水底に生う 後

 一週間追い込みをかけていたコンペが無事終了し、今日は絶対定時で帰ってやる! と部署のみんなで誓い合って盛り上がった。
 ここしばらくは魚を焼くとか肉を焼くとか簡単な料理ばかりになっていたから、今日はちょっとしっかり料理をしようと意気込んで帰りはスーパーに寄っていこうと、計画を練りながら穏やかな午後に突入したけれど。

 昼食を食べ終えたあたりから、なんだか身体の節々がぎこちなく軋むような違和感があった。
 オフィスのフロアを踏むパンプスは軽いんだか重いんだかわからないし、人の声は妙に遠い。休憩までいつも以上に気を張って過ごした。
 具合が悪いんだわ、と気付いたのは午後三時近くになった頃だ。
 自慢じゃないが、私は子供の頃からかなり頑丈な子供だったので、病気や怪我もあまり経験せず大人になった。だから、自分の感覚が気のせいなのか本気で体調不良なのか判断がなかなかつけられなかったんだと思う。
 体温計もないので熱があるのかどうかもよくわからないけれど、身体の違和感とちょっとの悪寒は退勤までのあと三時間なら我慢出来そうだった。なにせ大仕事を終えたばかりなので、今日はほとんどやることがない。
 そういうわけでロッカーに仕舞ってあったカーディガンとブランケットに包まりながらなんとか定時まで耐えきり、鐘が鳴ったと同時に覚束ない足取りで車に乗り、真っ直ぐ新居への道のりを走った。

 玄関でパンプスを脱ぐと、廊下のフローリングの冷たさでぞくりとうなじが粟立った。
 壁に寄りかかりながらなんとか鞄から携帯を取り出す。この頃には熱が本格的に上がってきたのか頭が割れるように痛み、目は溶けそうなくらい熱くて携帯の光がつらかった。
 メール作成画面を開き、自分の状態と晩御飯は外で食べてきてほしいことを打ち込んで送信。最後の力を振り絞って楽な寝巻に着替え寝室に引きこもる。

 冷たい布団にくるまって、赤ちゃんみたいに身体を丸めた。
 コンペ終わったし、今日は金曜日だし、明日は休みだから仕事に影響はないし。常日頃常備菜を作ってあるから、土日くらいは何も作らなくても京一郎くんが飢えることはあるまい。彼のことだから、外に食べに行く選択肢だってあるだろうし。
 ああ、でも、今日は蕎麦を茹でて、天ぷらも揚げて、何も言わずに麺以外も食べてくれている京一郎くんにご褒美をあげるつもりだったのにな。
 冷蔵庫の中身空っぽ気味だし。蕎麦どころじゃない。悔しい、悔しい。しっかり時間をとって料理がしたかった。

 ……せっかく一緒に暮らすようになったのに、初っ端からこんな迷惑かけて、駄目駄目だなぁ、私は。
 みんなが心配していた理由ってこういうことだったのかな。自分ではこれっぽっちも無理しているつもりなんてなかったのに。自己管理の甘さが出てしまったってことなんだろうか。

 慣れない体調不良のせいで変なネガティブが前面に出てきてしまっているのはわかっていたけど、冷静な自己分析で気分がどうにかなるわけでもなく、荒くなっていた呼吸が更に乱れて、痛いくらい熱を持った両目から涙がぽろぽろと零れていく。
 泣けば泣くほど頭痛は増していくのに、泣いたって熱が下がるわけでもないのに、ベッドシーツに顔を埋めて震えていた。
 引き攣った嗚咽を押し殺す喉が痛い。




 大きなコンビニ袋を持った京一郎くんが私の包まっている布団を剥いだのは、午後八時ちょうど頃だった。
 布団の内側に籠もっていた熱と湿気が流れ出ていったので急に寒く感じて、いつの間にか気絶するように眠ってしまっていた私が朦朧としながら瞼を上げる。京一郎くんは私が顔を向けている側にしゃがみ込み、ビニール袋を容赦なく床に直置きして私の額に触れた。
 大きな手のひらは今の私には冷たすぎて、反射的に身体がぶるりと震える。

