月でも蓮でも臓腑でも

「僕が新詩の知らない異性にモテてたらどう思う?」

 眠りに入る直前、隣で京一郎くんが突然そんなことを言い出したので、目を閉じたまま「んー」と唸りながら、告げられた言葉を脳内でもう一度繰り返す。今まさに寝ようとしていたので、一度で言葉の意味を飲み込むことが出来なかったのだ。
 京一郎くんが? 私の知らない女の人に? モテてたら?

「えーと……秘めたる願望の話とかしてる?」
「そういうのはないけど、参考までに」
「なんの参考なの……」

 正直京一郎くんがモテるという図が想像出来ない。こんなことを言ったら思い切り頬っぺたとか耳とか抓られそうだけど。
 私は京一郎くんの外見も中身も好きなので除外するとして、私以外の女の人は普通京一郎くんに男の人としての魅力をあまり感じないんじゃないだろうか?
 別に京一郎くんがかっこよくないと言っているわけじゃない。背は高いし、目は細いけどパーツ一つ一つはすっきりしていて、不機嫌な顔をせずに黙って立っていたらかっこいいと思う。

 でも実際、彼は物事をかなり斜に構えて捉えるタチだし、負の系譜の感情ばかり表情に出るし、面倒臭がりかと思ったら神経質なところもあるし、こうして今にも寝落ちそうだった私を急によくわからない質問で叩き起こしてくる。
 ……自分がいかに京一郎くんに骨抜きにされているかがはっきりくっきりわかってしまうのでこれ以上は考えたくないけど、つまり――世の中には京一郎くんより親切だったり、優しかったり、素直な男の人は星の数ほどいるので、わざわざ彼を選んでアピールしそうな女の人はそういないんじゃないかな、というのが私の客観的な回答だった。

「……そりゃあ、嫌だな〜とは思うよ。人並みにはね。でも京一郎くんがモテてるっていう事実より、数いる男の人の中から京一郎くんを選んだ人の事情の方が気になっちゃうなぁ」
「ほう。その心は?」
「人質か弱みでも握られてるのかなって思う」
「それ自分にもブーメランなのわかってて言ってる? きみ僕のことなんだと思ってんの?」

 じゃあ私は特異点ということで。「人質にとられる家族もいないしね」と笑うと、彼はうつ伏せに枕を抱いたまま不服そうに息を吐いた。
 そういう話はしてないね。はい。

「というか何の話だったの? 現実にモテてるの?」
「さあね。あくまで参考だから」
「釈然としない……」

 憮然とした気持ちで瞼を上げる。京一郎くんはわざとらしく口角を上げ、掛け布団の上から私のお腹あたりをポンポンと叩いた。
 なかなか寝付かない子供を窘めるような表情と手つきだ。どうして起こされた側の私がこんな扱いを受けているんだろう?


 ――京一郎くんによる謎の問いかけと行動の理由を漠然と察することになったのは、そんなとりとめもない会話から数日後のこと。


 その日は夜から宮崎先生とスープカレーを食べに行く約束をしていた。お互い絶対に残業するわけにはいかない、とLINEで意気込んでいた甲斐あって、無事定時で退勤することが出来た。

 私の職場から宮崎先生(と京一郎くん)が働いている壮望会第一病院までは車でニ十分ほどかかる。別に明確な待ち合わせ時間があるわけではなかったけれど、宮崎先生を待たせてはいけない、とパンプスを鳴らし急いで駐車場に停めてある車に乗り込んで病院への道のりを辿った。約束のスープカレー屋さんは駅から少し離れた場所にあるので、私が車で迎えに行く算段になっていた。
 病院までのルートは実際に使うことはあまりないが情報としてはずっと頭の中にあったので、迷うことなく駐車場まで辿り着くことが出来た。LINEで宮崎先生に≪着きました。病院内まで行きます≫とポチポチ。
 実は京一郎くんにも伝えたいことがある。けれど彼は"帰宅コール"以外の連絡への反応が頗る悪い。LINEもメールも一応使えるには使えるものの、緊急の内容でもない限りは滅多に既読はつかないし返信も来ない。昼間に送ったメッセージの返事を夜帰宅した彼の口から直接聞くことの方が、実は多いのだった。

