わたし以外の災厄など許さない 後

 反対方向に進んでいた岸くんの手を逆に私が引いて歩く形で、なんとか祖母の待つ自宅に辿り着くことが出来た。
 少し手前で足を止め、汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔を整えていると、岸くんが「無駄な努力はやめろ」と頭にチョップをしてきた。普通に痛い。

「だって、こんな顔で帰ったらおばあちゃんびっくりするもの。少しでも整えて……」
「僕みたいなやつが一緒にいる時点で充分びっくりさせるだろ。それに」
「うん?」

 首を傾げると、岸くんは一旦言葉を止め、チョップした手の甲で私の頬を薄く撫でた。

「このクソ暗いところでもわかるくらい真っ青なんだよ。ここまで来たらもう無駄な意地は捨てて心配させてやれよ。きみの家の事情は知らないけど、家族なんだろ」

 ……ぐうの音も出なくて俯いた。まさか岸くんにそんな説教を受けるとは。
 情けなさが芯まで沁みる。せっかく止まっていた涙がまた復活した私の頭上で溜め息を吐き、今度は岸くんが私の手を引いて歩き出した。
 こんなに泣くのは母が死んで以来だ。
 声もなくボロボロ泣く私の手を決して放さず、岸くんは「沖花」と書かれた表札の下にあるインターホンを押した。


 私の帰りがいつもより遅いことを心配していた祖母は、玄関のそばでずっと待っていたようだった。
 インターホンの音を聞くや否やすぐに扉を押し開け、そして背の高くて顔の怖い知らない男と手を繋いだまま泣きじゃくる私に大層びっくりしていた。
 泣きすぎてまともに話せない私に代わり、岸くんがさっき起こっていたことを要所だけ掻い摘んで説明し、私が合間に補足を入れると、祖母はまたびっくり仰天して、私と岸くんをすぐに中に上がらせた。

 岸くんは「いや、目的は達成したので僕は帰ります」と断ったけれど、祖母が引かなかったし、私が明日早くないんでしょう、ととどめを刺したので、渋々靴を脱いでくれた。

「……人の好さそうなおばあちゃんだ」

 背の低いおばあちゃんに背中を押され、半ば強制的にソファに座らされた岸くんが、とりあえずお茶でもとキッチンに引っ込んでいったおばあちゃんの背中を目で追いながらそう呟いた。

「うん。優しくて、真面目で、強いおばあちゃん」
「きみにそっくりだ」
「……それは嘘だよ」
「なんで僕が嘘吐かなきゃいけないんだよ」

 ティッシュで洟をかみながら苦笑した。それについては、私も簡単には意見を変えることが出来ないのだ。
 私がそれ以上何も言わないので、岸くんもこの話題を深追いする気はなかったのか、ふいと視線を逸らした。
 少し低めのソファで長い脚を余らせている。岸くんが私の家にいる、というのがなんだか夢のようだった。
 祖母と私だけで暮らしている、平たく言えば少し趣味が古臭い家具や雰囲気と岸くんの存在がアンバランスでマッチしていない、という意味で。岸くんはもっと近代的な内装の家に住んでいそうだ。

 祖母が人数分のお茶を持ってくると、改めて今日起こったことの説明を求められた。
 私が大まかに岸くんがしたのとほとんど同じ説明を繰り返すと、年の割に頭がはっきりしている祖母は痛ましそうに顔を歪め、「怖かったでしょ」と言った。

「まあ、それは、うん……でも岸くんが助けてくれたから。私は大丈夫だよ」

 泣きすぎて腫れてきた瞼を指先で触りつつそう言って照れ笑った。
 今更になって、隣にいる彼に誤魔化しも何もない泣き顔を見られたことが恥ずかしくなってきたのだ。
 私が口にする「大丈夫」を悪癖だと完全に判断してしまったのか、岸くんがじろりと物言いたげな視線を向けてくる。けれど完全に嘘というわけでもないので、特に訂正はせずお茶を啜った。

