「美しい」が辞書にいない 後

「イワシって、自分より大きな魚とこういう風に一緒に入れられて、食べられちゃったりしないんですかね。仲間が食べられたりしてたら、怖くてこんな風に泳ぐどころじゃないと思うけど……」
「食べられてると思うよ」
「え!? そうなの!?」

 思わず隣を見上げると、巨大水槽越しの青白い光で照らされた岸さんの顔がこちらを向いた。細い目を更に細めてこちらを見下ろし、「そりゃあそうでしょ」と顎を引く。
 大声を出してしまったので口を押さえ小さく頷くと、岸さんは再び正面の水槽に顔を戻した。

「集まって泳ぐことで自分が狙われる確率を下げてるんだ。隣で泳いでいた同種が食われたからと言って恐怖するようなこともないんじゃないか」
「そ、そうなんだ……」
「見た感じ、イワシみたいな小さい魚をバクバク食うような魚は入れられてないっぽいし。流石にそこらへんは飼育員が考えて管理してるでしょ」
「……岸さん、お魚詳しいんですか?」
「別に。フツー」

 フツーか……。

 もう一度、今度はこっそり隣の岸さんを見上げる。楽しそうには、正直見えない。
 どうやらデフォルトが顰めっ面であるらしいというのはわかってきたけど、だからと言ってじゃあこのパターンの顰めっ面がどういう感情によるものなのか、ということまで判別出来るかと訊かれたら答えはノーだ。絶対無理だ。

 彼がわざわざ水族館のチケットを用意していたのには驚かされた。
 入口で手渡された入場券を握り締め、順路の案内に従って、今のように少し魚についての話をしながら巨大水槽の前までやってきた。
 絶え間なく群れて泳ぎ続ける魚群を並んで見上げる私達の背後を、子供連れの家族や、カップルなどが笑い行き交う。
 こうして慣れるまでは一体どんな気持ちで隣の人と水族館を回ればいいのだろう、と途方に暮れもしたが、今ではうきうきと幾度目かの水族館を楽しめている。
 しかも予想していなかった解説が適宜挟まるので、普通に勉強にもなる。頭のいい人は幅広く知識を持っているものなんだな、と感心した。大した理由もなく、彼のことは嫌いじゃないとさえ思えた。

 そんなゆるく穏やかな気持ちのまま、一通り館内を見て回り、出口近くのお土産屋さんで足を止めた。
 ふわふわしたイルカやメンダコのぬいぐるみを触っていると、岸さんが「この後何食べたい?」と言った。店内の時計を探すと、正午はすでに過ぎ、もうすぐ十三時になろうかというところだった。
 緊張でお腹がいっぱいになって気付かなかった。

「私、好き嫌いはほとんどないので、何でもおいしいです」

 でもこういうこと言うと困らせるかな、と思いながら岸さんの方を窺うと、彼は大して気にする様子もなく、じゃあ蕎麦食いに行こう、とすぐに決めてくれた。
 どうやら目指す店も彼の頭の中には既にあるようで、ぬいぐるみを持ったままでいる私をちらりと見る。はい、買いません。冷やかしてるだけです。

 そういう感じで水族館を出て、再び秋風の吹き荒ぶ外を十分ほど歩いた。またもや岸さんの背中を見失わないよう、目を細めながら一生懸命歩いた。
 こうなることを予見して、以前より歩きやすい靴をチョイスした昨日の自分を褒め称えながら。
 駅の近くまで戻り、岸さんは店の前で急に立ち止まって「着いた」と独り言のように教えてくれたので、今度は彼の背中に鼻先をぶつけずに済んだ。

「ああ、このお店知ってる。なんか道に覚えがあると思った」
「へえ。きみみたいな女子大生もこういう店にくるの」
「たまにですけどね。基本外食はあまりしないので」

 すりガラスの引き戸を開き、案内を受けてテーブル席に着いた。
 彼はメニューを取り出すと、自分は見ずに私に向かって差し出し「何にする」と言った。様子を見るに相当常連なんだろう。メニューなんか見ずとも迷わないし、頼むものも決まっているという風な雰囲気だった。

