わたし以外の災厄など許さない 前

 岸くんとはあれからふた月に一回程度会うようになった。
 忙しさで言えば圧倒的に医学生の彼に軍配が上がるので、基本的に彼からスケジュールの空きを考慮したお誘いが電話で来、私がそれに答える、という形に落ち着いて。


 その日は彼が夕方から空いていると言うので、いつも食事などをする範囲から少し遠出をした場所でご飯を食べようということになった。
 しかも、私は午後から授業はフリーになるので約束の時間まで同期と図書館で課題をやると言ったら、「じゃあ大学の前まで迎えにいくから」と淡々と宣言されてしまった。
 別にそんな切羽詰まった締め切りでもないから大丈夫、とか気を遣わないで、とか色々言ったのだけど、岸くんが「僕みたいな唐変木がきみの生活圏に現れても気にしない、って寛大なお言葉を頂ければの話ですけどね」とわざとらしく言うので、こちらが折れるしかなかったのだ。

 ちなみに彼は絶対自分のことを唐変木だなんて思っていない。たぶん周りの人に言われたことをそのまま使っているんだろう。
 半年ほど彼との交流を続けてきたので、それくらいのことはわかるようになっていた。

「ほら、急げいそげ! 岸くん、門の前で待ってろって言ってたんでしょ? 先に着いてたら可哀想だよ。他所の大学の敷地で一人って結構心細いからね〜」
「あの人が心細さを感じるような繊細な心持ってるわけないでしょ……!」

 隣から急かしてくる同期を振り切るように、歩く速度を競歩から小走りにまで上げる。
 やっと図書館の扉を押し開けて廊下に出たとき、見計らっていたかのように上着のポケットの中で携帯が鳴った。このタイミングで掛けてくる相手は一人しか思い浮かばなかったので、発信者の名前も見ずに携帯を開き通話ボタンを押した。

「もしもし!」
『もしもし。出てくるお宅の学生にジロジロ見られて心細い僕ですぅ』
「嘘吐け! でもごめんね急いでます!」
『転ぶなよ』

 「やっさし〜」と隣でペースを上げた同期がニヤニヤするので、空いている手をしっしと振った。
 口ぶりからしてすでに門の前に彼はいるんだろう。待たせてしまっているのは事実なので、出来る限りせかせか足を動かして校舎を飛び出した。
 それから少し走ると、ようやく門の近くで携帯を耳に当てこちらに背を向けている、見慣れた黒いコートの後ろ姿が見えてきた。
 冬用との見分けがいまいちつかないが、あれで一応春用らしい。触ってみると確かに冬用よりは生地が薄かったので。

 耳に当てていた携帯を外し、聞こえるように「岸くん!」と呼びかける。
 彼はいつもの仏頂面で振り返った。

「今日ちょっと気温低いし、寒かったでしょう、ごめんね」

 バタバタしながらようやく彼のところに辿り着いた。膝に手をついて呼吸を整えていると、頭上から「まあね」と容赦ない言葉が降ってきた。
 ここで下手に否定して誤魔化さないあたりが彼らしいというか、何と言うか。

 数秒遅れて同期もやってくる。彼女は私が岸くんに初めて電話を掛けた瞬間から、二度目に彼から電話を受けた瞬間も立ち合い、もはや岸くんにとっても他校の知人と言っても過言じゃない関係になっていた。
 私に合わせて走っていたので、肩で息をしながらも「おっす岸くん」と手を挙げ、岸くんも「うん」と頷いている。

「じゃ、あとは二人でご飯楽しんできなさい。私はこのへんで……あっ、新詩、帰り道気をつけなよ」
「あ、うん……」
「こないだのこともあったから、流石に待ち伏せとかはないと思うけど、あんた帰り道途中まで割れてんだからね」