「……おかえり……ごめん……」
「ひっでぇ声」

 私も自分の声に驚いたけど、それにしたって冷たい言い方だった。「ただいま」もなく汗で張り付いた髪を掻き分け、後ろに流し、首筋に手を当てる。高いな、と独り言のような呟き。
 カーテンが開けっ放しの窓からは夜空が見える。月も星も見えない。昼間の快晴が嘘に思えるような曇天だった。

 布団を剥がれたままだったので、石のように重い頭を動かさないよう手探りで掛け布団を手繰り寄せ肩まで被る。大体のことはメールに書いて送ったので、どうしたの? とか具合は? とかいう問答は一切ない。
 医者は体温計なんてなくても大体の体温がわかるのか知らないが、京一郎くんは私の首筋から手を放すと、傍らに置いていた袋から次々物を取り出していく。

「スポーツドリンク。一本ここに置いて、残りは冷蔵庫入れとく。ゼリー。食べられる時に食べて。あとはレトルトのお粥、卵と梅。他に欲しいものある?」
「……わかんない……たぶんだいじょぶ」
「――もうちょっと適当に生活しろって言ったろ」

 低い声。怒っているのかそうでもないのか、自分の心臓の音が大きすぎて判別がつかない。でも、呆れていることだけは確かかもしれない。

 わざとじゃないんだよ。意識して無理してたわけじゃない。全然普通だと思ってたの。
 当たり前だと思ってることをして過ごしているだけだったから気が付かなかったけど、短期間に押し寄せた忙しさを足したら、少しだけ、自分の容量を超えちゃってたみたいで。それがわからなかったから、こうして京一郎くんに迷惑かけてるわけだけど。
 情けないのも、駄目なのも、私が一番わかってるから、今はあんまり責めないで……。

「……ごめん、京一郎くん……おこんないで……」

 がすがすした声でそう言いながらどうしようもなくて微笑むと、目尻を涙が伝っていった。悲しくて涙が出るんだか目が痛くて涙が出ているんだかわからない。
 情けない笑みに、京一郎くんははっと口を閉じ、それから俯いてガシガシと髪を乱暴に掻いた。「怒ってんじゃなくて」と、まるで自分にも言い聞かせるような口調で、声が小さい。

「自覚がなかったんじゃしょうがないし、……今のきみにそんな話してもしょうがない。とりあえず、明日朝イチで病院行くぞ。今夜は大人しく寝てろ」
「うん……」
「……なんだよ、なんで泣くの」
「うん……」

 "なんで"なんて、私にもわからない。熱に浮かされた虚ろな目でシーツに染み込んでいく涙のあとを見下ろしている。
 京一郎くんは私が黙って泣いているのを瞳をこらして見つめてくる。首筋に触れて体温を測った時の躊躇のない手つきとは違う、静かな仕草でうつ伏せに投げ出している私の手の指先をほんのちょっと握った。高熱のせいで私の手は未だかつてないほど熱く、私が体温を吸い取ってしまったみたいに京一郎くんの手は冷たく感じられた。

 その、私の人差し指と中指をちょんと握る感じが、身体の大きな男の人というよりは迷子の子供が大人に縋る余裕のなさと似ている気がして、不調で精神が弱っているにも関わらず、私は全然不安でいるようには見えない京一郎くんを安心させたくなった。
 空いている方の手で涙を拭い、乾いた喉を酷使して「だいじょうぶ」と囁く。

「病院、いくよ。流石に疲れすぎちゃった、みたい。すぐ治すから、ね」
「……なんも言ってないし、答えになってないけど」
「うん、うん」

 私達は似たような喪失のかたちや肌触りを知っているから、同質の悲しみや不安みたいなものを感じ取りやすいのかもしれない。
 彼の心の底に根差す新しい傷。そんなものの痛みを、あなたにはまだ知ってほしくなかった。

「着替えたらお粥温めるからまだ寝るなよ。食って、水分摂ってから寝ろ」
「……寝ろって言ったり寝るなって言ったり……」
「屁理屈捏ねる元気はあるんだ」

 まるで返事なんて想定していないように淡々とそう言って、京一郎くんは空いている手で布団の掛かっている肩を優しく叩き始めた。寝るなって言ってるのに、寝かせる手つきだ。
 ひたすら寒く、なのに身体は火照って、発熱がピークに達しつつあるらしい今はとてもじゃないが眠れそうにない。ないけれど、目を閉じて彼がもたらす静かな優しさを受け入れるべきだと、震えながら思った。そんな気がした。

