ぼくの心臓に隠した

 今日は殊更仕事の多い日だった。
 朝森井さんによって分配される標本の比率は普段通りだったけれど、両腕にかかる重みは全然普段通りじゃなかった。
 気のせいかな、と思ったけれど、私と同じく森井さんから標本の山を受け取った岸先生の顔がみるみるしわくちゃになっていったので、「あ、全然気のせいじゃなかった」と納得したのだった。

 陽が傾き、定時を少し過ぎた頃には、私達の机の上はある程度片付いていた。
 意外なことに、森井さんから監視と催促を受けるまでもなく、岸先生はいつも以上に黙々と担当症例の診断を進め、山を成していた標本を全て片付けてしまった。お昼休憩も返上……あろうことか煙草休憩も気持ち少なめだったので、流石に森井さんと顔を見合わせて困惑していたけど。
 六時を過ぎたあたりからスマホの画面を点灯させたり壁掛け時計を眺めたりする岸先生の仕草で、なんとなくその理由を察することが出来た。

「新詩さんと約束でもしてるんですか?」
「はぁ?」
「そ、そんな凄まなくても……」

 仕事はひと段落しているのにまだ帰ろうとしない岸先生の背中に声を掛けると、先生は思い切り眉間に皺を寄せた顔でくるりと椅子ごと振り返った。
 本人が「奥さんより新詩さんの方がいいです」と言っていたので名前で呼んでいるけれど、岸先生は私が(というか自分以外の人間が)奥さんのことを"新詩さん"と馴れ馴れしく呼ぶことが気に入らないようだ。ちなみに"奥さん"と呼んでも同じくらい怖い顔をするので、最早新詩さんが話題に上ること自体を全身で拒絶している雰囲気だ。
 奥さんのことを話すのにこれだけ顔を顰める旦那さんなんて、きっと世界中探しても岸先生くらいだろうな。

 睨まれる私と険しい顔をする岸先生を見比べ、コーヒー片手に戻ってきた森井さんが「あー、なるほど」と浅く頷いた。

「そりゃ残業出来ないですねぇ。なんかの記念日とかですか?」
「なんでもいいだろ」
「えーっ、言ってもらったら私多めに症例引き受けたのに……」
「へー。言わないけど、それは惜しいことをしたなぁ。言わないけど」

 腕組をした岸先生が再び椅子ごとくるりと回ってこちらに背を向ける。もじゃもじゃの後頭部が再び時計を見上げるので、すすすとこちらに寄ってきた森井さんと視線を交わし合う。

「……で、なんかの記念日ですか?」
「だから言わないってば。なんでもいいだろ。森井くん妙にしつこいね」
「上司が実は出会った時点ですでに結婚してたことを数年越しに初めて知ったんで興味津々なんですよねぇ。あわよくば弱みでも握れないかなーと」
「私は純粋な興味です!」
「いつから病理部は地獄になったんだよ……」

 心底うんざりした風に肩を竦める岸先生は知らないし興味もないだろうけど、先生が既婚者だったことには私はもちろん森井さんも中熊先生もすごくびっくりしていた。指輪もしていないし、普段の行動・言動が妻帯者のそれにはとてもじゃないが見えなかったから。中熊先生は特に付き合いが長いからびっくりなんてもんじゃなかっただろう。
 実際森井さんは新詩さんの実在を目視で確認するまでは岸先生の幻覚か冗談の線を捨てられなかったらしい。「嫁がいるならもうちょっと早く帰る努力をしろ……」と帰り道呻いて中熊先生に宥められていた。

 結婚していることを内緒にされていたこと自体よりも、奥さんがいるのに容赦なく泊まりや残業を加味したスケジュールを組んでいたことに対する困惑や後悔その他諸々の感情で情緒が乱れたらしい。森井さんらしいなぁ、と思った。

「二人とも想定より早くノルマ達成してたんで、帰る様子もないから余裕あるならもうちょっと追加しようかな〜と思ってたんですけど、記念日ならしょうがないよな〜と。記念日ならね、しょうがないっすよね。ね、宮崎先生」
「そうですね、記念日なら!」
「今日だけで1.5日分の症例片付けたよね? まだ増える余地あったの?」
「あるに決まってんでしょ。ウチが万年人手不足なの忘却したんですか」

 「っはぁー……」という深い溜め息が狭い室内に重く響く。幸せが根こそぎ逃げていきそうな溜め息を吐いた岸先生は、やがて観念したように小さくぼそりと「……結婚記念日」と白状した。
 け、け、結婚記念日!

「そういうリアクションうざいよ。他所の記念日なんか知って何が楽しいのさ」
「他所のって……そりゃあそうですけど、おめでたいことじゃないですか。祝われて失うものもないでしょうし」

 森井さんを見上げると、彼は湯気の立つコーヒーに口をつけながら「むしろ得るものしかないでしょうが。これから愛しの嫁とディナーなんだから」と言った。目が据わっている。どういう感情が籠もっているのか私にはわからなかった。

「森井くんなんか恨み籠もってない?」
「別に恨んでないですよ。俺が彼女と別れた頃にはすでに奥さんいたんだなーなるほどなーと思ってるだけです」
「えー……なんかごめんね?」
「今日も今日とてぶん殴りてえ面だな」