 同期が余計なことを口走ったせいで、頭上で岸くんが「待ち伏せ」とオウム返ししてしまった。彼には関係のないことだし、聞いていて楽しい話でもないので内緒にしようと思っていたのに、こりゃわざとだな。
 苦笑いでなんとかこの場を切り抜けられないか、と隣を窺ったけれど、彼はすでに同期の言葉の説明を待つ体勢だ。寒いって言ったのに。

「簡単に言うと、同じ学部の一個上のやつがね、新詩に付き纏ってしつこいのよ。ほら、この子人が好いでしょ。ヘンな男に好かれやすいタチなのか、知り合ってからこういうの結構多くて」
「ちょっと、やめてよそんな話……」
「何を言うか。勝手に携帯覗かれてたり家までつけられたり、挙句の果てには構内で先回りの待ち伏せまでされてさ。普通の女子大生ってこんなこと二年間で経験しないでしょ。岸くん、もしあんまり帰り時間遅くなるようだったら、近くのコンビニまででもいいから送ってやって」

 別にそんな大事でもないのに、同期があまりに真剣な面持ちで言いながら私の腕を掴み、岸くんに押し付けるので、岸くんは何やら思案顔で「ふーん……」と首を捻った。

「いや、いいからね。いつも通り駅で別れよ。岸くんにはなんも関係ない話だし」
「……ま、それもそうだね」
「ちょっと、マジで頼むよ岸クーン!?」

 本当のことだ。ただの友人である岸くんに一体何の責任があるというのか。

 同期はまだ納得いっていない表情だったが、これ以上岸くんに余計なことを喋られる前に彼の背中をぐいぐい押して退散した。
 今日はどこに麺を食べに行くの、と笑えば、いつも通りの私達だ。


* * *


 岸くんがリサーチしたというラーメンのお店で美味しくご飯を食べた後、少しだけ本屋さんに寄り、いつも通り帰路についた。
 電車の乗り換えやなんやかんやあって、大体どの方面にどこまで遠出をしようとも、結局私達はいつもの駅まで戻り、そこで別れる。

 陽がどっぷり沈み、街灯の明かりの下をふたりで歩く。
 先に口を開いたのは岸くんの方だった。

「……門の前でしてた話、あれマジの話なの」
「えー? ……蒸し返す?」
「あんなにしっかり概要説明されたら気にはなるよ」

 隣を見上げても逃がしてくれる気配はない。
 がっくり肩を落として見せると、「観念しなさい」と背中を叩かれた。

「……一個上の先輩がね、レポート見てくれるって言うから、一緒にいる時間が最近まで少し多かったのね。でも見てもらってたのは私だけじゃなくて、昼間の子とか、他にも数人いて」
「うん」
「で、無事そのレポートは提出終わって、ありがとうございました、ってことでちょっとお礼の品も渡したわけですよ。市販のお菓子を」

 それから、大した理由もないのに先輩と遭遇することが増えた。
 例えば学食で。図書館で。休憩所で。果てには最寄り駅と家の中間地点にあるカフェで。
 レポートお疲れ様でした会と称した食事会の帰り道に、その先輩の車で二年女子は全員が家の近くまで送ってもらった。多分そのときに生活圏がバレたんだろう、と同期は言っていた。
 流石にこれはおかしいと、同期の女子メンバーが先輩に対してそれとなく「やめてください」と伝えてくれて、その時先輩はそんなつもりはなかったと必死に弁明していたらしい。

「でも別にそれだけだし、昼間言ってた携帯覗かれたりとかは、また別件で解決済みだから……。実害はないし、お世話になったのも事実だから、あんまり強く言えなくてね」
「ふーん。大変だな、上下関係」
「岸くんはそういうのとは無縁そうでいいよねぇ」
「褒めても何も出ないよ」

 訊いてきた割に岸くんの返答はしらーっとしていたので、ちょっとだけ安心した。
 最近はそういうこともあって大学構内にいる時は特に神経質になってしまっていた自覚があるから、久し振りに岸くんと会って話してほっとした。

