私に永遠を患わせたのに

 母が死んだとき、私はまだ高校生だった。
 生まれた時から父親を知らず、母と祖母と三人で暮らしてきた。泣き言を一切言わない祖母と、その鏡写しのようによく似た顔で笑い、やっぱり弱音を吐かない母と、顔が似ているかと言われたら微妙な私。ちなみに弱音は吐く。
 たぶん父親似なんだろうな、と悟った小学校高学年の時分に、ふと年齢順に祖母、母と死を迎え私ひとりが残されたとき、果たして私はほんとうのひとりぼっちになってしまうんじゃないかと思いついた。きっかけは国語の読書課題で読んだ本だった。

 その本の主人公は、子供の頃に両親を亡くしてしまう。家族がいっぺんにいなくなり、みなしごになってしまったことの絶望と悲しみに打ちひしがれていると、ふいに鏡に映った自分の顔を見て一つの希望を知る。
 彼女の顔は母と父によく似ていた。だから鏡を見れば、いつでも家族の存在を感じることが出来たのだ。お父さんとお母さんはいつでも私を見守ってくれている、そばにいてくれる……そんな感じで主人公は再起し、その後の人生を幸福に生きていく、みたいな話だった気がする。

 私の顔や性格はたぶん父親似だ。
 母と祖母は顔も性格も似通っているが、私は彼女らと違って人並みにネガティブ思考で、落ち込みやすい。おまけに笑うとえくぼが出来る。母と祖母には出来ない。
 だからもし私が母と祖母を一気に亡くしたとして、鏡に映るのは私の顔以外の何物でもなくて、そこに母や祖母の面影を見ることはあまりないんだろう、と思ったのだ。
 顔も名前も知らない父親を家族だとは思えない。血が繋がっている他人というだけだ。同じ家で暮らしたこともないのだから。

 覚えている限りでは、恐らくその頃初めて私は保護者の死後に訪れる孤独というものを恐怖し始めた。
 子供らしからぬ恐怖だったと思う。口に出したら現実になってしまう気がして誰にも言えなかったし、言ったとしても同級生達には理解出来るはずもないと信じていた。
 そして十六の時に母が死んだ。仕事帰りに居眠り運転で逆走してきた車に正面から突っ込まれて即死だった。
 漠然と胸の底に淀んでいた恐怖が急に現実味を帯び始めたことを思い知ることとなった。




「ね。あっちの隅の席の人、ずっと新詩のこと見てるよ」
「――え?」

 隣の席の女子に肩を揺すられて、烏龍茶の入ったコップを持ったままぼーっとしていたことを思い出す。慌てて隣に顔を向けると、同じゼミに所属する同期がニヤニヤしながら肩を突いてきた。
 指差されるままにこっそり視線を流す。
 確かに、およそ十二人ほどが参加しているこの飲み会のなか、一人だけ誰とも話さず、窓際の隅の席でコップを傾けている男の人がいた。
 短い髪を逆立て額を出していて、こちらをぼんやり見ている目は細い。お世辞にも、穏和そうとか優しそうとか、そういう好意的な感想は出てこない。

「気のせい……じゃないかなぁ……」
「いや、今ばっちり目合ってたじゃん」
「合ってたかなぁ、目はこっち向いてるけどどこ見てるのかよくわかんないよ……」

 今日は比較的近所にある医療大学の学生と、一般大学の学生である私達の交流会という名の飲み会だ。学んでいる分野も全然違うのに何を交流するのかな、という疑問は同期達に引き摺られているうちに掻き消えてしまった。
 いつもは家で祖母が晩御飯を毎日作って待ってくれているのであまり飲み会や食事会には参加しない私だけど、普段の私の参加率の悪さを知っている同期達が開催が決まった時点で私にアポを入れ、当日まで一週間ごとに告知をしてくれてしまったので、諦めて祖母には晩御飯がいらないことを伝え、午後六時から大学から少し歩いたところにある居酒屋で医大生と卓を囲んでいるわけである。

 ほどなく席替えの号令が発せられた。もう合コンのノリじゃないか。主催者にはただご飯を食べてあわよくばお友達を作るだけだと聞いていたんだけどな。
 移動を命じられたメンバーががやがやと動き出す。私が指示されたのは、例のこちらにじっと目を向けていた男の人がいる窓際、その正面だ。
 ほんの少しの居心地の悪さを感じたけれど、隣にはよく話す子が待機しているし、まあ、めちゃくちゃ絡まれるような雰囲気でもなさそうだから、大人しくご飯とお茶を交互にしていればいいだろう。

