「だから、ぜんぶ、無かったことにしたい。」 こんなことまで、言わせるなんて。 「俺の気持ちも、今日のことも、無かったことにしたいから、だから、…ごめん。」 この短時間で、一生分のごめんを言った気がする。これから先も、こんなこときっともうない。…あっても逆に困るしな! 上手く笑えてるだろうか。 あわよくば、前みたいな普通の先輩後輩に戻りたいと思う下心がないわけでもなかったけど、よく考えれば、御幸はずっと俺の気持ち知ってて気付かないフリしてくれてたわけだし、俺は俺でずっと御幸のことが好きだったんだから、俺らの間には「普通の」先輩後輩なんて関係、一度も無かったんだよな。 そう考えたら、今更だけどなんかそれはすげぇ寂しいことな気もする。 壊したのは御幸。だけど、その原因を作ったのは、俺だから。 俺は確かに肉体的に傷ついたかもしんねぇけど、その前に俺は御幸のこときっとすげぇ傷つけたんだと思うから。 だからきっと、無かったことに出来るよ。 たぶん、なんとなくだけど、そんな気がする。 …エースの、勘。 「…お前は、」 「ん?」 「沢村は、それでいいの。」 「いいもなにも、そうするしかねぇじゃん。」 「今日された酷いこと、全部忘れられんの?無かったことに出来んの?全部忘れて、無かったことにして、…今までと同じに?そんなことが、お前に出来んの?」 「…出来なくても、やってやる。」 「…。」 「やらなきゃ、駄目なんだよ。」 御幸が、小さく息を吸う。それに合わせて、俺はまた、ちょっとだけ笑った。 なぁ御幸。 アンタは一生、きっと誰も好きになんねぇんだろーなって思うよ。 すげぇ大げさかもしんねぇけど、これから先だってずっと、アンタは今と変わらないと思う。 自惚れかも。でも、俺には分かる。 それでもさ、今と変わらず、アンタの周りにはきっといろんな人がいて、一人にはしねぇんじゃねぇのかな。 アンタは人に愛される。愛されてるってことを、世間一般では、恵まれてるとか、幸せだとか言う。 でもさ。 でもさ、人に愛されるのも確かに幸せだけど。 誰かを好きになるってのも、悪くねぇよ? だってほら、俺は。 叶わなかったけど、辛いことばっかだったけど、アンタのこと好きになれてよかったと思うんだ。 アンタを追っかけてここまで来て、後悔なんて全く無くて、想うだけで幸せになれるってことも、初めて知って。 ほんの些細なことで、喜怒哀楽して、そういうのも、悪くないんだぜ。 「…御幸先輩が、どうしても出来ねぇっていうん、なら。」 バカだバカだって俺のことバカにするけど。 今だけは、アンタの方がきっと、俺の数段、バカ。 「取引しねぇ?センパイ。」 「取引…?」 「そう。……俺さ、誰にも言わねぇ、から。」 「何をだよ。」 「今日のこと。無理やりされたって…誰にも言わねぇから。だから、…だから。せんぱい。」 終業のチャイムが鳴る。にわかに騒がしくなる廊下。 この教室は使われねぇ場所だから、人が来ることはないけど。 そういえばさっきまでグラウンドにいた人たちは、もう既にどこかに消えていなくなってた。 「…全部、無かったことにしよう、ぜ?」 人生にリセットボタンはないけど。 …消すことは、きっと出来るから。 そのために、記憶って忘れられるんだよ。 上手く、笑えてるかな。 ようやく見えた先輩の顔。けれどその顔は、驚いたように目が見開かれて、さっきまでどこかにさまよっていた視線は、俺の方を見てた。 太陽が差し込んで、ひまわりみたいな色をする、目。 「…沢村…。」 「ん、あ?」 「お前そんなんで、脅迫してるつもりなわけ…?」 「とりひき、だって、」 「…そんな、泣きながら言われても、何の説得力も、ねぇよ。」 え? 「だれが、」 「お前が。」 「嘘。」 「本当。」 「どうして、」 「…俺に聞くなよ。」 わかんねぇんだよ。 そう言う御幸の顔が、悲しそうに歪んだ。