 残りの距離を他愛もない話で潰していったら、思っていたよりすぐに駅まで着いてしまった。
 もしかしたら岸くんが会話のレベルを下げて合わせてくれているだけかもしれないけど、今の私達は意外とどうでもいい話でそこそこ会話を続けられる程度には親しくなっていた。
 だから時が経つのがとんでもなく早く感じてしまうし、別れるのが少しだけ惜しい。
 夕方からだと、解散までが早いなぁ。

 夜ということもあって流石に駅構内まで入り、改札を通る前に足を止めた。
 岸くんは私とは逆方向の電車に乗る。彼の電車の方が先にやってくる。だからもう、行かなければいけない。

「……きみの最寄りくらいまでなら、そう時間は掛からないし」
「……うん?」
「そこまでなら、途中までボディーガードしてもいいけど。明日、別に早くないし」

 俯いていた顔を上げた。彼は背が高いので、私はいつも見上げる形になる。
 仏頂面の岸くんは、それ以上は何も言わずに口を閉ざしていた。私の答えを待っている。

 そうだ。岸くんは顔はこんなだし性格もいいとは言えないけど、悪いひとじゃない。そういうところをいいと思ったから、私は彼と友達になった。
 でも、だからこそ、こんな関係のないことで迷惑はかけたくない。

「ううん、だいじょぶ」

 首を振って笑った。でもありがとね、と言うと、岸くんは目を眇め「そう」と溜め息と共に呟いた。彼の乗る電車が来るまであと三分だった。
 いつも通りにおやすみを言い、岸くんの後ろ姿が改札を通って見えなくなるまで見送り、改札付近のベンチに腰を下ろした。
 私の電車は、あと十分で来る。



 電車に乗ってからは、まるで瞼の内側に薄い紗がかかってしまったように景色が灰色がかって見えた。
 岸くんと二時間もしないうちに別れたのが少し寂しいのか。それともひとりぼっちの帰路が怖いのか。――いいや、ひとりぼっちの恐怖はこんなもんじゃない。そう脳裡に棲むもう一人の冷静な私が首を振る。

 思えばここ最近はずっと例の先輩のおかげで気を張っていた。それが久し振りに岸くんに会って緊張の糸が切れたから、全身から疲れが噴き出しているんだろう。
 偉大だなぁ、彼は。まだ医師免許持ってないのに、私の不安を一時的にでも治してくれた。


 胸の底にあたたかい光の名残がある。夜だって言うのに、それはぴかぴか輝いている。
 いつの間にやら、彼は私の特別だった。
 血の繋がった家族こそが絶対だと信じ切り、彼女達と目に見える同質さがないことに絶望していた私は、いつの間にか似ても似つかない――当然血の繋がりもない赤の他人を特別だと感じるほどになったんだ。


 気付くと目の奥が熱くなっていた。
 それが涙であると頭で気付くより早く、両手が反射的に目元を強く拭った。アイメイクが乱れるのもお構いなしだ。だってもう、あとは家に帰るだけだから。
 三駅分の時間を電車に揺られながら、私は必死に真っ暗な窓の外に視線を向け、家の自分の部屋に着くまでこの涙は一滴たりとも流すものかと意固地に決意した。

 次の駅を目指して動き出した電車を見送り、私は最寄り駅を出た。
 幸い、祖母の待つ家まではしっかり街灯が設置されているし、途中にスーパーやコンビニもある。たぶん他所の住宅街より安全で恵まれている。

 虫の声に耳を澄ませ、時折帰宅途中のサラリーマンなんかとすれ違いながら黙々と歩いていると、右手側に見えてきたコンビニから見慣れた人が出てきた。
 ――例の先輩だった。理性が追いつくより先に全身の皮膚という皮膚が粟立った。
 私が電信柱のそばで立ち尽くしていると、まるで今偶然に気付きました、とでも言わんばかりのわざとらしい仕草で先輩が「沖花!」と手を振る。