 そういうわけで一度車を降り、病院の入口を通過したあたりで端に寄って宮崎先生か京一郎くんを待つことにした。大きな病院らしい革張りのベンチソファがあったので腰を下ろす。
 この短時間でスマホには宮崎先生からの返信が表示されていた。ロック画面には、

≪了解です! すぐにエントランスまで向かいます!≫
≪あの やっぱりくるまでまってもらってもい≫
≪くるまでおねがいします≫
≪もうエントランスにいますか?≫

 と、怒涛のメッセージが。
 ……なにかあったのかな、と首を捻らざるを得なかった。特に後半。三行目なんて文字変換もしていないし多分文章が途中で途切れている。
 とりあえず私がエントランスにいると都合悪いらしい、ということだけを読み取り、じゃあ車に戻るか、と座ったばかりのベンチソファから腰を上げる。
 頬にかかった髪を耳に掛け顔を上げたところで名前を呼ばれた。

「新詩さん……! ごめんなさいお疲れ様です……!」

 息切れ気味の宮崎先生の声。
 慌てて走って来たのはボサボサの髪とその形相から窺えたけれど、理由の方は思い当たるものがない。「お疲れ様です〜」と片手を振ると、その手首をガシッと宮崎先生の手が掴んだ。

「す、すいません。今さっきLINE見たところで……入ってきたら不味かったですか?」
「いえ、新詩さんはなんにも悪くないんですけど! でも行きましょう! 病院出ましょう!」
「えーと、急いでます? 京一郎くんにもちょっと用事あるんですけど……それともまだ仕事終わってない?」
「ききき岸先生はその、えーと、しっ仕事が! そう仕事がまだ山積みで! ご機嫌もすこぶる悪くて! 地獄みたいな様相で!」
「あら……」

 ご機嫌斜めなら余計に家に帰ってきてから当たられたくないし用件済ませたい。でも宮崎先生の慌てっぷりから察するに私がここにいては不味いんだろうなぁ。
 うーん、と考えている間に宮崎先生は先ほど走ってきた道と私の顔とを忙しなく見比べ、やがて「ご、ごめんなさい!」と振り絞り掴んでいる私の手を引いて走り出した。

 ただし、目指した先は病院の外ではなく私が座っていたベンチソファ――の更に後ろ。柱の陰になるちょっとした空きスペースだった。

「み、宮崎先生?」
「すいませんごめんなさい、でも鉢合わせたらもっと地獄なので……! 本人が自分でなんとかするって言ってたのでぇ……!」
「本人?」

 宮崎先生につられて柱の陰でしゃがみ込んんだとき、定時はとっくに過ぎて患者も少ないロビーの奥から響いてくる靴音を聞いた。二人分の足音だったけれど、片方は京一郎くんのものだと直感した。
 私の手を掴んだままの宮崎先生がこの世の終わりとばかりに眉を歪めぎゅっと瞑る。縋るような小さな両手が微かに震えているので、ひとまずこの場所から様子を窺うことにした。

 彼と出口に向かって歩いているのは女性のようだった。声が若いので、たぶん私よりも年下だろうと思った。
 こっそり外の様子を覗くと同時に、女性が「先生、どうしても駄目ですか?」と甘えた声ですたすた歩く京一郎くんの腕を掴んで引き留める。
 おお、と内心びっくりした。
 心なしか宮崎先生が私の手首を掴む力が強くなった気がしたのでそちらに視線をやると、宮崎先生は上着のポケットからスマホを取り出し、メモ帳アプリを開きポチポチと文字を打って画面をこちらに向けてきた。

≪すいません。新詩さんには何も喋るなと岸先生にきつく言われていたので説明出来ませんでした。見ていて気分がいいものじゃないですよね≫

 気分がいいとか悪いとか……それ以前にあれは何なんだろう? 私は今何を見せられているんだろう?