 そんなことを考えながら椅子を引いた。
 一応「失礼します」と断って腰を下ろし、持っていた自分のコップをテーブルに置くと、それまで彫像かなにかと見紛うほど微動だにしなかった正面の人が、急に「きみ」と発声した。
 正面……つまり私を真っ直ぐ見据え、中身がほとんど減ったコップを傾けて。中身はたぶん私と同じ烏龍茶だ。

「は、はい」
「きみ、名前は?」
「な、なまえ……名前ですか? 私の?」

 店の外に置いてある等身大人形が急に喋り出したような心地だった。KFCの店の前に立っているカーネルサンダース人形が急に動いたりしたら、恐らく今と同じようなリアクションをしてしまうだろう。
 私が動揺している間にも、彼はお構いなしに「そう。きみの名前」と浅く頷いた。

 古典的で直接的なナンパの手法か? と一瞬妙な想像が脳裡を過ったけれど、私は別にめちゃくちゃ美人という訳ではないし、彼氏だってお恥ずかしながら今まで出来たことがない。
 この瞬間私の頭を駆け巡っているのは男の人に名前を訊かれた、という動揺なんかじゃなく、「私の名前なんか訊いてこの人はどうするんだろう」という不安と疑心からくるものだった。

「えと、沖花新詩です……二年です、十九歳です……」
「そう」
「は、はい」
「……」
「……」

 な、なんなんだろう……?
 向けられる視線の理由も名前を訊かれたわけもわからず困惑していると、彼の隣に移動してきた綺麗な女の人が「おいおい岸〜早速絡むなよー」と親しげに彼と肩を組んだ。
 二人の顔に見覚えはやっぱりないので、同じ大学だけど別の学科で交流が全くなかったとかではなく普通に医大の人なんだろう。

 ちょっぴり緊張しながら二人の顔をきょろきょろと見比べていると、綺麗な人が「細木まどかで〜す、二年で〜す」と大変ゆるーい雰囲気でピースをしてみせた。

「で、こっちの開幕相手に自己紹介をさせておきながら自分は名乗らなかった無礼者は岸京一郎くん。こいつもおんなじ二年ね」
「ど、どうも。沖花です」
「ごめんね〜沖花ちゃん、なんかいつもと様子違ったから近くで見ておこうと思ってたけど、こいつが絡みに行く方が速かったわ」

 細木まどかさんはアンニュイな眼差しで微笑を浮かべ、「ごめんねぇ」ともう一度言って、あろうことかその勢いのまま隣の岸さんの頭をグーで殴りつけた。
 いってぇ、と心底不満げな声があがり、私はそこでようやく目の前に座っている岸さんという人がカーネルサンダース人形などではなく、生きた人間であることを信じられた。

 ――ほっとしたのも束の間、私の隣にいた同期が流れで自己紹介をはじめ、そこからは細木さんと同期が盛り上がり、私と岸さんはそれ以上何かの話をすることもなく、黙々とお茶を飲み、たまにご飯を摘まんで時が過ぎるのを待った。

 驚くことに、岸さんは私が正面にいてもじっとこちらを凝視し続けていた。普通、真正面に座る人の顔をまじまじと見続けられる胆力を持つ人はそういないと思う。家族でも友人でも、長いこと見つめ合うのは気まずい。
 だって言うのに、私が砂肝と野菜の炒め物を摘みながらちらりと視線を上げるたび、彼は私とばっちり目を合わせ、逸らさない。未知の生き物を観察するみたいに、はじめて動物園でパンダを見た子供のように。
 私の顔になにかついているのかと途中トイレに駆け込んだりもしたけど、化粧がひどくよれているとか顔に食べかすが付いているとかそういうこともなかった。

 ただ、彼は時々、自分の烏龍茶をおかわりするついでに私の烏龍茶も頼んでくれた。
 私は何も言わなかったけれど二杯頼んで、当然のようにコップを差し出して、「はい」と。
 だからきっと、悪いひとではないんだろうな、と思った。
 ……たぶん。


 およそ一時間後に会はお開きになり、盛り上がった一部の学生たちは二次会の算段を付け始める。
 参加費を集めた主催がお会計を済ませているのをぼんやり眺めながら、今から駅まで歩いたら何分の電車に乗れるかな、と帰宅までの流れをシミュレートしていた。

