楽になりたいなら、おいで。 「全部奪ってやるよ。言葉も思考も、全部。」 そう言って伸ばされた手に指を絡めたその瞬間から、俺は。 ―――― ギシッと何かが軋む音が耳に響いて、淀んでいた意識が急激に引き戻された。 目を開いた一瞬ぼやけた視界に、何度かの瞬きの末、徐々に映しだされる色にぼんやりと思考が追いついて来る。ああそうか、ここは。 「…起きたの?」 降ってきた言葉に顔だけ少し動かして視線を持っていくと、軋んだベッドの一部に腰掛ける後ろ姿を見つけて、ゆるゆると体を起こした。 「起き、た…」 「ははっ、ひっでェ声。」 唯一気休め程度に纏っているシーツが、体を起こした肩からするりと落ちて昨夜のまま乱れたベッドの上に柔らかく落ちる。それを少しだけ視線で追った後に、窓の外を見ればもう随分と暗くなっていて、けれど漏れる光だけでは今が明け方なのか夜中なのかは判別出来なかった。 起こした体は全身に痛みが走るものの、それ以上に痛くて重い頭を抱えながら、目線を向けてくれない御幸の手元のあたりの布団をクイクイ引っ張る。すると訝しげに眉を寄せた表情と漸く視線が絡んだ。 「…なに?」 「…なんじ…、…いま、」 「さぁ?何時だろうな。」 ベッドに片腕を突いて、こちらを見てくれるけれど、ケラリと笑うだけで望んだ答えは返してくれない。でも、向けてくれた視線が嬉しくて、少しだけ頬を緩めると、同じように微笑んだまま御幸が手に持っていたペットボトルを軽く振って一口口に含んだ後、それをこちらに差し出してきた。 反射的に伸ばした手を、けれどそのボトルの本体ではたき落とされる。 「っ、…」 「誰がやるなんて言った?身の程弁えろよ。」 「だ、って、」 「だって…?」 ふ、と音を立てて小さく息を吐かれたと思ったら、半分くらい中身のあるボトルを逆さまにした御幸が、それはもう楽しそうに笑いながら、思いっきりその中身を俺の顔に浴びせかけた。 「ぷ、…っわ…!?」 「なんだよ、欲しかったんだろ?喜べよ、駄犬。」 「ふ、ぅう…ッ」 「ありがとうございます、ご主人様、だろ?」 「ふあ、りっあと…ございま…ッ、ごじゅじ、さ…!」 「聞こえねぇし。もーいっかい。」 「ふ、あぅ…!!」 ドボドボと狭い飲み口からそれなりに多めの水が降ってくれば、一瞬目を閉じるのすら忘れて反射も間に合わないまま、大量の水が顔に降り注ぐ。 気付いて目を閉じるけれど、俺のそんな反応なんて御幸にとっては想定内なのか、その頃にはもう殆ど水は無くなってて、その分顔を伝って落ちた滴がボタボタと大きい水滴になってベッドに落ちていく。ぶるぶると頭りを左右に何度か振って水しぶきを飛ばしてから俯くと、本当に犬だな、なんて蔑むような声音と 共に冷たい目線に射抜かれて、寒さからなのか何からなのか分からない震えが少しだけ肩を揺らした。 「沢村、」 行為中ですらほとんど呼ばれない名前を呼ばれた音がして、反射的に顔を上げると、やっぱりそこには御幸の笑った顔があって、一瞬だけ心がざわっとした。 (…また、へんなかお。) 優しい手つきで、伸びてきた手が頬に触れる。 残った滴が指に絡んで、そのままなぞった場所から塗り広げられていく。 まるで大事なものを触るみたいにゆっくりと柔らかく顔をなぞるゴツゴツした手。 俺より少しだけその大きな手は、何かを確かめるみたいに顔全体をなぞって、落ちて。 それからそのまま急に横髪を強い力で引っ張られた。 「いっ…!」 「なぁ、沢村。」 強く強く、俺のことなんかこれっぽっちも考えていないような、優しさの欠片すらない力で引っ張られたところからギシギシと音が鳴ったみたいに痛んで、その痛みに顔を歪めた俺の表情をそれはもう満足そうに御幸が見下ろす。 「お前、こんなことされてまで、どうして俺の傍にいるの?」 くすくす。 御幸の笑みで前髪が揺れて、人形みたいに何も出来ずにいる俺をモノでも見てるような瞳で見つめてくるのに、パクリと開いた俺の口からは最初何も意味を為さない息だけが漏れた。 ゲホッ、と息を吐いたら気管がズキリと痛む。散々喘がされて痛めつけた喉は予想以上にダメージを受けているのか、唾液を呑み込む度にチリチリとした痛みが通り抜けていく。 「だって…、」 「また、“だって”?」 ハッ、と肩を竦めて笑われて、更に髪を強く引かれた。 漸く絞り出した声はそれはもう、確かに酷いと言われても致し方ないほど掠れていて、ああこれは酷いなぁとぼんやり心の中で思う。 「放って、おいたら…そのまま消えて…どっかに行っちゃいそ…う…。」 ぽつり、ぽつり。 まるで言葉を覚えたての赤子みたいな短い語句が冷えた室内に飛んで、けれどすぐ手元にボタボタと水滴みたいに落ちていった。 それを、じっと何もせずにただこちらを見て聞いていた御幸は、冷えた視線で簡単に踏みつけて声を上げて笑う。 「ばっかじゃねぇの?」 ははっ!そんな乾いた笑みと共に吐きだされた言葉は妙に軽くて重くて。 ゆっくりと上げた視線の先で、もうすっかり見慣れた綺麗な綺麗な顔に、表情を歪めた御幸だけが見えた。 「可哀想なお前は、もう俺から一生逃げられないんだよ、犬。」 …違う。 カワイソウなのは御幸の方だ…、と。 掠れた声帯は小さく震えるだけで音を鳴らすことはなく。 「なぁ、俺のこと、何されてもいいってくらい好きなんだろ?」 伸ばした手はやんわりと空を掴んで、その涙に触れることなく、ボトリとシーツの海に落ちた。 ―――――――――――「愛してやるよ、沢村。」 [TOP] |