 私はとにかく温かいものが食べたかったので、手書きのイラスト付きメニューを流し見てから「鴨南蛮そばにします」と答えた。岸さんは一つ頷くと店員さんを呼び止め、鴨南蛮を二つと天ぷらの盛り合わせを注文した。
 注文を終え、どちらともなく上着を脱ぐ。
 岸さんがグレーのコートを脱ぐと、中から紺色のセーターが見えて、急に彼が同い年の大学二年生であることを思い出してしまった。
 何故だか連鎖して同期の言葉がちらちら蘇り、脳裡を過っていく。一目惚れだとか、ご縁だとか、そういうことが。

 意を決して「岸さん」と切り出す。

「うん?」
「あの、答えにくかったり、言いたくなければ結構なんですけど。……どうして今日、私を水族館に連れていってくれたんですか」

 訊ねると、岸さんは顎を擦り視線を逸らす。けれどすぐに私を真正面に見据え、「それね」と語り出した。

「僕も正直測りかねてる。自分のことなんでこんなこときみに言ってもしょうがないんだけど。きみにとっちゃいい迷惑だろうし、今日誘ったのは僕だから、説明するのが筋だよな」
「……岸さんみたいな頭のいい人でも、自分のことがわからないなんてことあるんですね」
「面倒臭いから岸でいいよ。さん付けされるような偉い人間じゃないし。同い年だろ、僕ら」
「そ、そうです……そうだよね。じゃあ、岸くん、と」
「うん」

 岸さんであるところの岸くんは、きっかけは間違いなくあの飲み会だったとはっきり言った。

 ずっと疲れてるせいで目に異常でも出てんのかと思ってたけど、間違いなくきみはちょっとヘンだった。これ、あの夜帰る時にも言った気がするけど。
 あの夜は同期のやつに引き摺られて店に入ったから、本当は何か途中のタイミングで帰ろうと最初から思ってた。でも、他の学生とやって来たきみを見た時、正直度肝を抜かれて。
 他の集まってる学生なんかどいつもこいつも街中ですれ違う知らない奴らみたいに顔もぼんやりして見えるのに、きみだけ、まるで全身が発光してるみたいに見えた。頭から爪先まで輪郭はくっきり見えたし、跳ねてる髪の毛先までね。
 何も大袈裟なんかじゃなく、きみの姿は僕の目にはヘンに映った。
 あの夜も、今も。

「――だからもう一回会って確かめようと思った。僕にはまだきみが他とは違うように見えるのか。日中でも同じなのか。きみがどういう人なのかを」
「……へ、へえ……」

 淡々と、診断を読み上げる医者のように岸さんは今日の理由を語ってくれたので、私はその唐突な言葉数の多さに圧倒されてしまい、相槌を打つことしか出来なかった。
 語られたことを理解し切れたかどうかは別問題として、やたらこちらをじっと凝視していた理由は少し納得出来た。私という目の前の異分子をつぶさに観察していた、という受け取り方で間違いないはずだ。

「……それで、今日の私はどう見えましたか?」

 岸くんは肩を竦める。
 彼が答えようと口を薄く開いたタイミングで、私達の前の前に鴨南蛮そばがどんぶりで差し込まれた。おまけに天ぷらの盛り合わせも。これは岸くんが食べるぶんだ。
 目の前に並んだそばと天ぷらを見回し、そのかなりのボリュームに気圧されてしまう。
 ここの天ぷらが美味しいことは私も知っているけど、どれもかなりの大きさが運ばれてきてしまうので食べきれず、普段は一緒に来る……それも一つのものをシェアしてくれる気の置けない人がいなければ頼まない。

「やっぱりちょっと光ってる……というか、浮き上がって見えた」
「そっか」
「……なんでちょっと笑ってんの?」

 そう指摘され、私はもう堪えきれなくて口元を手で隠して笑った。
 ボルドーのニットの肩が揺れ、岸くんはムッとした顔で傍らの箸立てから割り箸を抜き取り、二つに割る。

「ううん、うん。岸くん、細いのによく食べるんだなって思って」
「……面白い?」
「どうだろう。私はちょっとツボに入っちゃって……ごめんなさい、嫌だった?」

 私が首を傾げた途端、岸くんは急に不機嫌そうな顔を真っさらにして、きょとんと細い目を見開いた。
 相変わらず口はへの字のままだったけど、蕎麦の立てる湯気の向こう側に見える岸くんの表情は、快不快の指針の外側にあるような気がする、曖昧なものとして私の両目に映った。

