僕らの今日を結び続ける

 祖母と住んでいた――昔は家族三人で暮らしていた実家を手放すことになった時、忙しさに目を回しながらなんとか一人暮らしに丁度いい物件を探している私に、京一郎くんはずっとついていてくれていた。
 ようやく治安がよく、職場からほどほどに近い物件に引っ越しを終えると、私は彼に新居の合鍵を手渡した。

 大きな手のひらに乗せられた鍵はやけにちっぽけに見えた。京一郎くんは片手に乗せられた、まだキーホルダーもつけていない簡素なそれを見下ろし、私の顔と見比べていた。

「……いーの?」

 優しい顔つきとは嘘でも言えない彼が、まるで思わぬご褒美を与えられて動揺する子供みたいに小さな目を私と鍵との間でうろうろ彷徨わせるので、堪えきれず笑いながらうん、と頷く。

「物件探しから引っ越しまで全部一緒にやってくれたし、付き合ってるんだし」
「いんや、そうじゃなくて」
「うん?」

 現在京一郎くんが一人暮らしをしているマンションからここまでは車でおよそニ十分弱。新居は駅が近いので電車を使えばもうちょっと早い。
 私はすでに彼の部屋の合鍵を受け取っているので、これからは仕事帰りにこっそりご飯を作って帰ったりできるな、と思う。

「寝てる時間にドカドカやってきたりするかもよ。それも頻繁に」
「そこはコソコソ入ってきてよ、私が寝てるんなら」
「頻繁なのはいいんだ……」

 彼が嘘でもフリでも頻繁に私に会いに来ると言うなら、嫌がる理由なんてない。どんなことを思っているのか、なんだかよくないことを考えていそうな感じで顎を擦る京一郎くんの上着の袖をくいと引っ張った。
 それだけで縦に長い身体を少し屈めてくれる察しのいい彼氏とひとつキスをして、「じゃあ、今日は……いや、ここ数日間ありがとうね」と彼に手のひらを見せる。私のちっぽけな手に自分の手のひらを重ねてハイタッチ(と呼ぶには元気が足りないけど)を返し、京一郎くんは頷いた。


* * *


 外廊下を歩く靴音が微かに聞こえる。大きな音ではなかったけれど時間が時間なのではっきり聞こえた。
 心の中でさん、に、いち、と数えてみたら、ぜろ、で玄関の鍵が回される音が鳴った。タイミングの読みはばっちりだ。
 横たわっていたベッドのうえで身体を起こし、静かに扉を開けた京一郎くんを出迎えると、電気の点いていない暗がりのなか彼が目を丸くするのが朧に見える。

「起こしたか?」
「ううん、起きてた。おかえり、おつかれさま」
「……ただいま」

 京一郎くんが靴を脱いでいるのを眺めながら、緩む口元を枕に埋めて隠すべくうつ伏せに寝転んだ。
 ただいま、とかおかえり、とか、自分以外に帰ってくる相手がいないと使えない言葉だ。いつもより遠慮がちに開錠された鍵も、ゆっくりめに開かれた扉の音も嬉しくて笑顔が浮かんだ。

 それ以上何を言うでもなく、京一郎くんは鞄を置き、クローゼットの中から自分の寝巻を探り当てると、のろのろとお風呂場の方へ消えていった。疲れているんだろうな、と一目でわかる足取りだった。
 だって言うのにマンションの自分の部屋ではなく私のいるこのアパートを選んで帰ってきたところが、とっても嬉しい。別に顔を合わせたからと言って会話が弾むことはないけれど、そこにはわかりやすい安らぎを求める心がある。
 両手に抱えるものを人の何倍も目の細かい篩にかけて選び抜く京一郎くんが、夜風を纏ってこの部屋へやってきたことが、私にとっては他の何よりも大きかった。


 お風呂場からシャワーを使う音が聞こえている間、私はここ数日間のなかで一番穏やかで甘い微睡みのなかを漂った。このまま微睡んでいたい、とらしくもなく永遠を願ってしまうくらい、愛しい十分弱だった。
 京一郎くんのシャワーは基本烏の行水気味なので、私の浅い眠りはすぐに終わりを迎えてしまう。このまま眠れたら健康にはいいんだろうけど、彼が枕元でしゃがみ込んだ気配がするので、閉じていた瞼を上げた。

「なんだ、今度こそ本当に寝てるのかと思ったのに」
「京一郎くんがあともーすこし長くシャワーを浴びていてくれたらそうなってたかもね」
「……風邪を引けと……?」
「そんなことは言ってないです」

 拗ねたふりをして顔を背けると、京一郎くんのほかほか温かい手のひらが私の頭に触れた。別にもっと適当に……というかもう少し力を込めても私の頭は裂けたり割れたりしないのに、何故だかいつも私に触れる彼の手つきは手加減に手加減を重ねたような慎重さをはらんでいる気がする。
 頭の形を確かめるように触れる手のひらに擦り寄る。ベッドの脇にしゃがみ込んだ京一郎くんから発せられている温かい空気が心地よかった。

「……慶楼からここまでの間に交差点あるだろ。とんかつ屋がある」
「あの、看板の文字がやたら大きい?」
「そう。きみがここに引っ越してから、あの交差点で迷うようになってさ」