「それで……岸さんは、新詩のお友達? こんな遅い時間に、孫を助けて下さって、ありがとうございました」

 祖母が深々と頭を下げる傍ら、岸くんがぎょっとしたのが気配で伝わってきた。ついでに私もぎゅっと胃が痛くなった。
 躊躇なく頭を下げられたことに驚いたのは多分大前提だと思うが、主に私達を緊張させたのは、お友達? という祖母の他意のない質問だった。これについては、どう答えても私達はそこそこ墓穴を掘ることになるだろう。

 ――確かにさっき、岸くんに付き合ってくださいと言われた。しかも二度も。私が言わせた。
 そして私は頷いた。こちらも二度。

 ということは、今の私達は友人ではなく――

「付き合っています」


 頭を鈍器でぶん殴られたような衝撃があった。
 彼らしい、はっきりした声で明らかにされた私達の関係性は、かなりの強度を持った現実として私の胸に迫ってきた。


「沖花さんとお付き合いさせて頂いています。岸京一郎です。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
「……そ、そう。私。岸くんと、付き合ってる……の」

 祖母の今日一番驚いた顔から、段々視線が床へと下がっていく。
 そりゃあ驚くだろうな。私だって驚いてる。こんなことになるなんて、私だって想像していなかった。

 今日一日の、夕方から夜にかけての短い時間に、突然岸くんが特別であることを思い知って、岸くんが私を好きでいてくれたことを知って、お付き合いをしていることになって。
 ドラマや漫画じゃあるまいし、こんな展開誰も想像しようがないじゃないか。
 パッと見た感じでも、彼の人となりをある程度知っても、彼が誰かを好きになったり、一緒に歩きたいと思うことがあるなんて思えない。彼はきっとひとりで生きてゆける人だ。
 だから余計に、この関係に現実感がないんだと思う。

 彼のその強さが、いびつに温まった心の罅から細く吹き込んでくる、孤独の風を際立たせる。
 彼が私を選び、今も隣にいてくれること。それが何よりも心強く感じられるのに、同時にひとりぼっちの意味を増やして途方に暮れていた子供の頃のことを何故か今、頭の端っこのところで思い出していた。

 温かいところが増えれば、その分冷え切ったところも強く感じられるようになる。境目がはっきりする。
 私は心の底から岸くんのことを大切だと思っていながら、同時にいつ来るかもわからない彼との別れをすでに恐れている。



「断れずにこうしてここにいる僕もどうかしてると思うけどさ。普通、付き合ってるって言ったってまだ得体の知れない男を家に泊めるか?」
「おばあちゃんなりの気遣いなのかもしれない……こんなこと初めてだからわからないけど」
「図太いおばあちゃんだな。流石に感心したよ」

 ソファに枕と毛布を押し付けられた岸くんが大真面目にそう言った。くすくす笑うと、「止めなかったきみも同じようなもんだからな」と額を弾かれた。

 気が付けばあと三十分ほどで日付が変わってしまう、という時間だったので、祖母が岸くんに「泊まっていきなさい」と言ったのだ。
 確かにもう電車がなくなってくる時間帯だ。顔が怖くて、気も強くて、身体も大きい男の子とは言え、私と同い年でまだ未成年の岸くんをここから一人で帰らせるわけにもいかない。
 岸くんはタクシーで帰ると言ったのだけど、私と祖母が揃って「朝までここにいて、明るくなったら都合のいい時間に出ていけばいい」と説得したので、渋々……本当に渋々、始発が来るまでこの家で過ごすことを承諾してくれた。
 ご両親に連絡は? と訊ねると、「うちは放任主義だから」と首を振っていた。

 いつもこの時間帯はすでに就寝している祖母は、岸くんに毛布と枕を手渡したあと、私にあとは任せたよと言って早々に部屋に籠もってしまった。
 付き合っているとか口走ったから妙な気遣いをされているのか、本当のところはわからない。
 ただ、祖母が出ていって二人きりになったとき、私達はどちらともなく大きな溜め息を吐いていた。
 まるで秘密を守るために吐いた大きな嘘を張り通すことが出来た子供のように、緊張していた肩を撫でおろす。
 疲れた表情を浮かべる岸くんを横目に、彼も緊張していたんだ、とひっそり思った。

