同じく食事会に参加していたゼミの同期が、どうやら岸さんと駅に向かう私を目撃していたらしく、「あの後一緒に帰ったの!?」と翌日ものすごい圧で迫ってきた。
信号で止まっている時間以外は常に三歩以上の距離をあけて行動していたあの夜のことを"一緒だった"と形容するなら、確かに彼女の言う通りだ。
なんでもかんでもお喋りするタイプの子ではなかったので、求められるままに構内の中庭でお昼を食べながら事の顛末を語ったところ、「電話番号教えられたのに連絡してないの?」と訊ねられた。
「して……ない」
「なんで? ときめかなかった?」
「腕に油性ペンで電話番号書かれてときめくものなの? そもそも番号を教えられた意図もよくわかってないんだけど……」
「そんなの、新詩に一目惚れしたからに決まってるでしょ」
彼女があまりにきっぱり言い切るので、私は面食らって言葉を失くしてしまった。
一目惚れ。……いや、それはないな。大して知りもしない相手を惚れさせるような魅力が私にあるとは到底思えない。
何より、あの短い時間対峙し少しばかりの言葉を交わした岸さんが、一目惚れなんていう曖昧な現実を自分に許すタイプではないと思う。
じゃあどういう意味だったんだと問われたら答えは出ないけれど。だからこそ、腕の油性インクを必死に落とす代わりにメモ紙に控えた電話番号をずっと手帳に挟んで持ち歩いて困っている。
「ね、嫌じゃないならさ、とりあえず一回電話してみなさいよ。案外、なにか動きがあって、いいご縁に繋がるかもよ」
ご縁、というやわらかい表現が耳に心地よかった。彼女のそういうところが人として好きだと思う。
なにも恋愛だけじゃない。よき友人になれる可能性だってある。あの夜あのやり取りをしたのには何か意味があるはず。そう言いたいんだろう。
うーん、と唸りながら鞄を漁る。
お気に入りの花柄のスケジュール帳の中に挟んだメモ用紙を広げると、中には私の筆跡で「キシケイイチロウさん ***-****-***」と名前と番号が書き込まれている。
だって、電話を掛けたとして、一体何を喋ればいいって言うんだろう? 対面でさえもまともに会話をしていないのに、電話でなんかもっと喋ることがない。
「掛けてって言われたんでしょ? 嫌だったらそもそも番号教えてこないよ」
「そ……うかなぁ……」
一理ある。ああいうタイプの人は特にそんな感じがする。
ちらりと建物についている時計を見上げた。次の講義まで時間がある。やるせない思いで溜め息を吐くと、同期が身を寄せてくる。
「……じゃあ、とりあえず掛けてみます。これで出なかったら、ご縁はなかったということで」
「うんうん。ファイトだ新詩!」
携帯電話を取り出し、メモと往復しながら番号をポチポチ。間違いがないか確認して、ひと思いに発信ボタンを押した。
携帯を耳に当てると、コール音と自分の心臓の音以外は聞こえなくなった。息が詰まるような苦しさを噛み締めながら、呼び出し音が十を超えたら切ろう、と誰にでもなく言い聞かせる。
一回目。出ない。
二回目。出ない。
三回目。出ない。
四回目。
『――もしもし』
出た。
突然耳元に響いてきた低い声に自然と背筋が伸びた。
「あっ……あの、ええと。……岸さんの携帯ですか?」
『はい』
心の中ではたぶん出ないだろうな、医学生って忙しそうだもんな、とか高を括っていたので、本当に応答があったことに驚いて頭が真っ白になってしまった。まずい、何を話そうか、とか何も考えてなかった。
まずは自分が誰なのか伝えなきゃ駄目よね、と気を取り直し、「昨日の夜、あなたの番号を腕に書かれた沖花です。沖花新詩です」と言った。鼻の頭にちょっと汗が滲んでいるような気がして、こっそり指先で拭う。
電話の向こうの岸さんは、私のちょっぴりカタコトの言葉を聞き終えると、ほんの僅かおかしそうに笑っているような、上擦った声でうん、と言った。
『僕の携帯に掛けてくる人間ってごく少数だから。まあ、知らない番号からの電話は十中八九きみからってことになるんだけど、ご丁寧にどうも』
「あ、はい……」
『本当に掛けてくるとも思ってなかったので驚きました』
淡々とそんなことを言うので、なんだかこの通話を可能にするまでの工程――特に発信ボタンを押した瞬間の自分がとても偉大だったような気がしてくる。
「すいません……私、掛けたはいいけど話すこと何も考えてなくて……」
『いや、用件は僕があるから』
初耳だが? じゃあそちらから掛けてくればよかったのでは?
