十の指から滲み出たい 中

 地獄と思うほど冷え切った空気のまま、車は京一郎くんのマンションに到着した。今更自分のアパートまで戻ってなんて言えるわけもなく、多分おそらく確実に怒っているはずの彼が、けれどもいつものように助手席のドアを開けてくれるので、小さく「ありがとうございます……」と囁いて車を降りた。
 それには答えず、京一郎くんは後部座席に置いていた荷物を全て回収すると車に鍵をかけ、最後に空けた片手で私の手を掴んで歩き出す。
 歩幅はもはや癖になっているのか、私に合わせた小さめの一歩。でもこちらを振り返らないし、お喋りもない。
 廊下を歩く革靴の靴音はいつもより冷たく、乾いて聞こえた。

 扉の鍵を開けた彼に玄関へ引き摺り込まれる。
 昨日まで彼は二日間、私のアパートに泊まっていたから、この部屋に人が立ち入るのは二日ぶりだった。空気が冷えている。
 重い音を立てて扉が閉まると、いよいよ外界の音や空気から遮断され、私達は二人きりになった。

「上がんないの」
「あ……いや、お邪魔します……」
「ハイ、どうぞ」

 居た堪れない。悪いのは完全に私なので余計に。
 京一郎くんはあくまで普段通りを貫き通すつもりのようで、それに異議を唱えられない私も普段通りに洗面所で手洗いを済ませ、物の少ない部屋のベッド……ではなく床に正座する。

 コンビニで買ってきた袋の中身を粗方冷蔵庫に移し終え、ほとんど空になったビニール袋片手にやってきた京一郎くんが、そんな私を見て目を眇めるので、大人しくギロチンを待つ罪人のような心境で「VDに別れ話はちょっときついです……」と項垂れた。
 彼は「は?」と首を傾げる。

「新詩、別れたいの?」
「わ、別れたくないよ! だからこうして謝罪の意を……」
「何が悪かったのか本当にわかってんのかね」

 行動は普段通りを装っていても、声音は明らかに不機嫌そうだ。戻ってきた彼がベッドに腰を下ろすと、衝撃でマットが軋みを上げた。
 どこから何をどう謝ったものかと言葉に困っていると、京一郎くんは唐突に「じゃあ出して」とこちらに手のひらを見せた。
 それが佐々木さんからのチョコレートを指しているのだとすぐにわかったので、慌てて鞄から例の黒い小箱を取り出して差し出す。京一郎くんは小箱を受け取ると、こういうマジっぽさが余計気持ち悪いな、と吐き捨てるように呟き――そのまま私の背後にあるゴミ箱にそれを投げ入れた。
 驚いて振り返ると、彼は「まさか律儀に食うつもりだったのか?」と淡々と問うた。

「や、そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ何? あれはどういう意図で受け取って鞄に仕舞い込んで帰って来たんだ? ――男から貰ったモンだろ」

 京一郎くんの手が首元に差し込まれる。肩に掛かるまで伸びた髪を除け、指先が首筋に触れる。その感触に肩を震わせながら、嘘だけは吐くまいと腹を括った。

「……確かに私のこと、好き……だったみたいだけど、彼氏がいるならって。でもこれだけでも受け取ってほしいって言われて……断るのも悪い気がしたから……」
「へえ。僕には悪いと思わなかったわけ」
「……京一郎くん、あんまり気にしないと思ってた」

 首筋を掠めて遊んでいた指が顎を掴む。目を逸らすな、って言われているみたいで、恐る恐る彼の顔を真正面から見上げる。
 ひどく真剣な表情に、ああ、私彼を傷付けたんだ、と今更胸が掻きむしられるような苦しさをおぼえた。