「新詩はこのまま帰る?」
「帰りまーす、明日一限あるし」
「真面目だねぇ。気を付けて帰ってね、誰か同じ方向の人いる?」
「あー、わかんない……けど、別にそんな遠いわけでもないし、大丈夫」

 そんなやり取りをしながら二次会のカラオケに向かう組を見送り、帰宅組とも方向が違うので一部と別れる。
 よし、帰るか、と身を翻すと、正面にぬっと大きな人影が現れた。「ひぃ」と情けない悲鳴が洩れる。

 両手で口を押さえた私に目を眇めたのは、あれから一言も言葉を交わさなかった岸さんだった。
 上着のポケットに片手を突っ込み、首を僅かに傾けてこちらを見下ろしている。彼はそこらへんの男の人より背が高いので、普通に対峙するだけでもかなりの圧を感じてしまう。
 心の中で身構えながら、私は必死に「ど、どうしましたか」と言った。
 すると岸さんは、

「どうって、帰るんだけど」

 と淡々と落ち着いて答えた。私の狼狽えっぷりが馬鹿らしくなるくらい、彼は平坦だった。

「いや、そうですよね。二次会行かないなら帰りますよね。そりゃそうだ」
「うん」
「……」
「……」
「……えと、私、あっちの駅なんですけど、岸さんもですか?」
「うん、そう」
「そ、そうなんですね。じゃあ、行きましょう」

 絶対話が弾む希望もないし医学生と普通の大学生じゃ共通の話題なんかないだろ、と自分でもどうかと思うくらい悲観しながら、けれど私の足は岸さんが歩き出すのとほとんど同時に動き出した。

 岸さんは背が高いので、当然歩くのも早い。一歩が大きいのだ。私とは頭一個分ほど身長差があろうか、という具合。
 行きましょうと言って同時に歩き出した手前、岸さんと並んで歩くことを諦めるのは何だか違う気がして、私は必死に足を動かしてすたすた進んでいく岸さんを追いかけた。

 何個目かわからない信号の赤で岸さんが立ち止まり、数秒遅れて息を荒げる私が追いついた時、ふいに岸さんが「きみさぁ」と言った。
 その低い声が耳に届いた瞬間、普段しない競歩のような歩き方で足の裏や脹脛が悲鳴を上げているにも関わらず、私の背筋がピンと伸びたので私は自分でびっくりした。
 岸さんは私の返答など待たずに続ける。

「ちょっとヘンだよね」
「はっ?」
「見た目とか話し方がとかじゃないよ。でも不思議な感じ」

 それまで無口だった岸さんを見上げながら、この人は急に何を言い出すんだろう、と私は夜の街のど真ん中で途方に暮れたい気持ちになった。
 ちょっとヘンだと言うなら、それはきっと岸さんの方だ。臆面もなく人の顔をガン見しておきながら、言うに事欠いて「ちょっとヘン」だなんて、きっと友達が少ないタイプだ。

「体内で発光体でも飼ってるのかな」
「……そ、それはないと思いますけど……」
「だよねえ」

 だよねえじゃない。
 医学生ってみんなこんな感じなんだろうか。

 再び信号が青に変わったので、歩き出した岸さんに後れを取らないように一生懸命大股で歩く。
 夜の街のネオンに照らされて、岸さんの横顔が輪郭まではっきり見えた。
 少し色素が薄くて灰色がかって見える髪とか、やっぱりどう見ても怖く見える目つきとか、喋る時以外口が開かないのでやっぱりカーネルっぽい雰囲気あるな、とか考えていた。……岸さんみたいな人形が店前に置いてあったら、商売に支障が出そうだけど。
だけど何となく、漠然と、深い理由はなく、彼の高い位置にある男の人の冷たい横顔に、むかつきみたいな嫌な気持ちは微塵も湧いてこなかった。

 自慢じゃないが、私は今まで育ちのなかに自分より年上の男性が介入してくる余地は皆無だったので、年が近い子から年上まで、ほとんどすべての男性を出会い頭から警戒する癖がある。人にはわからないらしいが、たとえば友人が連れてくる友人の友人とか、学科の先輩だとか、後輩だとか、とにかく目の前に現れる男性を分け隔てなく。
 小学生くらいまでは平気だけど、にょきにょき背が伸び始めるあたりからもう駄目になる。怖いのではない、私にとって未知だから警戒してしまうのだ。