「落ち着いたら、話をしよう。この先のことをしっかり話そう」

 うん。
 話したい。
 私の駄目だったところ、考えていること、沢山聞いてほしい。


* * *


 翌朝目が覚めたときには、熱はだいぶ下がっているように感じた。
 沢山寝汗をかいたのがよかったのか、肌が少しべたつく不快感以外の違和感はほとんど消え去り、まだ少しだけ頭がぼんやりするかな、くらいまで治まってしまった。
 本当に疲労由来の不調だったんだ、と勝手に納得しながらベッドサイドに置いてあるぬるいスポーツドリンクに手を伸ばすと、寝室の扉がノックなしに開かれる。

「あ、おはよう」
「……元気そうじゃん」
「おかげさまで。だいぶよくなりました」

 体温計片手に入ってきた京一郎くんが首筋に手を差し込む。私の言葉通り、ほとんど平熱なのを確かめてから体温計が差し出されたので、大人しくカバーを外して脇に挟み込んだ。

「病院行く前になんか食べてく?」
「ええ、熱下がったのに病院行くの? 症状ほとんどないのに、なんか申し訳ないんだけど……」
「は?」
「嘘ですなんでもないです……あ、三十七度三分」

 昨夜お粥を食べる前に測った時は三十九度五分だった。
 あの時と比べたらあまりに身体が楽なのでもう全快したような気がするけど、カッと目を見開いた京一郎くんが有無を言わせない感じで凝視してくるので「病院行きます。行かせてください」と視線を逸らした。

 なんか欲しいものある、とぶっきらぼうに訊ねてくる京一郎くんの顔をちらりと窺う。
 一見、もう怒ってはいないように見える。いや、そもそも昨夜だって怒っていたのか怪しい。京一郎くんが怒ったところなんてあまり見たことがないし。

「……なに」
「あっ、いや、なんでも。とりあえずシャワー浴びて、それからゼリー食べようかな。先にご飯食べてて」
「倒れるなよ」
「倒れないよ。もうだいぶいいもの」

 苦笑すると、京一郎くんはそれ以上何も言わず寝室を後にした。私も新しい下着と緩めの服を持ってそのあとを追った。
 シャワーを浴びてしまったら、僅かに残る倦怠感以外は本当によくなっていた。
 ドライヤーで大雑把に髪を乾かし櫛を通してリビングに向かうと、珍しくテレビの音が聞こえてきたので驚いてしまった。

 京一郎くんは振り返らず、ぼんやり座ったままテレビの方に顔を向けている。ニュース番組は休日らしく今週のオリコンランキングなんかを紹介していた。
 ダイニングテーブルには空のコップが一つ置かれているのみで、食事らしい食事をした形跡はない。

 言い方に迷うが、まるで……彼のいない時間ひとりで過ごしている私みたいな"中身のなさ"が滲み出ている気がして、私は思わず焦って「京一郎くん」と結構大きな声で呼びかけた。
 彼はすぐに首を捻ってこちらを振り返ったので、私は内心こっそり胸を撫で下ろした。
 そして彼がここに越してくる前テレビを買おうとわざわざ言ったこと、私が夜一人でリビングにいる時必ず声を掛けて隣に座ってくること、その理由をなんとなくわかってしまった。

「どうしたの。結構な声量だったけど」
「……や。……なんでもない」

 冷蔵庫から京一郎くんの買ってきてくれたゼリーを取り出す。プラスチックスプーンと一緒にビニール袋ごと冷蔵庫に突っ込まれていたので、中から果物入りのものを選んだ。
 京一郎くんの正面に座り蓋をぺりぺり剥がすと、中から水分が溢れてきたので慌ててティッシュを取った。

 テーブルの水分を拭き取ってひと段落したとき、それまで無言だった京一郎くんが唐突に「昨日の話の続きだけど」と言った。
 私は心の中で今かい、とツッコミつつ、けれど今回悪いのは全面的に私なので「はい」と神妙な顔でうなずく。

