水底に生う 前

 朝、七時。
 そっと京一郎くんの寝室に入ると、薄暗い室内はまだ夜のシンと冴えた気を引き摺ったまま冷えていた。
 結局起こすのだから物音に気を付けても仕方がないんだけど、なんとなく忍び足でベッド脇まで寄っていき、膨らんでいる掛け布団に手を伸ばして軽く揺すった。

「京一郎くん、ごめん、起きて」

 お互い眠りは浅い質だ。身動ぎで蠢く布団の内側から、すぐに寝癖全開の京一郎くんが顔を覗かせる。隙間からすでに着替えと化粧を済ませ鞄も肩に掛けた私を見留めると、寝坊したと思ったのかむくりと上体を起こした。
 起こしてごめんね、と潜めた声で再度言うと、ベッドサイドのデジタル時計を手に取って見下ろしながら、彼は「うん」とも「ううん」ともとれない返事を寄越した。

「昨日言い忘れてたけど、これからしばらく朝早いの……一週間くらいかな。朝ごはんは出来てて、お味噌汁もまだお鍋は温かいと思う。食べるなら、お米とお味噌汁は自分でやってね。帰りは京一郎くんよりは早いと思うからなるべくご飯作るけど、要らないときは先に連絡してくれると嬉しい」

 私が一気に喋ったので、寝起きでいつもよりもっと細い目が緩慢に瞬きを繰り返し、脳の本格起動を急いで試みているのが伝わってきた。けれどそこらへんは人より回転が速い京一郎くんなので、三秒もしないうちに私の言ったことを噛み砕き、今度は「うん」とはっきり頷いてみせる。

 正直のんびりしている時間はないけど、いつも以上に跳ね散らかった髪が、首が縦に振れるとぴょこぴょこ揺れるのが可愛くて、思わず手のひらで四方八方に散らかっている髪を撫でつけた。意外と綺麗な頭の形をしている。彼は背が高いのであまり触る機会はないけれど。

「……まだ一緒に住み始めて三日なのに、いきなり生活サイクルずれてごめんね。出来るだけ静かに出て行くようにするから」
「いんや……夜は僕の方がうるさいだろうし」
「いっつもそーっと入ってきてくれてたよ」

 夜更けに私のアパートを訪れる彼の、押し殺した足音や鍵を開ける音を思い出して微笑みが零れた。

「じゃ、行ってきます。戸締りよろしくお願いします」
「へい」


* * *


「えーっ、同棲始めてたの!? いつから!?」
「せ、先週の土曜日から……」

 無人の会議室に同僚の東藤ちゃんの大きな声が響き渡った。幸い朝早いこともあって彼女の叫び声を聞いた人はいそうにない。人差し指を唇にあてると、東藤ちゃんは「あ、ごめんごめん」と声を潜めた。
 別に内緒にしているわけではないけど、なんとなく。

「彼氏いるって聞いたのつい最近だから、なんかすごい急展開に感じちゃう」
「ついでに言うと来月には彼氏じゃなくて旦那になる予定です……」
「……急展開、気のせいじゃなくない……?」
「そうなんだよね……」

 東藤ちゃんは私に付き合って六年弱になる彼氏がいることを知っている数少ない同僚の一人だ。たまに相談に乗ってもらっている。

 先週の土曜日に二人で選んだマンションの一室に引っ越し、月末までには京一郎くんの実家への報告を済ませて入籍する予定でいることを簡単に報告する。
 東藤ちゃんは「待って待って」とホチキス留めしていた書類を一旦机に置いて額に手を当てた。
 わかる。私も正直予定を聞いた時はそれくらい戸惑った。あまりにも急展開すぎませんか、と。

 父親との一件があった夏頃、能美さんの「家の場所を知られてしまっているので、もし時間やお金に余裕があるようでしたら引っ越しした方が多少は安全かもしれません」という助言を聞いた京一郎くんが、じゃあ同棲するか、と二言目に言い出したのである。
 いくら疲弊しているからって流石にそんな……晩飯は麺にするか、みたいな淡々とした口調で言われて「そうしよう!」とはならなかった。流石に。
 ただ、戸惑った私を前にした京一郎くんの弁舌は凄まじく、最終的に私は同棲の提案があった翌日には籍を入れることまで同意してしまっていた。頭のいい人が本気で相手を納得させようとしたらこんなにすごいことになるんだ、と考えすぎて知恵熱が出そうな頭で思ったものだ。たぶん詐欺師とかこんな感じかもしれない、と失礼なことも少しだけ。

 とは言え即日入籍――ということにはもちろんならず、別に必要ないの一点張りだった京一郎くんを説得してご両親への挨拶の予定を擦り合わせ、どうせなら大安に提出したいよねと話し合ったり(「六曜は迷信だぜ」と言う京一郎くんをまたまた説得したり)、結婚指輪を下見したり、etc……。
 同時並行で二人で住む家を探すのもなかなか大変で、結果こういうスケジュールでいこう、と二人で決めたのだった。
 新居はほとんど私が意見して決めた。京一郎くんは何を訊いても「雨風しのげる場所ならなんでもいい」ばかりだったから。
 でも、それぞれ鍵付きの寝室をつくれる部屋を選んだのは二人の意志だ。

