吸いこまれるようなアンバー。 それはまさしく彼の一つの圧倒的攻撃力を誇る武器であるけれど、その厄介さは彼自身がそのことについて認識し、かつ、その使い方を熟知していることにある。 人を引き付けるその瞳。けれど決して人を寄せ付けることのないその存在。 見た目よりもずっと奥深いその瞳に隠された更に底果てのない感情は、他人には決して測りきることが出来ない深度にズクリと入り込んで、触れることも叶わない。 彼を理解できるのは彼自身しかいないのだと、彼本人が頑なにそう思っている節があって。 端から他人を拒絶してみせるくせに、独りを誰よりも嫌う。 そう、まるで自我が芽生えたばかりの子供のような、けれど子供の無知さを全て取っ払ったような。そんな子供の純粋さと、大人の知識を持った、まぁつまりは。 欠落と言う名の完成品なのだ、彼は。 「言うこと聞けねェやつはどうなるか、俺教えなかったっけ。」 背筋が凍るほどの、絶対零度。 射抜くような、突き刺さるような、そんな視線にゾクリと反応する自分だって、完璧だらけのただの欠陥品だということもまた、自負している。 「ごめんなさ…い、ごめ、なさ…。」 懇願する涙声に混じる悲痛な色。発する声と共に漏れた涙は空気に溶けて、消えた。 (ああ俺は、今日も幸せ。) 空気に冷やされていっそ焼けつきそうなほどの銀色の鎖が、首を動かす度に髪に擦れてカシャリと小さな音を立てる。 「ふ、」 吐いた息が外気に溶けたその白い煙は、中の明々した暖色の風景と、陰る月だけが背中を照らす寒空との間を隔てるくすみ一つない磨き上げられたガラス窓に張り付いて、一部だけ白色に染めあげた後、再度現れるのは何も無かったような無色を残していく。 手を触れれば、色の温かさとは逆に、ヒヤリとした冷たさだけが皮を突き破って体内に侵食して、反射的に手を引っこめると、ガンッと思い切り目の前のガラスが揺れた。 「どーした?寒いの?」 籠った声が少し高い場所から落ちてくる。顔を上げると、やはりガラス越しに見えた至極楽しそうな御幸の顔。それに反応するように、もう一度ガラスに手を伸ばすと、縋りつくような視線を投げかけた。それを一蹴するように嘲笑した御幸が、再度ガラス窓を蹴りあげると、その反動を受けた大きな窓がグワンと音を立てて振動した。 高級高層マンションの最上付近にあるこの部屋のリビングへつながる窓は、強度と防音のために相当分厚い二重ガラスになっている。それなのに、先ほどの蹴りはその強固なガラスですら割りつけてしまいそうなほど強く、重い。 遠慮などカケラも見えないその力にきゅっと少しだけ唇を噛んだ沢村は、そうっと視線を足元に落とす。 「なんだ、無視か?」 「…っ、しゅじ、さま…ッ」 「あ?聞こえねェし。」 「ごしゅじ、さ…っさむ、…!」 「…ふうん?…で?」 「で、…って…」 それがどうしたのだと言いたいとばかりに、暖色を背景に背負ったまま腕を組む御幸がニヤニヤと口の端を歪める。それと比例するように顔を崩していく沢村の顔に現れてくる絶望の色に更に御幸の顔が喜色に染まっていく。 ヒュ、と風が通りぬける音がして、全身を走り抜けた寒気に体を丸めるように抱え込んだ首元でまた、冷たい音がシャラシャラと鳴った。 「そりゃそーだろ。真っ裸でベランダに放りだされりゃ、寒くねぇ方がおかしいよ。」 だろ?そう言って問いかける声はいつも通り甘く意地悪なそれだけれど、ガラスを隔てたその顔は、とても残酷に湾曲して沢村の目に映る。 「は…ッ」 「はっは、ハッズカシーやつ。…ああ、お前犬だもんな。服なんかいらねェか。悪い悪い。」 「ふう…!さ、む…!ごしゅ、じ、さまあ…、!」 「なんだよ駄犬。お前言葉もまともに喋れねぇの?」 