「言っただろ。"他の害虫おとこなんて許さない"って」
「……うん……」
「大前提、他人への警戒心が怖いくらい足りてないんだ。まともな感性してたら今頃とっくに男性恐怖症か極度の人間嫌いになっててもおかしくない経験してきたから、それが新詩にとっての自己防御なんだって認めてたよ。そういう風に生きないときみは世界丸ごと嫌いになっちまうんだって重々承知してた、今まではね」
「……」
「でもそれを認めてると、きみの中の好きとか愛とかそういうものがわからなくなる。きみは誰にでも笑うし誰にでも親切だ。僕にも、彼氏がいるとわかっていながらブランドもののチョコレートを渡してくるような奴にも。僕とそいつは同列なのか?」
「ち、違う。そんなことない……!」
「僕が気にしないんだと思っていたなら、それは僕らの前に現れた奴ら全員にきみが怯えていたからだ。きみが心を割かない奴には何も感じない。虫相手に嫉妬だ憎悪だって馬鹿らしいだろ」

 「でもきみはそいつが渡してきたものを『悪いから』と思って受け取って帰ってきた」と静かに言われ、何度も頷いた。本当はひどく怒られてもおかしくないことをしたはずなのに、京一郎くんは声を荒げることなく、淡々と言い聞かせるように私の目を見て言う。
 それらの仕草や声音の一つ一つが私の罪悪感を的確に刺激してくるので、私は完全に親や上司や先生に叱られているような素直な気持ちで項垂れた。大声を出したりしないぶん、京一郎くんの怒り方は心にくる。全部私が悪いし。

「僕以外の男全員と金輪際関わるな、とは言わないが、せめてこういう気は許すな。物を贈るのも、贈られるのも、僕だけにしろ」
「うん。……ごめんなさい。軽率だった。いやな気持ちさせてごめん……」
「わかればいい。……VDにかこつけて男のいる女にプレゼントなんて、感覚が麻痺してるだけでそいつも充分おかしいからな」

 京一郎くんが溜め息を吐く。顎を掴んでいた両手が外され、両腕を広げて「おいで」と言われたので、膝立ちになって彼の懐へ控えめに身を寄せた。
 ぎゅう、とハグ。……仲直りの印なのかな、これは。
 様子を窺うように顎を上げると、頬に口づけが降ってきた。

 いつもなら軽いキスで終わるのに、今日は頬に始まって額、瞼、耳、そして唇へと満遍なく唇が触れていく。
 背中に回っていた大きな手もいつの間にか腰に回って、……いつもと様子が違う。京一郎くん、と名前を呼ぶとキスの雨が止み、代わりに額同士が合わさった。
 灰色がかった瞳を至近距離で見上げ、漂ういつもと違う空気にそわそわしていると、京一郎くんは「嫌か?」と掠れた声で言った。

「え……?」
「……今までは新詩の言う"大好き"が他にいないならそれで満足してた。どうもきみは僕のこと、お気に入りのタオルとか置物なんかと同じ気持ちで見てる時があるみたいだ」

 そんなことない、と否定しようと薄く開いた口にやわく噛みつかれる。まだ喋ってるから、と窘められたようだった。

「け、いちろ、くん……」
「別にそれでもよかったけど、"モノ"は"人間"には勝てないだろ」
「だ、だから、京一郎くんはそんなんじゃないよ」
「なら、確かめさせて」

 背中がびくりと震えてしまった。息を潜め、少し火照った顔を上げる。

「新詩にとって僕が間違いなくヒトで、僕がきみの男なんだって、確かめて、信じさせて」

 腰を抱く手が、頬に触れる指先が熱い。
 静かな声音とは裏腹に苦しそうな双眸をしていて、胸がぎゅっと痛くなった。不安の元凶が私なら、その揺らぎを埋められるのも私だけ。

 ――流石に彼の言っていることの意味がわからないほど純情じゃない。
 わかったうえで、彼ならいいと思った。彼が望むなら、私は私を差し出しても構わない。

「……いいよ」

 彼の肩口に額を擦り寄せ小さく頷いた。

「好きなだけ、確かめて」

 もうどうにでもなってしまえ。京一郎くんの手が言葉なくネックレスの金具に伸びたのを受け入れながら、そっと目を閉じた。
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