「えー、すごいおめでたいけど、大丈夫? かなりのハードスケジュールじゃない? 体調とか……」
「今のところは平気。むしろ同棲始めてから昔みたいにご飯とか掃除とか、色々やりがいが戻ってきて楽しいよ」

 言いながらなんだか照れくさくて顔を伏せると、東藤ちゃんがぎゅっと抱き締めてくれた。

「出来た彼女だよ〜! あ、もう嫁か……でも色々頑張りすぎないようにね! 新詩ちゃん尽くし過ぎてオーバーヒートしそうなタイプだし、コンペもあるからさ」
「うん。気を付けます」
「無理だな〜ってやつは旦那に分担するんだよ? 掃除とかなんか別に毎日しなくても生活は成り立つからね?」
「はぁい」

 同じ場所に住むことになったからと言って、実際そう大きな変化があるわけでもない。もともとお互い干渉しすぎる性格でもないし、六年付き合って変わらなかったんだから同棲したって関係性は変わらないだろう。
 なんだかみんな私の心配をしてるけど、私は単純に京一郎くんと一緒に住めることが嬉しくて、忙しさがあまり気にならないくらいには浮かれている。




 帰宅を知らせるワン切りから十五分ほど経った頃、玄関の鍵が開けられる音が鳴った。
 布巾で濡れた手を拭いてキッチンを出ると、丁度目の前に京一郎くんの顔がぬっと飛び出してきたので、「わっ」と肩が跳ねる。驚いた私を一瞥し、彼は「なにびっくりしてんの」と言いながら首を回した。

「思ってたよりこっちまで来るの早かったから……おかえり、京一郎くん」
「…………ただいま」
「あは。まだ言い慣れない感じするね」
「別に同棲して初めて使った言葉でもないのにね」

「まったく不思議なもんだよ」と肩を竦める。ジャケットを脱いでソファに掛ける背中に「もうご飯よそう? お風呂も沸かしてるけど」と言うと、京一郎くんはぐるりとこちらを振り返り……何故かぎゅっと顔を顰めた。
 戸惑っているとも不満があるとも形容しがたい表情にエプロンをまだ着ておくべきか脱ぐべきか判断がつかず、無言の眼差しに応えて無言で首を傾げる。

 腰の紐を後ろ手で弄びながら京一郎くんの言葉を待っていると、彼はややあって「きみ、どうしちゃったの?」と無表情のなかに少しの苦味を混ぜ込んだような表情で言った。
 ますます言われている意味がわからなかったので無言のまま続きを促す。京一郎くんはネクタイを緩め、言った。

「一人暮らしのきみんとこに僕が飛び込んだり逆だったり……不定期のお泊りイベントしかなかったから疑問にも思ってなかったけど、新詩、きみって実家暮らしの時からそんな感じだったのか?」
「"そんな"って……主語がないよ。頭いいんだからもっとわかりやすく話してよ」

 ぎゅっと眉を顰めた。割と普段からしている、いつも通りのやり取りだったと思うけど、京一郎くんは珍しく「えー」とか言って顎を擦る。

「つまり、家事なんか一日二日放置したって死にはしないんだから、もうちょっと適当に生活を送ったら、という提案」
「別にそんな、極端に丁寧な暮らしをしてるつもりはないけど……そんなようなこと、昼間職場の子にも言われたなぁ」

 京一郎くんはぐるりと部屋を見回す。
 閉められたカーテンも、乾拭きまで済ませ天板がつやつや光るダイニングテーブルも、水切りラックに並ぶ一人分の食器も、きちんとハンガーに掛けてある上着も、もうすぐ沸くお風呂だって。私にとってはごく当たり前の生活の一部だ。祖母がいた頃からずっと続いている習慣だ。
 一人暮らしをしていた期間は多少サボったり手を抜いたりしていたこともあったけど、京一郎くんがいる今はその当然だった生活を取り戻している。一つ一つを数えながら、記憶をなぞり、再現するように。
 ずっとこんな風に暮らしてきたし、料理は嫌いじゃないし、洗濯や掃除だって溜めないで都度済ませた方が私は楽で。無理していることも嫌なことも特になくて。
 だから余計に、口々に心配される理由がわからない。

 困っているのが表情に出ていたのか、京一郎くんは居心地悪そうに唇を尖らせ目を逸らした。
 別に険悪でもない、けれどなんとも言えない妙な空気が漂い始めた気がしたので、さっさと手を振って「で!」と話の流れを切った。

「ご飯先にするか、お風呂先にするか、どっちにする?」
「……飯先にするから風呂は先入っておいでよ」
「わかった。お味噌汁あっためるね」
「それくらい自分でやるって」
「いいよ、手洗ってきて」

 踵を返してキッチンに戻る。小鍋を火にかけながらふとリビングの方に視線をやる。
 京一郎くんはネクタイを緩めたまま、その場に立ち尽くしてぼんやり何かを考えているようだった。
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