「駄目というか意味がないでしょう。自分で言うのも何ですけど、貴方からしたら年上のおっさん――しかもよりによって僕みたいな奴と飯に行ってどうするんです? そろそろこのやり取り飽きません?」
「おっさんなんて思ってないですよ、岸先生は素敵です。年上とか年下とか、そういうのは関係ないです。岸先生だから、私はお誘いしてるんです。諦められないんです」
「……そりゃまた奇怪なことで……」

 "僕が新詩の知らない異性にモテてたらどう思う?"――数日前、眠い目を擦る私を叩き起こしてまで彼が問うてきたことを唐突に思い出した。
 それで大体のことがわかってしまった。

 はーっ、と音が出ないよう溜め息を吐くと、宮崎先生はびくりと肩を揺らした。けど心配されるような精神状態ではこれっぽっちもない。
 急にどっと疲れたような、呆れてしまったような……奇妙な気持ちにまとわりつかれながら、ひとまず困惑から解放された私は、京一郎くんを捉まえている女性を観察することにした。

 背は低い。平均身長と比べても小柄な部類だろう。丸く大きな瞳の周囲はピンク系のアイシャドウで控えめに縁取られ、光の加減でラメが光り濡れているようにも見える。衣服は完全に病院のスタッフっぽいので、多分壮望会の人なんだろう(ナースさんとは少し雰囲気が違う気がする)。
 華奢な手足で、髪はすっきりまとめてあって清潔感がある。少し厚めの唇はうるうるしていて全身の輪郭がふんわり丸い。
 医療従事者と言うよりは大手企業の受付嬢と言った方が雰囲気的に相応しい気がする、人当たりのよさそうな若い女の子。

「申し訳ないんですがセクハラで訴えられたら間違いなく僕が敗けるので、そういうのは無理です」
「セクハラなんて! 私がそんなこと言うと思ってるんですか?」
「思ってますねぇ」

 ……ますますなんであんなモテそうな若い子がわざわざ京一郎くんに絡んでるんだ?
 宮崎先生のスマホを借り受け、≪大体のことは把握しました。あの女の子は病院の人ですよね?≫と打ち込んで返却する。

≪医療事務の新人さんです。詳しくはわからないんですが、どうやら岸先生を本気で狙っているらしく……≫
≪珍しい。私もあの人も指輪してないから既婚者だってわかんないですよね。それにしたって歳の差かなりあるような気はするけど≫
≪それがどうやら未婚既婚関係ないらしいですよ≫

 ぴくり、と目尻が震える。画面を覗き込んで眉を顰めた私に苦笑して、宮崎先生は≪壮望会に来る前、他所の病院の既婚者の先生と問題を起こしてたらしいです。細木先生が本人から聞いた話らしいので嘘ではないんじゃないかと≫と打ち込んだ。
 なるほど。かなりの大物だったか。

 そういうクラッシャー然とした、既婚者にばかり惹かれる人が一定数存在することは承知している。けれど身近にはいなかったので、旦那をとられそうになっている危機感よりも「実在したんだ……」という驚きの方が強い。
 まあ、医者は特に稼ぎもいいしね。実際京一郎くんもかなりお金あるし。これといった趣味もないし。
 私がショックを受けていると思っているのかはらはらしている宮崎先生と、別にショックは受けていない私が見つめるなか、彼女は患者や職員が周囲にいないのをいいことに、京一郎くんの懐に擦り寄った。
 セクハラで訴えられるとしたら決定的証拠はあれになるだろうなぁ。

「岸先生、年下は駄目ですか? 私は年の差なんて気にしません。岸先生みたいにかっこいい年上の男の人、いいなぁって思うんですけど……」
「……かっこいい? 僕が?」

 庇護欲をそそられる縋り方をしている女の子のつむじを見下ろし、京一郎くんは鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべている。無罪の証明のためか両手は宙に浮いていた。
 珍しい褒め言葉かもしれない。私も「かっこいい」はあまり言わないから。