 ころりと寝返りをうち仰向けになって京一郎くんの方を見上げた。静かな声音の通り、彼は私の頭に触れたままぼんやりとカーテンの閉じている窓の方を見ていた。
 例の交差点の景色を思い出しているのかもしれない。

「自分の部屋に帰るか、きみのところに帰るか」
「……迷ってくれてるの? ――選んでくれてるの?」
「うん。またひとりでぴーぴー泣いてないかなーとか思うし。ぼかぁ心配してんの」
「そ、そんなに泣き虫ですかね私……」
「他所じゃ知らないけど僕の前じゃ結構泣いてるよ」

 新詩は泣いていないか。孤独に負けていないか。眠れているか。
 こんな時間に家まで行って嫌な顔しないか。とかね。

 まるで昨日食べた献立を羅列するみたいに結構淡々と彼がそう言ったので、私は否定したり怒ったりする気も起きず、力が抜けるみたいに笑みを浮かべた。
 彼のやることなすことに嫌な顔をした記憶はほとんどないのでもし本気でそんなことを考えているなら被害妄想と言うほかない。というか、私が嫌な顔をしたとして京一郎くんはどう思うんだろうか。特段それにショックを受けるとか傷付くとか、そういうことはしないと思うんだけど。

「なんだかそういうのだけ訊くと、私って留守番が出来ない子供みたいだね」
「そんなに卑下しなくても。留守番は出来るだろ」
「…………なんか妙につっかかってくるね? なに? どうしたの?」

 肘をついて上体を起こすと、頭に触れていた彼の手が離れる。
 彼はしゃがみ込んだままの姿勢でがっくり項垂れると深いふかい溜め息を吐き、それからしばらくして観念するように小さく「……まだ寝るな」と呟いた。
 どこか幼さの透けて見える口調と、それとは対照的に掠れた低い男の人の声がちぐはぐだ。
 私はきょとんと瞬きを何度か繰り返して首を傾げた。

「……珍しい。いつもは寝ろ寝ろって言うのに」
「やっとの思いでギリギリ日付変更前に滑り込んできたのに十五分やそこらで寝られるのは結構堪える」

 おや? と違和感を覚えたのはほとんど同時だったと思う。
 窓の外からこちらに戻ってきていた京一郎くんの視線が"しまった"とばかりに再び逸れるので、私は胸の底に落っこちてきた違和感を確信へと進化させた。
 何かを言おうとして、けれど脳内が処理落ちでもしてしまったみたいに言葉は出てこない。口を小さく開けたまま、数秒私も視線を彷徨わせた。二人して黙り込む、妙な沈黙が夜更けの部屋に染みわたっていく。
 先に再起動したのは(珍しく)私の方だった。聞き間違いじゃなければ今のは"寂しい"の類語だったはずだ。

「…………ちょ、ちょっと、京一郎くん、ぎゅってしよう、ぎゅって」
「いや、今のは言葉の綾……口が滑った。それはもう、どうかと思うくらいツルツルだった」
「口が滑ったってことは本心なんでしょ」

 「くそっ」と心の底から本音を口にしてしまったことを残念がっているような風に身を捩る、素直じゃない京一郎くんの首に腕を回してぎゅっと抱き着いた。文句を言っているくせにしっかり私の背中と腰を手で支えてくれるあたり、本当に素直じゃない。
 だってそりゃあ、表現の婉曲具合は具合はさておき「まだ話していたい」と言われたら、抱き締めたくもなるってもんだろう。好きな人にそんなことを言われて嬉しくない人間が果たしているんだろうか?

 もともと眠りが浅いのもあって彼が訊ねてくる夜は大抵玄関の開く音で目が覚めていたけど、彼が「起きなくていい」とか「寝てろ」とか言うので素直に寝直すことが多かった。
 これからはもうちょっと起きて話をしていよう、と心に誓った。

 おかしさと愛しさで笑いながら「じゃあ髪乾かしてきて、ベッドに来るまで待ってます」と言うと、彼は漠然と後れをとったのが悔しいらしく、ニコニコ笑っている私の身体をベッドに押し戻す。

「お気遣いなく。……お互い明日も仕事だろ」
「ううん。待ってるよ。だからはやく戻ってきてね」

 首を振ってそう言うと、彼は口に入れられたものが何なのかまったくわからないみたいな曖昧な表情で口を蠢かしてしばらく黙っていた。
 やがて、悔しさでちょっとくさくさしているように見える背中がのそのそと洗面所へ戻っていく。口では色々言いながらも、すぐ聞こえてきたドライヤーの轟音に耳を劈かれ、ぼんやりと天井を眺めた。

 ちょっと様子がおかしいのは疲れているからだろう。目の下の隈が少し出ている。単に忙しいだけなのか、寝る間を惜しんで考えることがあるのか――私にはわからないけれど。
 ともかく、そういう時の眠りに関して私は京一郎くんより先輩だ。眠れない夜を耐え抜く方法も、泥に沈むように眠る感覚も知っている。
 こういう時、何をするでもなくただそばに自分以外の誰かがいる夜にだけ訪れる安らかな眠りがある。
 いつもは与えられてばかりの私が、今夜は京一郎くんにそれを与える側になるのかもしれない。ただ眠るだけだけど、ベッドの上で小さく握りこぶしを作った。
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