…さっきまで怒った顔してたのに、その前は、笑ってたのに。 泣いてるって、俺が? なんで?泣いてなんか。 …そういえばどうして、御幸の姿がずっとこんなにぼんやりしてんだろ。 「……おっかしーな…。」 「強がんなよ、」 「…強がってねぇよ。」 「じゃあ何で泣くんだよ。」 「わかんねー…よ、」 「…沢村…。」 「なぁ、あんたも…何なんだよ…お願いだから、やめろよ。優しく、したりすんな…。」 「優しくなんか、してねぇっつの、」 「…アンタは俺のことなんか、好きじゃねぇだろ。」 「……。」 「だったらもう、放っといて、忘れて、そうしてほしい。お願いだから。」 ほら。 縮まらない距離が、つまりはそういうことなんだよ。 涙が出てたのは予想外だけど、でも、しなきゃなんねぇことは、何も変わらない。 「…沢村。」 御幸の声に、首を傾げる。 …よく見えねぇけど、笑ってないことは、すぐに分かった。そういえば、珍しい。 「お前のこと、好きかどうかって言われたら、好きだとは言ってやれねぇよ、俺。」 「…うん。」 分かってたはずの答え。 だけど。 (実際言われんのは、ちょっと、キツイ。) 「…嫌じゃなかったらさ、」 「うん?」 「そっち、言ってもいいか。」 「………別にいいけど…。」 「心配しなくても、…もう酷いことは、しねぇから。」 「心配なんかしてねぇよ、ばーか。」 「そっか。」 御幸が、ゆっくりこっちに来る。 さっきまでその手に牙を持っていたとは思えないほどの柔らかい仕草で、横に座る。 狭い教室、並ぶ机の隣同士に座る妙な光景だ。 「…あのさ」 「うん。」 「…まず最初に、やっぱり謝らせてほしい。…悪かった。」 「…でも、」 「何言われても、ひでぇことしたのは、俺だから。お前は十分抵抗してたし、嫌がってたのは分かってたし、それを力で抑え込んであんなことしたのは、俺だから。」 「…」 「だからごめん、沢村。」 「……よくねぇけど、いいよ。」 「…どっちだよ。」 「どっちも。」 俺が笑っても、御幸は笑ってくれなかった。 「…お前に言われたのさ、図星。」 「ん?」 「カワイソウなんだよ、俺って。…俺さぁ、今まで誰と付き合ってても、なんか実感無くて。そういうの最低っていうんだろうけど、でも本当にそうでさ。」 「…おー。」 「なんかそういうの繰り返してたら更に普通に思えてきて、まぁ、嫌いじゃねぇしいっか。とか簡単に思ってて。」 「…。」 「嫌いじゃねぇけど、好きでもなかったな、ってさっきすげぇ当たり前のこと、改めて分かった。」 「おっせぇ…。」 「だよなー。…そりゃ、最低呼ばわりされるはずだわ。」 「…アンタってホント、顔だけだよな。」 「それも、よく言われる。」 自分で言うなよ。 今度はちょっとだけ、御幸も口元を緩めてくれた。 どこから来たのかわかんねぇ、穏やかな空気。しかも少しだけその風が柔らかく、やさしく感じるのはきっと気のせいじゃない。…なんでだろ。 「そんでふとさ。」 「ん、」 「…なんかすげぇ、変な気分になって。俺ずっとこうなんじゃねぇかなって、いつまでも変わんねぇんじゃねーのかなって思ったらさ、なんかめちゃくちゃ怖くなったんだよ。笑えるだろ?」 「笑える。」 「…じゃあ笑えよ。」 「笑ってんじゃん。」 「嘘つきだな、沢村は。…そんで、泣き虫。」 「…うっさ、い」 「…怖くて、何かにすがりたくて、それだけのためにお前のこと傷つけたんだ。お前の気持ち知ってて、それにつけこむ様なマネした。」 「…。」 「殴っていいよ。お前にはその権利があるし。」 「……体いてぇからむり。」 「じゃあ、良くなってからでもいい。」 そうか。 …じゃあ、せめて殴り終わるまでは、アンタは俺の近くからいなくなんねぇわけだ。 つっても、部活も一緒でバッテリーも組むとなったら、離れる方が難しいんだろうけど。 「…かんがえとく。」 「頼むわ。」 「…。」 「…。」 