 数秒沈黙したのち、京一郎くんは「初めて言われたな。具体的にはどこが?」と女の子の肩をやんわり掴んで引き剥がしながら言った。初めてではないだろ、嘘吐くな。

「えー……ちょっと恥ずかしいんですけど……」
「はあ、僕も別にそこまで興味がある訳じゃないんですけどもね。貴方には僕がどう見えてるのか疑問に思ったもので」

≪新詩さんはどこがかっこいいと思いますか?≫
≪宮崎先生、さてはちょっと余裕出てきたでしょ≫

 画面を見せると、宮崎先生は照れ笑いのような表情を浮かべおずおず頷いた。私がけろっとしているので、そこまで大事ではないことが伝わったのかもしれない。
 いいか悪いかで言ったらまだどちらかは決めかねているけど、まあ、この場で誰かがどうにかなるような事態でもない。とりあえず宮崎先生が責任を感じるようなことにはならずに済みそうで一安心だ。

「背が高くて……手足が大きいのも男の人って感じがしてドキドキします。スタイルもいいから、きっとスーツ以外も似合うんでしょうね。あ、スーツももちろんお似合いですけど……」

 会話の内容に進展があったと踏んだのか、京一郎くんの外見を褒める高い声は饒舌だ。京一郎くんは彼女の言葉が止むまで黙って口を閉ざしていたが、やがて「はあ。なるほど」と心底からどうでもよさそうな声音で頷いた。
 細められた双眸がすっと冷えていくのを見留め、私は内心でああ、全然響いてないな……とあれだけ喋らされたにも関わらず何も功を奏していない女の子の方に若干同情的ですらいる。

 京一郎くんは言った。

「貴方が今しがた褒めて下さった僕の全ては、妻のためにあるものです」

 淀みなく淡々と告げられた言葉に、一分の隙もない微笑みを湛えていた女性の表情が微かに引き攣るのが見てとれた。
 言外に「妻がいるのでお前に興味は微塵もありません」と温度のない双眸が語っている。最初からそう言って断ればいいのに。既婚者であることを先出しすると何か不味いことでもあったんだろうか?

 隣で宮崎先生が何故か感極まったように両手で口元を覆っているので、なんだか気恥ずかしくなってきて俯いた。私と京一郎くんの名誉のために補足したいが、彼は普段そんなことをそんな言い回しで口にするような人ではない。
 こんな風に回りくどい言い方を、あんな風に冴えた目で語るときは、大抵私や彼自身に、彼にとって不快なことを吹き込む相手を煽るつもりのときだと知っている。
 欲しくないときに欲しくない褒め言葉を受け取ったらまず相手が何を考えているのか注意深く探るような人だから、当然彼女が口にした彼の外見についての評価は彼の心まで届いてはいないんだろう。

 そしてこれは恐らく長いこと京一郎くんと時間を共にし言葉を交わしてきた私だから言えることだけど、彼はあまり自分や他人の外見に美醜にはこだわりがない。
 直接彼がそうだと言ったことはないけれど、職業柄急激に太ったり痩せたり、身体の一部が欠けたり、外見が大きく変化する人を見ているからかもしれない。そんな彼に外見への褒め言葉はあまり有効じゃない。
 そのうえ京一郎くんは、受け取りたいときにしか褒め言葉を受け取ってくれないのである。そういう偏屈なひとなのである。

「僕の外見が貴方みたいな若い女性に評価されるんであれば、少しは自信を持てるってもんだなぁ。いやぁ嬉しいなぁ」
「……き、……岸先生、奥さんいたんですか……?」

 甘ったるい表情を浮かべていた丸い顔がわかりやすく引き攣っていく。
 既婚者と知って「マジか」と自分の不利を悟ったというよりは、「この人結婚してたのか」という驚きの方が強そうだった。
 彼女の気持ちは、すこしだけわかる気がする。京一郎くんみたいな、見た目が涼やかでお金もある頭のいい変わり者はまず独身だろうという先入観が思考に介入してきてしまうだろうし、そんな変人を愛したい、あわよくば更生させたい、みたいな願望はあの年ごろの女の子なら少しは考えてしまいそうだから。