 ……なんだか私が知らないところで因縁が生まれていたみたいだ。
 触らぬ森井さんに祟りなし。なむなむ。



 結局、岸先生のスマホが通知音を鳴らしたのは、仕事を終えた私と森井さんが「じゃあお先に……」と病理部を後にしようとしたまさにその時だった。
 必然的に三人揃って同じ退勤ルートを辿ることになる。途中すれ違った稲垣先生が「病理部仲良しだよね!」とサムズアップしながら通過していったので、岸先生の不機嫌レベルはしっかり上昇した。靴音と舌打ちで一曲奏でられそうな勢いである。
 まさかこの地の底を這うような精神状態のまま新詩さんと合流するのかな、と不安が脳裡を過った頃、ふいに岸先生の足が止まる。ついでに舌打ちも止まった。
 別に足並みを合わせていたわけじゃなかったけれど、真ん中を歩いていた先生が立ち止まったので自然と森井さんと私も一拍遅れて足を止めた。

 視線を辿った先には、ピンク色のコートを着た新詩さんがいる。
 寒さのせいか頬は微かに赤い。伏し目がちに、道路を行き交う車をぼんやり眺めていて、こちらに気付く様子はない。
 綺麗な横顔だ、と同性ながら思わず感心してしまう。もともとの優しい顔立ちが濃すぎない化粧で引き立っている。泣き黒子がどこか物憂げな雰囲気を足していて、大人っぽいセクシーさもある。

 ガラス窓越しに洗練されたまるで女優のような横顔を眺めながら、ああ、岸先生が好きになるのも納得だな、とひとりで頷いた。
 岸先生の心が外見情報だけでどうにかなるようなことはもちろんないだろうけれど、それでも、あの人が岸先生と並んで歩いていることにある種の説得力みたいなものを感じたのだ。

 ――そりゃあ、あんなに綺麗な女の人の隣を歩くのに舌打ちなんかしていられないよなぁ。

 ちらり、と岸先生の方を窺う。
 それまで不機嫌絶好調だったのが嘘みたいに静かな顔になっていて、鞄の持ち手を握り直したと思ったら無言で歩みを再開させた。まるで吸い寄せられるみたいに、ぐんぐん新詩さんの方へ。
 長い脚で進んでいく岸先生に置いて行かれまいと、何故か私達も早足に。

「……あれ。皆さん一斉退勤? 仲良しですね」

 新詩さんのもとに全員で辿り着いたので、岸先生の半歩後ろで立ち止まった私と森井さんとを見比べ、彼女はそう言いながら微笑んだ。
 近くでよくよく見れば、笑うときに出来るえくぼとか、目尻の小さなしわとか、人間らしいところはあったけど、それでも新詩さんは洗練された強いひかりを放っていた。もっと笑っている顔が見たいな、と思わせる不思議な魅力。
 見ているだけで安心して肩の力が抜けてしまうような独特のオーラを持つ、岸先生曰く"魔性の"微笑みで病院から出て来た私達を迎えてくれた。

 つられてニコニコ笑ってお疲れ様です、なんて言っていたら、くるりと振り返った岸先生が「ハイじゃあ解散。お疲れさん」と手を一つ叩く。
 まあ確かに。今日ばかりは世間話もそこそこに追い出されるのも仕方がない。なんたって"記念日"だから。
 箒で掃くみたいに岸先生の長い腕が私と森井さんを敷地外に追い出そうとするので、なんとか両足で踏ん張りながら「新詩さん!」と首だけで振り返った。

「はい?」
「結婚記念日、おめでとうございます!」
「おめでとうございます。今年で何年目なのか今度教えてくださいね」

 私と森井さんが口を揃えてそう言うと、新詩さんははじめきょとんと目を丸くして何も答えなかった。
 やがて眦を下げ嬉しそうに笑ってくれたので、私まで嬉しい気持ちになってしまった。岸先生が本気で私達を排除しにかかっているので、落ち着いてその幸せに満ちた表情を見ることは叶わなかったけれど、きっと世界一素敵な笑顔だったに違いない。

「宮崎先生、森井さん、ありがとうございます! おやすみなさい!」
「おやすみなさい!」

 冬の夜の街のなか、仏頂面の岸先生と並んで歩くだろう新詩さんの笑顔を思い浮かべる。
 大好きな奥さんの隣でも変わらず感情表現に乏しい岸先生と、まるでそれを補うように笑ったり驚いたりする新詩さんの姿は、いいなぁ、の一言に尽きた。
 上手く表現できないけど、とにかくしっくりくる。いい感じだと思った。そんな二人がこれから二人だけで記念日をお祝いしに行くことも、とてもいいと思った。


* * *


「……いつまでニヤニヤしてんの」
「だって嬉しいんだもの。"記念日おめでとうございます"なんて言ってもらえたの、多分初めてだよ。私があまりに京一郎くんの話をしないから、職場でもなんとなく私に旦那の話はタブーみたいな雰囲気出てるし」
「へえ」
「興味ないね。まあいいんだけど。人からお祝いしてもらったら、なんかこう、京一郎くんと出会って、結婚して、結構経ったんだなって……時間の経過をすごく感じたって言うか。嬉しくなっちゃって」
「そ」
「うん」

「……行こっか。予約何時だっけ」
「十九時」
「じゃあのんびり歩いても大丈夫だね」
「この寒いのにのんびり歩くの? 凍え死ぬよ?」
「お散歩のつもりで。歩いてたらあったかくなるよ」
「きみ時々体育会系みたいなこと言うよねぇ……ゴリゴリの文化部出身なのに……」
「はいはい歩いた歩いた」
「大体さぁ、歩いてたら温かくなるとか言うけどこの速度じゃ信号がさぁ――」
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