 偶然なものか。先輩の住んでいるアパートがまだ四駅は先で、しかも別方向であることは同期が教えてくれた。

「せ……先輩、どうして、ここに……」
「いやぁ、このへんに用事があってさ。帰りがてらコンビニで晩飯買って帰ろうと思ったら、偶然だなぁ」

 そういやお前の家ってこの辺だったか、と白々しい笑い声。無意識のうちに肩に掛けた鞄の紐をぎゅっと両手で握りしめていた。
 昼間、同期や岸くんの手前ああは言ったが、正直言って怖くないわけがない。ただ、私の恐怖を彼らには知られたくないという私の意地だった。ええかっこしい。見栄っ張り。何とでも言えばいい。

 でも、だって、私がひとりで耐えなければ。
 頼れる人なんていないのだ。みんな関係ないし。
 家にはおばあちゃんが一人で私の帰りを待っている。心配なんて掛けられない。
 誰でもない、私がなんとかしなければ。

 聞いてもいないことをぺらぺら喋り出す先輩に、適当に相槌を打っていたら、いつの間にか「家どこ? 送るよ」とか言い出して、強張った私の肩を掴んだ。

「いや、大丈夫です。すぐそこだし……」
「すぐそこなら余計送るって! 最近物騒だしさ。可愛がってる後輩になんかあったらーって俺も心配なのよ」
「あ、あはは……まさか、私に限ってそんなのないですよ、無縁って言うか……」

 視界がちかちかしてくる。笑顔を作っているはずの顔の感覚があまりない。
 なのに耳だけはやけにはっきり周囲の音を拾い上げるので、聞きたくもない先輩の「沖花が心配なんだって」とか「つーかお前って可愛いしさ……」とか、そういう言葉を脳が理解するたび胃が痛くなった。ずっと掴まれている肩も痛い。
 身体を庇うように胸の前で鞄を抱き締めながら、ああ、困ったなぁとけっこう淡々と思っていた、と思う。
 こんなことになるなら、岸くんについてきてもらえばよかった、と今更な後悔に唇を噛んだ。


 その時――くっついていた先輩が、肩を掴む手ごとべりっと私から剥がされる。


 結構痛かった肩を掴む手が離れ、代わりに大きな手が優しく腕のあたりを支えてくれた。掴むんじゃなく、私が一人で立っていられるよう助ける程度の力で。

「――あんまり人のあれそれに首突っ込みたくないんだけどさあ」

 先輩の気配が怯む。
 けどそれより、……そんなことよりも、耳元で聞こえた低い声に胸がぎゅっと痛んだ。
 生理的な涙が零れそうになるのをなんとか堪え、よろよろと顔を上げる。

 駅で別れたはずの岸くんが、私と先輩の間に割り込んでくれていた。

「き、きしく……」
「大丈夫とか大見得切るならもっとまともな顔しろよ、馬鹿だなぁ」

 こちらを見下ろす眼差しは相変わらず。街灯が多いせいで呆れたように下がる眉までよく見える。
 突然現れた岸くんに、先輩は怯みながらも「だ、誰だよお前」と訝しがる。岸くんは他所の学生だから、先輩が知る由もない。私も、岸くんの話は昼間一緒だった同期の彼女以外にはしていないし。

 背が高く、顔も怖い岸くんを前にした先輩の声は隣の通りを走る車の音にも負けてしまいそうなくらいか弱く、案の定岸くんは「はあ?」と結構ガラの悪い態度で対応しながら、片手間に私を背後に隠した。
 庇ってくれている。私は今、彼に守られている。
 そのことが震えるほど嬉しかった。

「誰って、彼女の友人ですけど。そういうあんたはどちらさん?」
「お、俺は……同じ学部の三年だよ」
「はあ、そうですか。それで? こんな時間のこんな場所で彼女にどんな用件が?」

「彼女、見ての通り参ってるんで、代わりに僕が聞きますよ」言いながら瞳孔が開いている。普段の三割増しで怖い顔。
 何も知らない人が通りがかったら、きっと岸くんの顔を見て一目散に逃げだすだろうな。