 しかし現実として、彼は変わり者ではあるけれど確かな自分を持っているから彼女がどう振舞ったとしても――たとえ私が今更何かを訴えたとしても、大きく変わることはない。
 蜂蜜をとかしたみたいな声や、柔らかい身体や、いい匂いのしそうな髪を揺らして迫ったとしても、岸京一郎に影響を与えることはこれっぽっちも出来ない。既婚者年上ハンターとして熟練であるはずの彼女は、決して彼を仕留めることは出来ないのだということを、彼女は知らない。

「はい。そういう訳ですから、業務時間外の世間話も食事もしませんよ。少なくとも貴方とはね。……あ、この話はあんまり広めないでください。これ以上面倒に遭いたくないんで」

 白々しく言って首を傾けた京一郎くんに小さな声で何事か言ってから、褒め損となった彼女は意外にも逃げるように院内へ戻っていった。
 その後ろ姿が見えなくなるまでじっと目で追ったのち、京一郎くんはこちらに視線を流し「盗み見・盗み聞き・密談でビンゴじゃん」と言った。

 宮崎先生が肩を震わせ顔色を悪くしたけれど、私は正直セクハラの件くらいからこちらに気付いているだろうなぁとなんとなく予想していたので、それほどの驚きはない。
 大人しく柱の陰から出ていくと、京一郎くんは「きみがここにいるってことは宮崎先生はミッション失敗した訳だ」と理不尽に弟子を責めるような口ぶりで言いながら、今しがた去って行った女の子の触れていた胸元あたりをぱっぱと手で払う素振りをした。

「いやいや、宮崎先生に何やらせてんの。何にも関係ないのに、どうせ"鉢合わないように早く連れ出せ"とか言ったんでしょ」
「夜飯食いに行くって聞いてたから。あちらさんとはランダムエンカウントシステムだから避けようもないし、宮崎先生を上手く使うしかないだろ」
「だからって可愛い弟子をこんなことに巻き込むんじゃない。"そういうの無理です"で済む話でしょう」
「あちらさん、嫁がいようがいまいが関係ないって聞いたからさぁ。同じ断り文句じゃ効力イマイチだったらこっちも労力の無駄遣いだし。色々パターンは必要じゃん」
「あなたの労力より宮崎先生の心労の方を心配してるの。巻き込んでいいのはお互いだけだって、京一郎くんが言ったんだよ」

 遅れておずおず出てきた宮崎先生が、俄かな口論の気配を察知してか不安げな表情で私と京一郎くんの顔を窺っている。
 でもたぶん、彼の様子からして今私が何を言ったとしても、言い返してきたり噛みついてきたりはしなさそう。
 私があの若い女の子に接近を許したことではなく、あくまで宮崎先生に心労をかけさせた点に静かに怒っていることは伝わっているはずだ。目の前の彼は頬を掻き、やがて「……ヘイ、スイマセン」ともにょもにょ口を蠢かした。
 理解はしたけど納得は正直してません、みたいな表情に息を吐き、くるりと宮崎先生に向き直る。

「ごめんなさい宮崎先生。わけわかんない上司のごたごたに巻き込んで」
「あ、いえ、私は何も……! むしろすいません、役に立てなくて……」
「気にしないでいいからね。私は特に何も思ってないので」
「えー……旦那が自分より若い女に狙われてるのにぃ……?」

 どの面下げてか不服そうにそう言った京一郎くんの胸元を、握ったこぶしで軽く殴る。

「"きみが心を割かない奴には何も感じない。"でしょ?」

 はた、と京一郎くんの顔から表情が消える。
 肉付きの薄い唇が小さく開こうとするが、顔を逸らして恐縮している宮崎先生の手をとった。

「さ、予定より遅くなっちゃったけど行きましょうか。じゃあね京一郎くん。もう帰るなら冷蔵庫に昨日の残り入ってるから食べちゃって。それだけ言いに来たの」
「えっあっ、お、お疲れさまです……!」

 私があまりに平然と歩き出したので、引っ張られるように宮崎先生も歩き出した。
 京一郎くんの方は振り返らなかったけど、まあ、今のでちょっとは仕返しになっていたらいいな。
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