 岸くんは、先ほどまで自分のことを分析した結果を滔々と語っていた声とは比べ物にならないほどかそけき声で、一言「嫌ではない」と答えた。

「そう、ならよかった」
「うん」

 私がひとしきり笑うと、やがてどちらともなく手を合わせ、温かい蕎麦を啜りはじめた。暖房の入った温かい室内の温もりが移った割り箸を割り、色の濃い麺を啜り、よく焼かれトロトロになったネギと鴨肉を合間に挟む。
 すとん、と苦も楽もない沈黙が私達の間に降りてきた。そこからはもう、矢のような速さだ。
 私がもたもた蕎麦を啜っている間に岸くんはどんどん食べ進め、山のように見え私を笑わせた天ぷらの盛り合わせをすぐに平らげてしまった。
 私が箸で麺を掬うのを眺め、とっくに食べ終わった岸くんが、「別に急いでないよ」と伸びをしながら言うので、ふんふん頷いてどんぶりに視線を落とす。

「口の大きさが違うんだよな。そんなにちっこい口してたら、何食べるにも大変そうだ」
「むぐ、……んー、この口以外経験したことがないからなぁ」
「パンとか、大きなものにかぶりついたら口の端っこが裂けそう」
「裂けたら、岸くんが縫ってくれる? お医者さんになるんでしょ」

 フッと岸くんが口の端を歪める。心が明るくなったり、柔らかくなるような笑いではなかったけど、何かが愉快だったらしい。

「いーけど、それなら僕が医師免許取るまで裂けないように頑張って」
「うーん……あと何年?」
「あと四年」
「わあ、四年もあるのかぁ」
「六年制だからな」

 最後にはそんな他愛もない話をしながら、ついに蕎麦を完食することが出来た。
 お会計に私は千五百円を出し、岸くんがまとめて払ってくれることになったので、レジの前でお財布を開く岸くんのツンツン気味の後頭部を眺める。
 ――意外と、医学生と普通の女子大生でも、普通にお喋りが出来るもんなんだなぁ。


 お店を出ると、水族館に行くという大きな目的を達成した岸くんに「帰る?」と訊ねられ、他に寄りたい店もないしな、ということで頷いた。
 二人で駅まで戻り、相変わらずちょっとぜーはーしながらあの夜と同じ場所で岸くんが足を止めたので私も立ち止まる。
 岸くんは振り返ると、私ではなく私のすこし上に視線を遣り、おお、と口を開けた。その視線を辿ると、薄ぼんやりした空に色とりどりの風船が舞っているところだった。

 私達が足を止めた場所とオブジェを挟んで反対側のスペースで、子供に風船を配っていたようだった。何かの拍子に作った風船がすべて飛んでしまったらしい。
 なにもこんな風の強い日にそんなことしなくても、と思いつつ、目は青空を舞う鮮やかな原色の風船を追っていた。
 内部に空気をパンパンに詰められ、薄く伸び広がった風船に太陽の光が当たって、まるい輪郭のふちが輝いて見える。
 岸くんも空を見上げていた。

「キラキラして、綺麗だね」

 と、知らず知らずのうちに口にしていた。
 僅かなりとも岸くんの人となりを知った今日にこんなことを言うなんて、きっと隣から「ゴミになるでしょあんなの」とか言うぞ、そうに違いない、と身構える。
 けれど、全く反応がない。

 どうしたのかな、まさか私を置いてさっさと駅に入っちゃったのかなと思い隣を見上げると、空を見ていたはずの岸くんはいつの間にか再びこちらをじっと凝視していたではないか。しかもまたびっくりした目をしている。

