きみがいないと何もすきじゃない

「テレビは大きいのがいいんじゃない」

 そう言った時、彼女はきょとんと目を丸くしてこちらを見上げた。
 彼女の言う通り開店直後を狙って滑り込んだ家具屋の廊下で、数歩先を歩いていた足を止める。振り返った拍子に髪が靡き、露わになった首がやけに白く見える。
 店内は大して照明を点けていないにも関わらず、遮蔽物のない方角の窓を前面ガラス張りにすることで太陽光を効率よく使うことが出来ている。
 混じりけのない甘い光に縁取られる彼女の身体の輪郭をじっと見つめていた。

「でも京一郎くん、あんまりテレビ見ないでしょう」
「僕はね。でもきみは使ってるだろ」
「えー、そうかな……」
「暇さえあればテレビの前にいる」

 ずらりと陳列されたテレビ台に視線を戻しながら、「でもここにはテレビないよ。あとで家電屋さん行かないと」と呟いて再び歩き出した。その二歩後ろをついて歩く。

「だから先に家電を買いに行くべきだって言ったんだ。今僕らの急務は最適なテレビを買うこと、それからそれに合うサイズの台を買うことだろ」
「わたし、テレビなきゃ死ぬような人間じゃないよ。ドラマとかもあんまり見ないし」
「知ってる。バラエティもニュースもドラマもそこまで思い入れがないことも」
「じゃあなんで?」

「僕がいなきゃきみは家にひとりだろ」

 それだけで、僕が言わんとしていることがすべてわかってしまったらしい。
 彼女は困った風に視線を彷徨わせてから、それから疲れたように笑った。顔がくしゃりと歪み、彼女が無意識のうちに嫌悪する愛しいえくぼが生まれる。
 僕は笑った彼女の頬にえくぼが出来るのが好きだった。口に出して言うと彼女は悲しみを隠すために微妙な表情をつくるので、あまり言わないようにしているけど。

 軽い足音が僕の二歩分――彼女にとっての三歩半ぶんの距離を詰めてくる。顎の下あたりに寄ってきた黒いつむじを黙って見下ろすと、白い手が僕の右手を掴んで握った。
 そのまま祈りでも捧げるように、僕の右手ごと自分の手を持ち上げ額にあてる。

「…………それって思いやり?」
「どちらかと言うと謝意」
「なんで京一郎くんが謝るの」

 答えなかった。
 彼女は僕が口を閉ざすことを予想していたのか、それ以上何も問わず目を伏せた。


* * *


 薄目を開ける。
 ゆるい瞬きの最中には、白い背中をこちらに向けベッドを出ようとする彼女の姿があった。
 気怠い腕を華奢な腰に回すと、眦の垂れた穏やかな眼差しが音もなく振り返る。

「ありゃ、起こしてしまった」
「……眠りが浅いのはお互い様だ」
「たしかに。大丈夫、すぐ戻ってくるよ」

 そう言い、新詩は丁寧に僕の腕を解いてベッドを降りると、下着の上にTシャツを被って寝室を出ていった。
 寝返りをうち、反対側のベッドサイドに目を遣る。デジタル時計の示す時刻は三時ニ十分。寝直す時間は充分にある。

 ぼんやりした頭で身体を起こし、彼女がしていたように床に落としていたスウェットをのろのろ着ているうちに、宣言通り新詩が戻ってきた。両手には水の入ったコップを一杯ずつ持って。
 「飲みたいかなと思って」と差し出されたそれを受け取り口をつける。これじゃどっちが抱かれたんだかわからない。スプリングを軋ませて隣に戻ってきた彼女の横顔を流し見た。
 暗闇に目が慣れてくると、静かな表情で水を口に含み、飲みこむ時に微かに動く喉の白さまでよく見えた。

 頭を空っぽにしてじっと彼女が水を飲んでいる様子を眺めていたら、ふいに彼女がTシャツの裾をサッと片手で押さえ、何を勘違いしたのか「六時になったら私はお弁当の準備を始めます」と謎の申告をしてきた。どうやら僕を理性無しのけだものか何かと勘違いしてらっしゃる。
 首を傾けて軽いキスをしたら肩を押し退けられた。