クスクスと笑いながら、ドンッとまた大きな音を立てて重い足が窓に跡をつける。底にすがるように手を伸ばしてガラスをひっかいたら、カリカリと頼りない音が冷たい空気に混ざって消えた。 「そのままそんなところに居たら、本気で凍死するかもなァ。」 外で。 全裸で。 首輪なんかしちゃってさ。 紡がれる一言一言に、ゾクゾクと体の奥から得体のしれないものが腹をぐるぐると這いずりまわって、耐えるようにまたカリッとガラスに爪を立てた。 トントンとその細く長い綺麗な指先で、そんな窓越しの沢村の手をなぞるように動かしながら言う御幸の甘い声が耳を撫でる。 「どう、…ひ、たら…!」 「ん?」 「ど、…したら、ッ 入れてくれます、か…?」 絞り出すようなか細い声が、風の音にかき消されそうなほどの音量でガラスに頼りなくぶつかった。 その言葉を待っていたみたいに、動いた御幸の眼下に晒された沢村の体がビクリと小さく震える。 「…そういう時は、どうするんだっけ?」 歪んで、歪んで、何も見えなくなった声。 「おねだりの仕方は教えたろ?」 これほど拘束力を持った言葉を、他に知らない。 捕らわれて、逃げ場所なんか無くて、有無なんてどこにもない。問いかけられる命令には、縛られてしまえばいっそ快楽になることを知っている自分の体は酷く従順で、促されるままゆるゆると体を動かす。 そっと触れたガラスはやはり冷たい。痺れるくらいの冷ややかなその感触。けれど気にせず伸ばした手をそっとガラスの向こうの御幸の手に触れるように添わせた。 温度なんか感じない。けれどそれだけのことに嬉しくなって、頬が緩む。 冷たいガラスに頬を擦り寄せ、闇色だけを映すくすんだ瞳にかかる瞼を揺らして、沢村はそのままピタリと温度の無い無機質なそれに体を寄せた。 本物の犬や猫のように、弱弱しく開いた口から覗いた紅色がガラス窓を厭らしく、這う。 ピチャ、ピチャ、と耳をつく音が響くけれど、分厚いガラスの向こうでじっと何も読み取れない表情のまま沢村をその目に映す御幸にはきっと聞こえて居ない。それでも懸命に。唾液の流れた場所から雨のように水滴が窓を伝って、体を寄せた窓に白いシルエットが浮かぶ。 「はぁ…ッ、ふ、…!」 腰を捩って、頬を寄せて。温度の映ったガラス窓に肌が擦れる音がキュッキュッと響いた。 淫靡な姿が移される窓ガラスのスクリーンは、背景の闇に何も映さない。 冷たさすら感じなくなって、噛みあわせた奥歯がカチカチと小刻みに鳴る音すら遠くに聞こえ出した時、永遠ともいえるような(ともすればもしかしたら一瞬であったかもしれないけれど、時間の感覚など当に壊れてしまっている)拷問の終わりは突然訪れた。 ガッ、と簡単に勢いよく開いた窓に、反射的に体を離す。 え、と思った時には首の輪っかに繋がった鎖をとてつもない力で引っ張られて、一瞬だけ締まった首から、カハッと嫌な音がした。 「やっぱりお前は脳無しだな。」 足をもつれさせながら入った部屋の中で、ふ、と笑みが降ってきたかと思えば、吐き付けられた言葉に顔を上げる。ペットどころか、物でも扱うような手つきで鎖を引かれて無理やり進度を決めさせられる体は、漸く得た穏やかな温度に体を適応させる暇もなく、ジャラジャラ音を立てた鎖に引っ張られて首に食い込んだ部分が呼吸を苦しくさせて何度かせき込んだ。 けれどそんな沢村に振りかえった御幸は、首を傾げたままぐっと力を込めて更に鎖を引いた。 「うぐっ…!!」 「入れて貰えたのに、礼もなし?」 「うあ、…あり、がと、う…ございま、す…」 「ああ。…よく出来ました。」 くしゃくしゃになった黒髪を大きな手が撫ぜる。もうこれで酷くされないのかと、穏やかに浮かべる御幸の顔に、少しだけ体の力を抜いたのと同時に、ガンッ!!