「…さわむら、さ」 落ちる沈黙が、ピリピリ肌を小さく刺激した。 「さっきも言ったけど、俺、お前のこと好きかどうかは、わかんねぇ。」 「…うん。」 「まず、俺もお前も男だし。」 「おう。」 「相手が女でもわかんねぇんだから、多分もっとすげぇわかんねぇよ。」 知ってるよ。 そんなこと。 でも、口には出さなかった。 だってそう、終わりにするなら、どうせなら。 最後はちゃんと、御幸の言葉で聞きたいと思ったから。 「だけど、嫌いでもない。」 「…ん。」 「ここまでは、今までの奴らと一緒。好きでもねぇけど、嫌いでもねぇ、っての。」 「うん…。」 「…でもさ、さっきお前のことすげぇ傷つけて、今まで一回も思ったことねぇことが、一つある。」 「え…?」 御幸の手が、俺の頭に伸びる。 躊躇いがちに伸びて来た手が、ふわりと乱れた髪に触れた。 そのあまりの優しさに、何かを勘違いしそうになる心臓が、小さく跳ねる。 (だめだ、静まれ、) 「…俺、お前に、嫌われたくねーなって思った。」 「…みゆき…?」 「他のことわかんねぇけど、好きじゃねぇって言われた時に、なんかもうすげーカッとなって、…そんで、あんなことしちまったわけ。…初めてだわ。頭に血が上って、誰かのこと傷つけるなんてさ。」 「…アンタ前も俺に怒ったことあるけど。」 「…ああ、そっか。…そうだな、じゃあ、二度目だ。」 激情した御幸の姿が重なる。 意味は違えど、その激しくぶつけられる感情は、同じだった。 「けどその相手は、全部、…お前なんだな。」 ストン、と。 素直に落ちてくる御幸の声に、やっと頬を伝う涙の感覚を感じた。 「なぁ、沢村。俺からも一個取引してぇことがあるんだけど。」 「な、…に…、」 「……男相手にこんなことさせられたなんてバラされたくなかったら、さ」 今日は苦に近い取引は、さっき俺がしたものと寸分変わらないもの。 御幸の声が、響く、それに合わせて、滑る手の平。 「…俺のこと、嫌いになんねぇで欲しい。」 …こいつ、は。 「ずるい…。」 「知ってる。」 「そんなこと…、そんな、無責任なこと…。」 諦めることすら、させてくれねぇ、なんて。 好きになってくれるわけでもない。その可能性だって殆どないのに。 それなのに。 嫌いになることすら、許してくれないなんて。なんてずるくて、残酷な。 「分かってる。勝手だって、十分分かってるよ、…お前のこと、縛るってことも分かってて、言ってる。」 「だ、ったら…っ!!」 「でもさ、沢村。笑うかもしんねぇけど、なんかさ。分かるんだよ。」 「…、…?」 混ざり合う、吐息。 さっき確実に繋がっていたときよりも、ずっとずっと御幸のことを近く感じる、不思議。 空気を介して、ひとつになるような、そんな。ふしぎな。 「…いつか、お前のこと、好きになれるような気がするんだよ。―――なぁ、笑う?沢村。」 御幸の声が、空間に浸透していく。 満たしていく、何かを。確実に。 遠くで、二度目の始業のチャイムが、響く。 それは、かっこのつかない三流ドラマのような展開。 特別なことなんか何も無い。終わりもない。続かないかもしれない。 生きていれば、上手くいかないことの方が多くて、思い通りにいくことなんかきっと一生終わる頃にも数えられるくらいしかないんじゃねぇかなと思う。 多分これも、その一つ。 数ある、無意味な物語の中の、そんなひとつ。 人生は、ドラマじゃない。 だから、つまりそういうこと。 何も始まらない。 でも、何も終わらない。 切り貼りされたちぐはぐな毎日が、ただただ続いていくだけのそんな物語。 きっとこれも、そのひとつ。 だから。 エンドロールは流れない。 mixing 物語が混ざり合うばしょ Thank you! 2010.02.20〜03.30 御沢愛! 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