「明日、何時に起こす?」
「日の出とともに出て行くのでお構いなく」
「武士じゃないんだから。まさか徹夜するつもりなの? 寝た方がいいよ。早くないって言ったって、明日も学校あるんでしょ」
「おちおち寝てられるかよ。ここ、きみの家だぞ」

 言葉を失くした。
 ぽかん、と口を開けたまま何も答えられなくなった私を一瞥し、岸くんは口が滑ったと言わんばかりに頭をガシガシ掻く。
 私の顔にはじわじわ照れ笑いが浮かんだ。彼の言葉で笑顔を抑えきれなかったことが自分で嬉しくて笑った。
 ごほん、とわざとらしく咳ばらいをする。

 岸くんはソファの上。私は座布団を敷いた床の上。
 居住まいを直し、「岸くん、あのね」と言うと、彼は自分の太腿に肘を置き、頬杖をついて「なに」と言った。

「……その、こういうこと訊くのってすごく恥ずかしいんですけども」
「じゃあ訊かなきゃいいじゃん」
「そんなこと言わないでよ。答えるの恥ずかしいからって」
「訊くのも答えるのも恥ずかしくなるようなこと訊くのか?」

 む、と唇を尖らせた。もうすっかりいつもの岸くんだな、と肩を竦めると、岸くんはほんの僅かだけ笑った。よく見ないとわからない、ほとんど無表情に近い微笑みだった。

「……私のこと、ずっと好きだったって……本当?」

 文句を言う割には、きちんと答えようとしてくれているようだった。
 頬杖をついたまま、彼は少しの沈黙を噛み締め、やがてうん、と頷いた。

「……それって、初めて会った時から?」
「その時は全然気付いてなかったけど、今思い返したらそうかもね」
「……えへへ……えっと、じゃあ、私のどこを気に入っていただいたんですか?」

 視線がそっぽを向いている。が、教えてほしいな、と思いを込めながらじっと見つめていたら、彼は「きみ、急に性格悪いな」と白旗を上げた。
 こういうのを惚れた弱みと言うのかもしれない。

「……初めて水族館に行った日に、きみが光ってるみたいに見えるって言っただろ」
「うん」
「あの日の帰り、きみが風で飛ばされた風船を見て"キラキラして綺麗"とかなんとか言ったのを聞いて、ああ、僕はこの女を綺麗だと思ってんのか、と気付いた。だから、きみのどこを気に入ったとか、そういうことじゃないんだよ」
「……」
「どこにいても、どんな状況でも、有象無象のなかできみだけがよく見える。これじゃきみを好きだと認めざるを得なかった。――以上」

 正座をして、岸くんの言葉の一つ一つに頷いていた。
 腫れて熱を持っている瞼と同じくらい、頬が熱い気がする。両手で顔を挟みながら、「そうなんだ……」と岸くんを見上げる。

「なんだ、思ってたより普通の小さい子供みたいな理由だぁ……」
「はっ倒すぞ」
「なんで!? こんなに嬉しいのに!?」

 口の端をひくひくさせた岸くんが私の両手首を掴んで引き寄せ、「きみは?」と顔を近付けてきた。
 今までになかった距離の詰め方にドキリとしながら腹を括った。もとより岸くんが言葉を尽くしてくれたから、私もそれに報いるつもりだった。

「えーと……背が高いところが好きです」
「きみだって理由が小学生じゃん、却下」
「却下とかあるのぉ……?」

 嘘うそ、今のはほんの冗談です。
 嘘は言っていないけど、岸くんが本気で不貞腐れそうな雰囲気を出し始めたので、手を掴まれたまま膝に視線を落とした。

「……単純に、岸くんといるのが楽しいから。電話が掛かってきたら嬉しかったし、ご飯の約束をするたびに当日まで楽しみでワクワクした。別れる時はいつもちょっぴり寂しかったんだよ。岸くん、ほんとにあっさり去っていくから……」

