牙の無い犬はいない。 けれど犬が牙を持つのは、 決して弱いからというわけでは、無い。 俺の犬は、よく鳴くわ、よく吠える。 その上物覚えは悪いし、頭も悪いただのバカ。 変なところで従順なくせに、変なところで意地を張る。 …まぁ総じて言えば、ただのバカ犬なんだけど。 そのバカ犬が、珍しく目に見えて怒りをあらわにして、全身をブルブル震わせてる。 (…なんかしたっけ?) つーか、“ナンカ”なんて、いつも通り過ぎて思い当たることが多すぎて、全然わかんねぇわ。 どれだけ酷く雑に扱っても、めんどくせぇくらいひっついて来やがるのに、今日に限って一体どういう風の吹きまわし? 「ご、ごしゅ、ごしゅじ、さま!」 …噛んでるし。言えてねぇし。相変わらずブルブル震えてるし。何なのコイツ。 ジロっと睨むみたいに視線を向けてやると、ビクンと細い肩が小さく揺れた。 それでもなぜかすぐにきゅっと唇を噛んで、挑戦的な目を向けて来る。…マジで珍しい。 「…なに?」 発した声が予想以上に冷たくて端的で、発した俺も少し予想外ではあったけど、更に驚いたのは犬の方だったみたいで、一瞬無駄にデカイその目が更に大きく見開かれた。 どうしよう、って顔に思いっきり書いてあるのには気付いたけど、それに助け船を出してやるほど、俺はこいつに優しくない。 それこそ、こいつの大好きな“マスター”や、こいつを甘やかす周りの奴らと俺は違う。 …このバカも、俺みたいなのの何がよくてひっついてくるんだか。 「……っ、」 「んだよ。めんどくせぇな。」 「…ごしゅ、じ、さま、なんて…、」 「あ?」 「ごしゅじんさまなんて…っ!き、きらい、です!」 「……は、ぁ?」 うるっと軽くうるませた瞳で思いっきり睨みつけられる。 どうしてそんな思いつめた表情をしてるのかは知らねぇけど、あまりにも聞き慣れない言葉に、一瞬何を言われたのか理解出来なかった。 思わず聞き返せば、もう一度、「きらい、…です」と、消えてしまいそうな声が返って来た。 その内容に、唖然とする。 (嫌い?) きらい。 …嫌い? 脳が、処理機能を一瞬失ったみたいに、その意味を理解するのに時間がかかった。 記憶違いでなければ、そんな言葉を、目の前の“犬”に言われたのは多分、初めてだったから。 小さな体いっぱいぶるぶる震わせて、自分が言ったくせに戸惑うみたいに揺れる瞳を見ていると、初めこそ反射的に戸惑ったものの、何だかすげぇ苛々してきて、そのイラつきを誤魔化すように近くのものを蹴ったら、軽かったゴミ箱に偶然足が辺り、大音量が室内に響いた。 「…何言ってんの?お前。」 「ひ、…!」 乱暴に、髪を掴む。 力なんかそこまで入れてねぇつもりなのに、眉を寄せて苦痛に顔を歪めるところをみると、そうでもねぇのかも。 「なぁ、誰に向かってそんなこと言ってるか、分かってる?」 「ごしゅ、じ、さ…!」 「そうだよ、俺はお前の、ご主人様だよなァ?…駄犬?」 嫌い、だなんて。 嫌う、だなんて。 お前が俺を嫌うだなんて。 そんなこと、あっていいはずねぇだろ?なぁ。 俺がお前を嫌うのなら。 俺がお前を嫌いだというのなら。 それが、主従の有るべき形だよなあ? それが、どんな理由があってなんで突然そんなこと、俺に言うの。バカ犬。 「…最近躾も仕置きもしてねぇから、忘れちまったの?」 「や、…!」 「なぁ、嫌いって何?お前が俺のこと嫌うの?…お前にそんなこと、出来んの?」 「…っ、ひ、う…!」 (嫌い、だなんて。なぁ、お前は俺の犬じゃんか。何しても離れていかねぇ、従順な、) 開いてる手の甲で、頬を撫でる。 小さく小刻みに震えているのが伝わって来る。恐怖、怯え、不安。 親指で唇をなぞったら、カサリと乾いた唇が指の皮に引っ掛かった。 そのままちょっと力を入れて、口の中に指を突っ込む。驚いて目を見開く歯列を、その拍子に器用に割り開いて侵入した咥内に、指が滑り込んだ。 生温かい咥内に、簡単に進入して、勢いで奥まで突っ込んだら、ゴホッと小さく咳き込む音が聴こえた。 抑えるみてぇに、舌を押し付けると、苦しいのか顔がどんどん歪んで行く。 上顎を撫でたら、小さく肩が震えた。 「…返事は3秒以内。教えたろ?」 けれど声が発せないように、舌をがっちりと固定して、クスクス笑う。 必死に声を出そうとしてるのが、吐息の流れで分かったけど、それすら掌握する俺の力の前では、ただただ非力なだけだった。 その様子があまりにも滑稽で、ひ弱で頼りなくて。 口元を緩めれば、悔しそうに涙をポロリと一粒零した目が大きく揺らいだ。 ガリッ、と。 指に痛みが走る。 何事かと思えば、ジン、と突っ込んでる指から緩い痛みが伝わってきて、…噛まれた、って気付いた。 「ふ、ぐ、う…っ!」 その、反抗の色が映る漆黒に。 じわり、じわりと、噛まれた場所から疼くような痛みが合わせて登ってくるの感じて。 (なんだよ、その目。) 思わず、背中が震えた。 「…飼い主に噛みつくなんて、いい度胸だな、お前。」 その絶対的な重圧のかかる声の前で。 自分のしでかしたことの大きさを知ったらしい小さな体が、見たこともないくらい縮こまるのを感じた。 けれど、行動こそ冷静なものの、煮詰まった頭を持て余す俺に、そんなことは関係なく。 ズボリと口から指を引きぬいて、息を突く暇も与えることなく、そのまま腕を引っ張ってその体を一瞬で組み敷いた。 その目に映る、恐怖、怯え、不安。 そして、期待。 (なるほど、ちょっとは“賢く”なったじゃねぇの。) 「悪い犬には、仕置きの時間だぜ?…沢村。」 触れた先にある体が震えたのは。 恐怖よりも、 ただの愉悦ゆえに [TOP] |