と勢いよく腹部に衝撃が走った。 「…が……ッ……!?」 息が止まって、衝撃と共に見えた天井。 物が落ちるみたいな鈍い音がして、背中と腹部と両方に痛みを感じた瞬間に、体が冷たいフローリングに叩きつけられたことを知る。 「あ、ぐ…ッ、ふあ…」 「言われる前に礼くらい言えよ。何度も言ってんだろ?」 「、…ッは、あ」 「返事。」 「は…ひぃ…!」 ゲホ、ゴホッと何度も何度も噎せ返った後、ゼェゼェと嫌な音を立てる器官が時折音を立てて、人形のように動かない四肢をフローリングに投げ出しながらも、なんとか頷いて見せると、やっと御幸が満足そうに笑った。 どれだけの力を込めて蹴り飛ばされたのかは分からないけれど、腕すら満足に持ちあがっらない体への反動を思えば、相当なものだったことは予測がつく。 動かない沢村の体を、再び鎖を掴んで無理やり引き起こして、前髪が触れあうくらいの距離まで引っ張り上げれば、こひゅ、と器官を空気が通る音が御幸の鼓膜を揺らした。 「ふ、う…!」 「なんでさ…こんなに虐めてんのにどうして俺のこと嫌いになんねーの?」 開いてる手で前髪を掴まれて顔を上げさせられる。引っこ抜かれてしまいそうなほどの力にズキズキと頭に激痛が走って反射的に眉を寄せた。 「んう、」 「嫌だって言えよ、言ってみろよ。なんで言わねぇの。お前馬鹿なの。」 再びまた熱の塊でもぶつかったみたいな衝撃が腹部に走る。ガッ!!、そんな音が鳴って、また地面に投げ出される体。 「、…ごひゅ、じ、ひゃ、ま」 「苦しいとか痛いとか、言えばいいだろ…?」 「が、ッ、…はァ……あ…!」 「言えよ、…言え…言えよ、沢村!!」 「うぐう…ッ!!」 蹴りつけられる体のいたるところが痛んで、もう大丈夫なところを探す方が難しいくらい痛めつけられた四肢が、御幸が足を動かす度に浮いては落ちて、浮いては落ちる。 反射的に零れる涙と、口の端から流れる唾液が地面を汚し、その場に何度も何度も蹴られては叩きつけられ、呼吸の仕方も分からなくなりそうな責め苦を、御幸が緩めることは無い。 「おれ…、は…っ」 四つん這いのまま、這うようにして御幸の足元に寄った沢村の腕が、弱弱しくその片足に縋るように纏わりつく。 力の入らない腕、握力の無くなった手からは、掴んだズボンはずるずると簡単に抜けて、何度も何度も握り直しながら、必死にその姿を見上げた。 「おれ、は…そばに、いれて…しあわせ、です」 だから大丈夫だ、大丈夫だと。 一瞬だけ動きを止めた御幸に向かって赤子でも言い聞かせるようなそんな声色で、ゆっくりとかみしめるように呟いた言葉は、温かい空気に紛れてふわりと宙に浮く。けれど重量なんて無いそれは、御幸に届く前にふわふわとすぐに浮かんでは溶けて消えていった。 「…ッ!」 縋る腕を振り払われて、また蹴られるんだろうかと衝撃に備えて目を瞑れば、けれど次に感じた強さは、じわりと温かいものだった。 気付けば回されていた腕に骨が軋むほど捕らわれた俺は、ああやっぱり、逃げ出せない。 …逃げ出さ、ない。 ど う し て。 声が聞こえたのかそれともただの空耳か。それでも脳を揺さぶるその声に、力の入らない腕の代わりに少しだけ体を寄せた。 瞑った目には、光を閉ざすアンバーは、映らない。 それは。 愛してると言われるよりも、痛いくらいに体に教えてくれたほうがずっとずっと分かりやすくて。 軋む体とその痛みがじわじわと侵食していく全身こそ、愛を知らないと嘆くこの人の等身大の愛になれる。 (だから馬鹿だと言われるのなら、俺はずっとこのままでいいと思う。) おれ は 幸せです。 痛いくらいの愛の中で生きていたいのです。 [TOP] |