昨夜の困惑がじわじわ蘇ってくるのを感じながら続きを促す。岸さんが『今、メモ取れる?』と言ったので、慌ててさっき開いたまま放置していたスケジュール帳の後ろ側にあるメモ帳を開き、シャープペンを握った。
「はい……大丈夫です」
『再来週の日曜、午前十時。何か予定は?』
「え? た、多分ない、……ないです」
『じゃあ、昨日別れた駅に午前十時。僕からは以上です』
頭が真っ白になる。真っ白になりながら、口が勝手にはい、と答えてしまう。岸さんはそれだけ言って『それでは』と言って淡々と電話を切ってしまった。
ツーツーという音を数秒聞いて、やっとの思いで電話を耳から離し、ずっと隣で会話に耳を澄ませていた同期の顔を見遣る。
彼女はいまいち釈然としない顔をしていた。多分わたしも同じような表情を浮かべている。
「……謙虚なんだか図々しいんだか微妙なラインだな……」
「この感じで一目惚れはないでしょ、そうでしょ」
「ちょっと審議だわ……難しすぎる、この岸とか言う男……」
こういうわけである。
同期立ち合いのもと取り決められた日曜の約束が本当に現実のものなのか、いまいち実感が持てないまま当日を迎えてしまった。
あの電話のあとすぐにスケジュール帳に「AM10:00 キシさん **駅」と書き込んではいたけれど、何度見返しても夢かなにかだったんじゃないかと首を捻っていた。
日時だけ指定されて用件は明かされていない約束なので、目的としてはやはり同期の言う「一目惚れ」説が今のところ最有力候補だと認めざるを得ない。確信なんかないけど、状況証拠的に。
今まで何度か出会ったその場で携帯番号を交換したり、多少お話をして仲良くなり、そのまま「よければお茶でも……」みたいな展開になったことはあるが、あんなインパクトのある連絡先の渡し方は初めてだった。
流石に相手の言動や行動に性欲が含まれているかいないかくらいの判別は普通につく程度には大人である自覚がある。あの日の岸さんからは本当に、何も読み取れなかったので困っている。
――何も読み取れなかったと言ったら、少し語弊があるけれど。
何かしらの感情は読み取れていた。でも、それが何であるかを判断する材料が私にはなかった、という話だ。
件の日曜、午前九時五十分。
指定された駅の前には、まだ岸さんの姿はなかった。
秋風の吹く、少し肌寒い朝だった。空は高く、雲が少ない。いい天気だ。
鞄を肩に掛けたまま、目印になるオブジェの前でぼんやり人混みを眺める。信号が変わるたび人が移動して、また変わると今度は車が動き出す。
足の裏から染み込んでくる緊張を誤魔化すために、信号が変わる間隔を心の中で数えてみたりしてみる。
……別にめちゃくちゃ気合い入れてお洒落してきた訳でもない。
お気に入りの服とコスメで固めて来たのに、岸さんがそこらへんのコンビニでも行くようないで立ちで現れたらへこむ自信があるからだ。
呼び出された目的もわからない以上、普通に外を歩ける程度の装い……つまり普段着で来るのが無難、適当、ベターだろうと考えた。
ピアスは落ち着いた、小さな花のモチーフがついたものを選んだ。まさかこんなに風が吹いていると思っていなかったので、耳元でチャリチャリ鳴っている金具の音を聞きながら、チェーンピアスでなくフープピアスにすればよかったな、と小さく後悔している。
首元で暴れるピアスと髪を手で押さえ、顔を上げたとき、風の音のなかに「沖花さん」と私を呼ぶ声がくっきり聞こえた。
はっとして首を捻る。私が身を翻して振り返るより早く、岸さんがコートの裾をなびかせながら隣にやってきた。
「あ、お、おはようございます」
「おはようございます。今日はどうも」
「いえ、こちらこそ、お誘いいただきまして……」何にかはわからないけど。
深々頭を下げると、岸さんもつられたのかなんなのか、その長身を腰から折ってぺこり、とお辞儀してくれた。
「して、本日は一体どのような……?」
強風に煽られながら訊ねる。岸さんはひとつ頷き、鞄から二枚の紙を取り出した。
これもまた風に煽られ好き勝手に暴れているけど、なんとか"水族館"と書いてあるのは読み取れた。
「水族館……ですか?」
「うん。魚、見るの嫌だったら動物園でもいいよ。映画館でも。ああ、映画館なら逆方向だから、一旦駅に戻るけど」
「……ううん。水族館、好き。毎年絶対一回は行く」
私がそう言うと、岸さんはじっとこちらを見つめたあと、「じゃ、行こうか」と言って歩き出した。この駅で集合して水族館と言えば、私もよく行くあの水族館だろう。
行き先がわかったことにほっとして、相変わらず大きなコンパスですたすた進んでいく岸さんを追いかけた。
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