「今度のこれは提案じゃなく、同じ場所で暮らす人間――ついでに来月にはきみの配偶者になってる奴からの要求だ。意識的に生活のレベルを落とそう。今回のことでわかったろ。新詩、今の僕らの生活サイクルときみの時間配分的に、昔の記憶の再現をしてたら身体が保たないってこと」
「……うん」
「自覚がなくても実際きみは無理してたと思うし、白状すると僕はちょっと引いてた。舐めてたとすら思った。たまにお互いの家に泊まる時見てたきみの姿はほんの一部だったのかもしれないって思った。……今一緒に暮らしてるのは僕で、おばあちゃんじゃないんだぜ」

 逆に言えば、彼にそう思わせるほど、私は私達の身の回りのことをこなすこと、規則正しく理想的な生活を送ることに心血を注いでいたんだろう。知らず知らずのうちに自分のキャパシティーを優に超えたことをしていたんだろう。
 引っ越してからの一週間、ここにいる間の私は家事ロボットかなにかのようだったに違いない。

「きみがまめなタイプだってことはわかってたのに、それを放置して任せきりにしてた僕ももちろん悪かったけど。今後は一緒に考えよう。このままじゃ暮らせない。新詩が全部をやらなくていいし、料理だって外食でも総菜でも僕は気にしない。ついでに言うと麺類なら自分でも出来る」
「それはそうだね」

 蕎麦は任せなさい。と京一郎くんが大真面目なトーンで付け加えるので、こらえきれず私は笑った。激務の一週間を超え、久し振りに表情が緩んだ気がした。

「……そうだね。ごめん、私全然無理してるつもりがなくて。昔は本当に、こんな感じで毎日過ごしてたはずだったんだけど」
「考えてもみなさいよ。引っ越し作業を二日で終わらせて? 恋人とは言え血の繋がらない他人と一つ屋根の下で? ついでにコンペ準備で早朝出勤続き? きみじゃなくても体調崩すだろ」

 改めて言葉にされると、本当にその通りだった。もう何も言えなくなって、私は何度も頷いた。

「慣れない環境と仕事でちょっとおかしくなってたのもあると思うけど、多分、同棲が始まったのが嬉しくて浮かれてたんだと思う。いいところ見せたかったのかも。今思うと馬鹿みたいだなぁって思うけど」

 理想の嫁キャンペーンなら毎晩蕎麦かうどんでも茹でて待っていればよかったのに。普通の献立じゃ百パーセントのリアクションを引き出すことは出来ない。中途半端なんだから、とちょっと反省。

 スプーンで掬ったゼリーを口に含み、反応の途絶えた彼の方を見ると、彼は無表情のまま視線だけを斜めに逸らして「はあ」と曖昧な返事を寄越した。

「浮かれてたんですか……? あれが……?」
「え、うん……なんで敬語?」
「……きみって本当僕のこと好きだな」

 しみじみとそんなわかりきったことを言うので、私は平然と頷き、またゼリーを一口食べる。

「なんでもしてあげたいって思ってるよ。まあ、こんなことになったら元も子もないから、今後はもうちょっと考えるけど」
「……ふーーーん?」

 照れてるのかな? それとも私の反省を「ほんとかなぁ」と疑っている?
 相変わらず読めない表情のままなので、彼が内心何を考えているのかはよくわからない。
 まあでも、険悪になったりはしていないので、それで充分だろう。

 時計を流し見ると、時間は九時近い。のんびり食べていたけど、大体の病院ならもうすぐ診察が始まるはずだ。 土曜は午前診療のみだろうし、はやめに家を出たい。
 残っていた大ぶりのパイナップルを口に含んだとき、京一郎くんが「新詩」と名前を呼んだ。

「ん?」
「……いや、何でも。これからもよろしく」

 こちらの台詞だ。お世話かけます、と頭を下げた。
 ――同棲したって関係性は変わらないだろうけど、でも、変わっていなかくちゃいけないところもある。それを学ぶことが出来た。
[ BACK ]
- ナノ -