「ただ……夜道に女ひとりじゃ危ないから送っていこうかって話をしてただけだ」
「ならもう用はありませんね。沖花さんは僕が送って行きますんで。先輩はどうぞお帰りください。もういい時間ですよ」

 岸くんがあまりに淡々と、そして堂々としているものだから、誰がどう見ても暖簾に腕押し状態だった。
 それで先輩も頭にきたのか、段々と声を荒げ、ついには「邪魔すんなよ、お前には関係ねぇだろ!」と夜とは言え住宅街のそばで怒鳴り声を上げた。
 反射的に肩が震える。びくり、とこれ以上ないくらい強張った私の腕を、岸くんの手が小さく叩いた。落ち着け、って言うみたいに。

「邪魔? 関係ない? 僕は友人、あんたは先輩。家族や恋人じゃあるまいし、僕達は平等に他人でしょ。ほら、僕に関係ないならあんたにも関係ないじゃないですか」

 他人でしょ、という岸くんの言葉で、血走った先輩の目がぎょろりとこちらを向いた。昼間に大学で会う先輩とはまったく違う恐ろしい形相に口から悲鳴のような喘鳴が洩れる。
 岸くんの背後に隠れる私に向かって一歩踏み出し、「なら沖花が決めればいい、俺とお前どっちがいいのか!」と言った。
 なんでそうなるかね、と心底嫌そうに呟いた岸くんに、先輩が笑い出す。完全におかしい人の笑い方だった。目が濁っていて、血走って、笑っているのは口だけだ。

「沖花、俺だよな? 友人ってのも実際嘘じゃないのか? お前とそいつ、全然つり合ってないないしさ」
「……」
「どっちも他人ってんなら俺を選ぶだろ、普通! あんだけ親切にしてやったんだから!」

 先輩の声が夜の闇に吸い込まれてゆく。静けさが戻ってきた途端、頭上で街灯が明滅した。

 バチバチッという音に混じって、ぶちっと何かが切れるような音が聞こえた気がした。
 あれ? と思った次の瞬間には盛大な舌打ちの音。

 先輩の顔を見ないよう俯いていた顔をそろりと上げる。
 狂った形相の先輩と対面している岸くんの表情は、こちらからではわからなかった。
 でも、岸くんの堪忍袋の緒が切れたんだと直感した。

「――あのさぁ」

 地を這う唸りのような怒声。
 彼の全身から発せられる怒りが、鋭い棘のように粒立って先輩に向かっている。

「大前提、僕もあんたも彼女につり合ってるわけないだろ。こんな状況で女怖がらせてる時点でどっちも最悪なんだよなあ。だって言うのに何、この期に及んであんた、俺を選ぶだろって? 寝言は寝て言えよ」

 彼と出会ってから初めて聞いたレベルの低い声に驚いているうちに、私を支えていた岸くんの手がパッと離れる。あっとその手に追い縋ろうとして、すり抜けてしまう。
 私のもとを離れたその大きな手は、躊躇なく先輩の胸倉を掴み上げ、怖い顔を更に怖くして凄んだ。よく見たら蟀谷に血管が浮いている。

「だがもし沖花さんが選ぶんだとしたら、絶対にそれは僕だ。あんたなんかじゃない。僕は彼女を泣かせない。その点ではあんたに勝ってる。大体ね――」

 吐息が掛かるほど距離を詰めている。胸倉を掴み上げられている先輩は爪先が浮いてしまっていた。

「――彼女に寄りつく奇人変人はだけで充分なんだよ。他の害虫おとこなんざ許すわけねえだろ」

 言い返す言葉がなく、歯を食いしばってぶるぶる震えている先輩を冷え切った双眸で見下ろし、「あんたのはな、ストーカーって言うんだよ。……あ? まだ何か異論がおありで?」と呟き、岸くんは唐突にこちらを振り返った。
 沖花さん、と一転静かな声で呼ばれた。
 なに、と答えた声は涙に負けている。