「ただ水飲んでるのがカワイイナーって思っただけなのに……」
「水飲んでるのが可愛いってなに……? 犬とか猫とかみたいな……?」
「喉が動いてた」
「ごめん……共感が難しい……」

 難しい顔になった。皺の寄った眉間にもキスをすると、今度は押し退けられなかった。ご理解いただけたらしい。
 ぎゅっと目を瞑って耐える姿勢なのが可笑しかった。あてつけにさっきまで動いていた首や、黒子のある鎖骨に飽きるまでキスをした。

 ベッドサイドにコップを除け横向きに寝転ぶと、新詩がころんと隣に横たわった。
 寝る気があるのかと問い質したくなるほどばっちり開いた双眸が、記憶の底の洞を覗き込むような虚ろさを宿しかけているような気がして、少し下にある小さな頭を雑に抱き込んだ。ぐえ、と色気の欠片もない呻きが洩れ聞こえる。

「愛がくるしいよ、ちょっとは加減して」
「加減されたらそれはそれで不安になるくせに」
「物理の話をしてんのよ今は」
「ふん、仕方ないな」

 抱き締めた彼女は驚くほど冷たかった。いつもそうだ。
 寝入るまでは僕より温かいくせに、まるで眠ることでなにかを奪われているかのように、新詩は冷たくなる。
 本人は寒くないと言うし、恐らく身体の問題ではない。心の問題と表現するのが最も近いだろう。
 彼女は眠ると大抵悪い夢を見て何度も目が覚めるし、眠りも浅いのでちょっとの物音でもすぐに起きてしまう。
 心療内科や睡眠外来への受診を勧めたこともあったが、僕がその癖を知った頃には「自分以外の存在を感じながら眠りに入ると幾分かマシなの」と彼女自身がそれに対する理解を深めていたので、余計な口を挟むのはやめた。

 僕がいると、あまり夢を見ずに済むのだと言う。
 別に同じベッドで眠る必要はない。隣にある別の寝室で眠っているのでもいいし、キッチンにいても、リビングにいてもいいらしい。
 とにかく一つ屋根の下に自分以外の誰かがいる、という認識が彼女に安らかな眠りをもたらす。

 なので、家に帰って来られる限りは、適当に彼女と同じベッドで眠るようにしている。
 本人は隣の部屋にいるだけでも充分だと言うが、日中顔を合わせる機会がないので、睡眠チェックを兼ねて寝顔を眺めるくらいはしてもいいだろう。
 別に全てが彼女のための献身という訳じゃない。

 相手が今日も生きていて、静かに胸を上下させ息をしている。
 そのことに安堵するのは彼女だけの特権ではない。

「……こういうとき、無理に寝ようとしたら余計寝られないんだよねぇ」
「その心は?」
「テレビ見ようかなって」
「馬鹿なの? 日が昇ったら仕事だろうが」

 体力もつの、と訊ねたら小さな頭が顎に頭突きをかましてきた。ハイ、余裕なんですね。
 腕の中でもぞもぞ動いて脱出を図るので、諦めて華奢な身体をぐいと抱き起こした。

 髪を食べている。きょとんと目を丸くする顔が同い年のくせに幼く見えた。唇にひっかかった髪を指でよけてやりながら「新詩がそれで落ち着くならいいよ」と言った。

「こういう時のために無駄に大きいテレビ買ったわけだしねぇ」

 きょとん顔がじわじわ笑顔に変わる。眉を下げる癖があるのでなんとも情けない笑みだったが、「やったぜ〜」と手を挙げて喜んでいるところを見ると悪い気はしなかった。

 間抜けヅラ。でも生きている。
 夜の闇のすべてを二つの瞳で吸い込み、この世のすべての絶望をその身に宿していたような悲愴な面影は、今はもうあまりない。

「……ま! 僕は寝るけど」
「え? 一緒に徹夜する流れじゃなかったの、今のは?」
「寝ます。明日も仕事なので」
「私も仕事だけど……というか誰かさんが手出してこなきゃ今頃いつも通り安眠してたと思うんだけどな〜」
「ぐーぐー」
「はいはいおやすみ京一郎くん」

 おやすみ新詩。
 寝る気になったら戻って来いよ。
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