 ――あとは、私のことを一度も"おまえ"って呼ばなかったところ。最初は本当にひどかったけど、歩くスピードを私に合わせようとしてくれてるところ。手が大きいところ。偏食だけど麺になると掃除機みたいに沢山食べちゃうところ。私の話を全身で聞いてくれるところ。
 それとね、今日みたいに、助けてくれたこと……。

「……そう言えば、どうしてあそこにいたの? 先に電車乗って帰ったんだと思ったのに」

 訊ねると、岸くんは片眉を上げて「わかんない?」と首を傾げた。
 こっちは本気で岸くんが先に帰って電車の中で落ち込んでいたので、突然岸くんが現れた時はすごく驚いたのに、岸くんはちょっと考えればわかるだろ、と言わんばかりの表情で私の答えを急かす。

「わからない。どうして?」
「きみがあんまりにもひどい顔してるんで、帰るふりして同じ電車乗ったの」
「え」
「わかる? 同じ電車の、別の車両にいたんだよ、僕」

 いよいよ何も言えなくなってしまった。
 きょとんとして微動だにしない私に何を勘違いしたのか、彼は「自分でもどうかと思ったよ、そんな顔するな」と苦い表情を浮かべた。ううん、と力なく首を振る。

「違う。……岸くん、私のこと大好きじゃん」
「……腹が立つからどうにか否定したいけど、まあ、そういうことになるか……」

 真剣に悔しがる様子を見ているうちに笑みが戻ってきた。
 私の手首を握ったままの岸くんの手に頬を寄せ、「ありがとう」と目を伏せる。

 彼が自分のことを奇人変人と言ったこと。それ自体はきっと間違いではないけど、やっぱり私はあの先輩よりも岸くんがいいと思えた。
 内緒で私のあとをつけていたわけだから、やっていることはもしかしたら先輩と大差ないかもしれない。
 けれど捻くれた間接的な言い方で誤魔化しながらも、結局は私のために自分の時間を犠牲にして、用もない方面の電車に乗り、駅で降り、私のあとをつけていたんだと動機まで知ってしまったら、その時点で先輩と岸くんはまったく別のものになった。

 私は彼に最寄駅の名前を伝えていなかったので、別の車両に乗った彼は、駅に着くたび私が降りるかどうかを確かめていたんだろう。
 どんな気持ちで、彼は……。

 それを愛のなせる業ではないと高を括れるほど、私の心は死んではいない。

「……岸くん、守ってくれて、ありがとうね」
「本当に。もう少し危機感持ってくれよ。きみが変人に好かれやすいタチなのは、僕が一番実感してるから」

 私の手首を解放し、泣き腫らした顔でニコニコ笑う私の頭を叩くように軽く撫で、岸くんは言った。

「さあ、もう寝なさい。この家の誰よりきみがしっかり眠るべきだ。よく寝て、頭と身体と心を休めなさい」
「お医者さんみたいだね」
「まだ医師免許ないけどね」
「あ、そっか。まだないんだ」

 岸くんの手が、最後に私の頭の形をなぞって離れていく。
 それを見送ってから床に手をつきながら立ち上がり、リビングの時計に視線をやった。もうすぐ一時になる。彼の言う通り、早く寝るべきだ。私も、彼も。

「うん、寝ます。明日、寝坊しなければ私もおばあちゃんも六時には起きるから、時間に余裕があるなら朝ごはん食べていって」
「断っても聞かないだろうなあ。きみとあのおばあちゃんなら」
「そうね。私のこと好きだって言うなら、そこは諦めてね」

「じゃあ、おやすみなさい。岸くん」
「……おやすみ、沖花さん」

 静かな微笑みを残し、リビングを出た。電気のスイッチの位置などは一通り説明してある。
 岸くんの前ではそうでもなかったけど、暗くしんとした廊下に出た途端疲れがどっと出てきた。フローリングの床から直に伝わってくる冷たさが素足にじんと染みてくる。

 大変疲れてしまったから、お風呂は明日の朝入ろう。
 二階にある自分の部屋に辿り着くと、真っ暗な部屋のベッドに倒れ込んだ。
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