「僕と付き合って下さい」


 ……あ。
 駄目だ。我慢出来ない。
 眦に溜まっていた涙が、溢れてしまう。

「ずっときみのこと好きだった。本当は言うつもりなかったけど、これから先もこんな奴らに泣かされるくらいなら、僕を隣に置いてくれ」

「たぶん僕は、今までとこれからきみの前に現れるヤバい男達の中でも比較的マシだと思う」と大真面目に言った岸くんがなんだかおかしくて、恐怖と不安に強張った身体のまま、途方に暮れ笑った。
 目を細めた拍子に盛り上がった涙が一つ、また一つと頬を流れ、ぽろぽろ胸元に落ちていく。そのうち足元に黒い水玉模様が細かく生まれた。

 なんだそれ。……なんだ、それ。
 そういうのってアリなの?

 ぐしゃぐしゃになった顔を両手で覆いながら何度も頷くと、岸くんはつかの間静かだった顔を再び冷徹なものに戻し、先輩に「これで文句はないな? この状況なら圧倒的にあんたが他人だぜ」と言って、胸倉を掴んでいた手を放した。
 つかつかこちらに戻ってくると、私が落とした鞄を拾い上げ、私の肩をそっと抱き、街灯の照らす夜の道をすたすた歩きだした。

 先輩とすれ違う最中、「もう二度と彼女の前に現れるなよ」と低く告げることを忘れずに。

 歩いている間、どこに向かってるの、とか私の家こっちじゃない、とか色々言いたいことはあった。
 あったけれど、どうしようもない暗さと嬉しさがこれ以上ないほど入り乱れた心はひどく重く、私は引き攣った嗚咽を洩らしながらなんとか岸くんの歩みに合わせるだけで精一杯だった。

 怖かった。見知った先輩がああも豹変してしまったこと、その原因が自分であったことが恐ろしかった。
 そして、岸くんが守ってくれたことが嬉しかった。私にとっての特別が彼になったように、彼にとっても私が特別になっていたことに、痛む胸がいびつに温まった気がした。
 こんな状況でこんな大事な告白をしてくるなんて、岸くんはやっぱりヘンだ。
 自分のことを奇人変人の枠の中にいる方だと自覚しているのもヘンだったし、告白の内容も何だか妙に後ろ向きでやっぱりヘンだった。

 でも、そのヘンな告白がもう一度だけ聞きたくて。

「……きしくん」

 涙声で彼を呼ぶと、ぴたりと隣の歩みが止まった。

「なに。言っておくけど文句があるのはきみだけじゃないよ。きみを送り届けたら、僕の話も聞けよ」
「うん、それはあとで、いくらでも聞くんだけどさ……」

 ひっく、ひっくとしゃくりあげながら囁くと、岸くんはわざわざ膝を折って屈んでくれた。変な泣き方をしたせいで喉が痛んでいたから、あまり大きな声を出さなくていいのはありがたい。
 相変わらず涙は止まらないままだ。こんなひどい顔見せたら「やっぱりナシで」とか言われないかな。

「…………さっきの、もう一回、ちゃんと言ってほしい……」

 言葉少なにそう囁くと、頭のいい岸くんはぎゅっと眉を顰めた。

「さっきのって……えー……二度も言わせる?」
「うん。……聞きたい」

 頷いた私を屈んだ状態で見上げ、「実は結構もう平気だろ」とか「本気かよ」とかぶちぶち文句を言っていたけれど、しばらくして、岸くんは頭をガシガシと掻き、観念したように息を吐いた。

 相変わらずの目つきの悪さで、私を真っ直ぐ見据える。

「――沖花さん、好きです。僕と付き合って下さい」

 断る理由がない。だって私のなかではとっくに、岸くんは特別だ。
 力いっぱい頷くと、私の冷や汗で額に張り付いていた前髪を指で掻き分け、大きな両手で頬を包み、岸くんは疲れたように溜め息を吐いたのだった。
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