 不思議と、岸さんにはそれをしなかった。
 居酒屋での出会いから、必死に彼の背中を追いかけている今までを思い返し、ちょっぴり首を傾げた。


 やがて駅前に集まるタクシーの光が見えてくると、予兆なく岸さんが足を止めた。
 どうしても彼の速度に追いつけなくて三歩後ろを歩いていた私は、彼が急に立ち止まったので思い切りその背中に顔をぶつけてしまった。
 顔を押さえて後退った私を振り返り、岸さんは「ああ、ごめん」と淡々と言ってのけた。
 そして急に私の手を片方とると、ピンクベージュのトレンチコートの袖を捲り始める。

「手貸して」
「い、言うまでもなく取られてるんですが……」
「事後承諾」

 なんなんだ本当に。
 ぜえぜえ肩で息をする私にそれ以上抗議する体力なんてものは当然なく、大人しく岸さんに生白くて頼りない右腕を借りられてしまった。合間に呟かれた「いい皮膚だなあ」という言葉は聞かなかったことにした。

 岸さんは片手で自分の鞄のポケットを開けると、中からよく見る市販のマッキーペンを取り出し、キャップを口にくわえて開けてみせた。

「ま、待って、何するんですか」
「まあ見てなよ」
「いやいやちょっと」

 岸さんの大きな手に掴まれた私の腕は引いても引いても全く動く気配がなくて、それ以上何かを言う前に彼の握ったマッキーペンの筆先が直接肌に触れた。
 ひんやり冷たく濡れた感触に「ひい」と身を捩ると、岸さんは身勝手にも「動くな。歪むだろ」と注意してくる。本当になんなんだこの人は。

 そういう感じで、時間にしておよそ三十秒。私の右腕の内側にはやたら丁寧な字で十桁の数字が刻まれてしまった。
 肘を捻ってそれを読んでいると、岸さんはマッキーにキャップをしながら「それ、僕の番号」と事も無げに告げた。ぎょっとした私を無視して、更に彼は続ける。

「今日以降知らない番号から掛かってきたら、とりあえず出るようにしますので、どうぞよろしく」
「よ、よろしくと言われましても。あの、岸さん……」

 心の底から困惑して正面の岸さんを見上げる。
 家に帰るためにこの駅を目指す人々を導く白い光に照らされた彼の双眸は、やはり私を真っ直ぐ捉えて離さない。

 私は、正直言ってあまり人にじっと見られることが得意じゃない。背中がそわそわしてしまうし、人見知りの気もあるのでいい気はしない。
 でも、今日言葉なく私を見ていたこの人の眼差しには悪意なんてものは欠片ほども含まれていないように見えたし、強すぎる光に照らされた顔は思いのほか穏やかに映り、彼の突然の奇行を拒絶する気が失せてしまった。

 気が付けば私は脱力して、肩に掛けていた鞄の持ち手がずるりと滑り落ちるのを感じながら、呆然と「わかりました」と頷いていた。
 帰ったらまず自分の部屋に戻り、腕に書き込まれた十桁を紙か何かに控えよう。そしてお風呂場に直行して、石鹸でもボディーソープでも何でも使ってとにかくこの黒インクを落とす。そういう算段でいこう。
 混乱が極まりすぎて一周回って冷静になってきた気がする。ついでに呼吸も落ち着いた。
 私が大人しく頷いたのを見届けると、岸さんもまた「うん」と頷き、一歩後ろに下がった。

「じゃあ、僕はこれで」
「あ、はい」
「おやすみ。……沖花さん」
「おやすみなさい、岸さん」

 そう言って、岸さんはあっさりと駅の中に一人で消えていった。何かのミッションで私と共に歩いていたかのように(とは言え私は彼の背中を見失わないだけで精一杯だった)。
 私は駅前に取り残され、まだよく回らない頭で腕に書かれた岸さんの携帯番号と、岸さんが入っていった駅構内の明るいさまをいつまでも見比べていた。

 ――そういう感じで、彼と私は出会い、次の逢瀬への切符をとんでもない力技で創り出した。

 この時の私は考えもしなかった。
 腕に書かれた十桁をすぐに諳んじることが出来るようになることも。
 彼――岸京一郎くんが、初対面の私を見て「こいつは何かが違うぞ」と直感して、このような彼らしからぬ行動に出たこと、そしてその理由についても。
[ BACK ]
- ナノ -