背に羽など見ていると思うの

 シャワーと着替えを済ませた私がリビングの扉を開けると、ソファにぐったり横たわる岸くんがいて思わずはっと息を呑んでしまった。
 いや。いやいや。彼がいるのはわかっていたんだけども。昨日何だかんだ言いながら結局眠っていたんだ、と思ったのだ。警戒心の強い野生動物が初めて手から餌を食べてくれただとか、そういう体験に似た感覚に襲われた。

 はあ、と音を殺して溜め息を吐く。
 「おちおち寝てられるかよ」とまで言っていた彼が意に反して眠ってしまうほど疲れていた事実を胸に、少しでも彼に元気になってもらおうと朝食の準備を始めることにした。
 我が家は朝はご飯派だ。いつも前日の夜にタイマーでご飯は用意しておくので、お味噌汁とおかずを作る。今朝はほうれん草のお浸しの残りと焼き魚。そこまでやってまだ時間が余るようなら、出汁巻き卵も追加しよう。タンパク質を摂ってほしい。

 キッチンの壁にかけているエプロンに手を伸ばしたところで、音を立てたつもりはなかったけれど、岸くんが唸り声を上げながら身動ぎする。
 間もなくして、むくりと起き上がる。寝惚けまなこがこちらに向いた。
 しわくちゃな顔をしているのに寝癖がついていて、それがかわいくて、笑いを噛み殺しながら「おはよう」と言った。

「……はよう」
「朝ごはん、これから作るよ。今、六時十五分くらい。顔洗っておいで、洗面所にタオル置いてきたから。薄緑のやつね」
「うん……」

 寝起きのせいかぼんやりした返答を珍しく思いつつ、カーテン開けてほしいな、とお願いしてみる。岸くんは無言で立ち上がり、薄黄色に花柄のカーテンを開けてくれた。
 部屋がサンルームにでもなったかのように光に満たされる。淡い空に薄い雲が漂う快晴だった。眩しいくらいの朝日が満遍なく部屋を照らすのを眺め、今日も朝が来たな、と思った。

 岸くんがのそのそとリビングを出て行くと、ほとんど入れ替わりで祖母が起きてきた。
 昨日遅くまで私を待っていたせいで少し長く寝てしまったらしい。寝坊した、と言いながら駆け込んできて、鮭の切り身に塩を振る私の背後で冷蔵庫を開け、卵を三っつ個取り出す。
 馴染みの献立だ。考えることは同じなんだなぁと苦笑し、出汁巻きを祖母に任せ、私は魚を焼くためにグリルを引き開けた。


 最終的にテーブルに並んだのは出汁巻きではなくハムエッグだった。考えること、違いました。
 まあ別に腹に入れば同じか……と首を振りつつ、一応取っておいてあった来客用の茶碗にお米を盛り、お椀に大根と油揚げのお味噌汁を注ぎ、焼いた塩鮭をお皿に上げ、ほうれん草、海苔、タラコ、醤油……ちゃっちゃと出していくと、顔を洗って覚醒した岸くんは「朝から豪華だぁ」と無表情で両手を上げていた。

 食べ終える頃には七時を回っていた。もう充分、電車もとっくに動き出している。
 よく食べる岸くんに喜んだ祖母が冷蔵庫から作り置きのきんぴらごぼうやら里芋の煮っ転がしやら色々出してしまったので、想定より時間を食ってしまった。しかも出されたものは全部完食してしまったからすごい。
 正直、岸くんがまともな食事で麺もの以外を食べているところを初めて見たので、どうなることかとハラハラしていたけど。偏食家と健啖家って矛盾するけど両立も出来るものなんだ。

「岸くん送ってくるねー。すぐ戻ってくるから!」
「お世話になりました。朝食も、ご馳走様でした」

 祖母は岸くんをすっかり気に入ってしまったようで、頭を下げている岸くんに「また来てくださいね」とか「岸くんは何がお好きなの?」とか色々訊いて困らせている。
 時間に余裕があるとは言え、早く帰りたいだろうと思って会話を切り上げ、岸くんのコートの裾を引っ張って道路に出た。

「とにかく、今日学校に行ったらまず最初に職員に昨日あったことを相談しろよ。学生部とか、カウンセリング室とか、とにかく色々あるだろ。どこでもいいから駆け込んで、大事にしてやれ。どうせならあの同期の彼女も連れていった方がいい。彼女の方がきみより弁が立つ」
「大事なんか嫌だよ……きっと先輩も昨日で懲りたと思うし、少なくとも私にはもう近付いてこないんじゃないかな」
「想像力が足らないなあ。きみのあとにターゲットになる奴がいるかもしれないだろ。そういう先の可能性まで徹底的に潰すんだよ。きみのためだけじゃない、今後ああいう奴の被害を減らすために先手を打つんだ」

 それには確かに一理ある。私だけで済むならいいが、先輩がまた別の女の子相手に同じようなことをしないとも限らない。私以外の誰かがあんな怖い思いをする可能性があるなら、それはどうにかして手を打たなければ。
 頷くと、いつもよりゆっくり歩いてくれている岸くんはポケットに手を入れたまま、こちらを見ず「落ち着いたら、電話でもメールでもいいから一言報告して」と言った。

「えー? うん、わかった……」
「ここまで関わったんだから、事の終わりまで知る権利はあるだろ」
「そう言われたら、確かにそうね」

 昨日の夜は何十分もかけて駅から家まで帰ったけれど、実際普通に真っ直ぐ歩けば十五分程度の距離だ。
 喋っているうちに駅についてしまい、入口の少し手前で足を止めた。

「では、私はここまでで。本当に、昨日はありがとう。大変助かりました」
「そう思うなら今後はもっと他人に警戒心を持ってくれ」
「いや、ああいう人は少数派でしょ」

 苦笑いすると、岸くんはいつもの怖い顔でふん、と鼻を鳴らす。
 そして周囲をきょろきょろと見回した。ちょうど出勤や通学の時間帯なので人が多いが、誰も彼も忙しそうに駅に吸い込まれていくので、端っこで立ち止まっている私達を気にしている人はいなかった。
 ちょいちょいと手招きされたので、大した距離でもないけれど一歩と半歩ぶんの距離を歩み寄る。

「僕は帰るけど」
「うん」
「次会う時は、もう沖花さんって呼ばないから」
「え?」

「新詩。って呼ぶから」

 ――と宣言するために、岸くんはわざわざ背を丸め、私の耳に口元を寄せて喋った。別に普通の声のボリュームで言ったって誰も聞いてやしないのに、囁くような声でそう予告した。
 バッと両手で岸くんが囁いた方の耳を両手で押さえて仰け反った私を見下ろし、背中を伸ばした岸くんが目を細める。

 私が何か答えるより先に、言いたいことは言ったとばかりに岸くんがくるりと踵を返した。
 そうして、満員電車に乗り込むためにせかせか足を動かして歩く人々のなかに、黒い背中が紛れていく。

 ……急にどうしたんだ、彼は。
 私を赤面させるだけさせて、これじゃまるで勝ち逃げじゃないか。

 昨夜は半分冗談で私のこと大好きじゃん、とは言ったけど、もしかして私が思っているより彼は私のことが本気で好きなのかもしれない。
 駅前の花壇のそばでしゃがみ込んで顔を覆い隠しながら、すごいな、と他人事のように感心した。
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