 呆然としている岸くんは、何度か薄い唇を開いたり閉じたりさせたあと、やがて噛み締めるように「そうか」と呟いた。

 なにが「そうか」なのかわからず、私は首を傾げてまだ思考が停まっているらしい岸くんの再起動を待った。
 やがて岸くんはひとりで納得してしまったようで、少し緩んでいた顔を再びむっつりとした不機嫌顔に戻し――以前の再現でもするかのように鞄からマッキーペンを取り出した。

「な、なんで!? また何か書くの!? 嫌だよ、それ油性だもん」
「さては落とすのに相当苦労したな」
「油性だってわかってて書いたの? ていうかなんで油性ペン携帯してるの……?」

 ここまではよかったのに、と突然の奇行の再開に肩を落としたい気持ちに襲われる。
 これ以上何をするんだ、と警戒していると、岸くんはキャップを外した油性ペンの持ち手側をこちらに向けて差し出してきた。
 おっかなびっくりそれを凝視する私に、岸くんは言った。

「今度は僕の腕にきみの名前を書いて。フルネームでね」
「だ、だからなんで!?」
「なんでって、連絡先登録するのに、漢字を知りたいから」

 そうに決まってるだろ、と言わんばかりの口調にますます混乱させられる。岸くんはいそいそと黒いコートの袖を捲り、すでに中の紺色のセーターも捲ろうとしているけれど、油性ペンの恐ろしいまでのインクの落ちなさをつい最近体感してしまった者としては、そんなこと乞われてもしたくはない。
 なにか彼に納得してもらえそうな代替案はないかな、と頭をフル回転させたところで、鞄に入れたスケジュール帳の存在を思い出せた。

 肩掛け鞄の口を開き、花柄の手帳の後ろ側についている罫線のみが引かれたメモ帳の部分を一枚千切り、岸くんの手からマッキーを掻っ攫う。
 上半分に"沖花新詩"とフルネームを書き、岸くんに差し出した。

「漢字を知りたいだけなら、これでいいでしょ」
「仕返ししたいかな、と思った善意の提案だったんだけどねえ。やさしいんだあ、沖花さんは」

 ちょっと揶揄うような口調でそう言われたので、「そうです。どっかの誰かと違ってね」とそっぽを向いた。
 ……でも、岸くんが言っていることはわかる。
 私も、と思ったので、差し出した紙を岸くんが掴むより先に引っ込めた。

「……くれないの?」
「半分はあげる」

 自分の名前を書いた上側と、白紙の下側。真ん中を手で適当に引き千切ると、ペンと一緒に全てを岸くんに再度差し出した。

「岸くんの名前も書いて、それは私にちょうだい」

 こんなことは初めてだ。誰かのことを自分から訊ねる(しかも男の人に)のは、冗談じゃなく生まれて初めてだ。
 指の間にペンを挟み、紙を二枚差し出す指先が少し震えている。

 でも、岸くんの顔からまた不機嫌や嘲笑じみた笑みが消えて真っさらになったので、たぶん間違ったことはしていないはずだ。
 そんなことを考えながら、自分の名前を彼に明け渡した。

「じゃあ、ありがたく頂戴しますよ」
「はい、私も頂戴します」

 そうして互いの名前を交換し、二人の間には今度こそ解散の空気が満ちた。
 去り際、岸くんはこちらを一瞥し「またね」と小さく囁いた。
 どうせ駅の中まで一緒なんだろうからなにもここで別れなくても、とか考えていた私の思考は、彼が口にした三っつの音にぐんと強く引っ張られてしまった。
 "また"があるの、と去りゆくの背中に大声で訊ねそうになった。
 だから、

「――次は、もうちょっとゆっくり歩いてね」

 と、決して大きな声ではなかったけれど、そう言葉を投げかけた。
 私のちっぽけな声なんて、人の多いこの場所では雑踏に掻き消えてしまって当然だ。そう思ったのに。
 岸くんは振り返った。

 ただでさえ細い目を更に細めたので、五メートルほど離れた場所に立つ私には彼の目がもう糸のようにしか見えない。
 彼の口が小さく動く。声は聞こえなかった。
 けれど、岸くんが"うん"と素直に頷いたのが、私にはわかった。
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