十の指から滲み出たい 上

「十四日、夜、会社の前まで迎えにいくから」
「え? あ、うん」
「店ももう予約してあるから。イタリアンね」
「……え……えー……?」

 呆然と顔を上げると、キッチンでコップに水を注いできた京一郎くんが隣に腰を下ろした。いつも通りのように見える横顔に「どうしちゃったの……?」と訊ねると、彼は細い目を更に細めてべつにと言って天井を仰いだ。

「あれだけ熱心に評価の高い飯屋を片っ端から調べて、普段買わない雑誌まで買ってたら嫌でも気付く」
「えー、やだ、違うよ、そんなつもりなかったのに……というか私がこっそり予約してサプライズしようと思ってたのに……」
「きみが僕に内緒事なんて出来ると思ってたのか?」
「思わないから頑張ってたつもりだった……」
「バレバレですわぁ」

 別段そわそわしていたつもりはなかったけど、特別鋭い観察眼をお持ちの京一郎くんには私がディナーの美味しいお店を調べていたこともバレンタインのプレゼントを用意していることもお見通しだったらしい。
 テレビのリモコンを両手で持ったまましょんぼりする。京一郎くんの大きな足が私の足をちょいちょい突き始めた。私が項垂れたので様子を窺っているようだ。
 嫌じゃないよ、嬉しいよ、と彼の肩に頭を預ける。

「はっ……まさかプレゼントの中身まで当てたりしないよね? ないよね?」
「…………答え合わせしたいのかい」
「その間は怪しい! やめて、プレゼントはあるけど渡すまでそのことは考えないで!!」

 京一郎くんが「なんでそんなサプライズに拘るかねぇ……」とコップを傾け水を一口。
 なんでと訊かれたって大層な理由はない。でも、昔の私は母や祖母から突然渡されるプレゼントが嬉しかったし(私が鈍くて気付いていなかっただけかもしれないけど)、プレゼントがあるとわかっても渡されるまでその正体を考えるだけでわくわくしていた。

 その楽しくて嬉しい――温かな気持ちを京一郎くんにも感じてほしい、と思うから彼にサプライズを仕掛けようと挑むのだけど、どうにも私の隠蔽力を彼の推察力が大きく上回りすぎて勝負にすらなっていないみたいだ。
 ……でもよく考えたら、プレゼントをサプライズで渡されてわかりやすく喜ぶ京一郎くんじゃない。きっとリアクションは「わぁ」とか「へぇ」とかだ。

「まあ、精々十四日は早く帰れるようにお互い頑張りましょう」
「はぁい。頑張ります」


 そんなこんなで迎えた二月十四日。十八時。

 今日という今日は早く帰るため、前日から仕事の調整をして宣言通り頑張った。
 十八時くらいには会社の近くに車停めるから、と朝家を出る前に言われていたので、会社のエントランスから外を窺うことにした。流石に外で待つのは寒い。

 オフィスを出る前に化粧室で身だしなみは一通り確認したし化粧も直したけど、入口のドアが開閉するたび冷たい空気が吹き込んできて髪が乱れる。
 何度か浮き上がった前髪を手で直していると、「いたいた、沖花さん!」と声をかけられた。
 聞き馴染みのある声に振り返る。エレベーター横にある階段の方からこちらに駆けてきたのは同僚の佐々木さんだった。

「お疲れ様です。ど、どうしたんですか……?」
「気付いたら沖花さんいなくなってて、女子達が沖花さんもう帰ったって言うから慌てて追いかけて……」
「え、えー……なにか事件でも起きました?」

 肩で息をする佐々木さんは何度か深呼吸をし、上気した頬で朗らかに笑って首を横に振った。
 同僚がダッシュしてくるなんて、用件は不測の事態が起きて残業確定くらいしか思いつかなかったから、佐々木さんが首を振った瞬間強張っていた身体から力が抜けた。今日は絶対残業出来ない日。大学病院から迎えに来てくれる京一郎くんを一人で帰すわけにはいかない。
 でもそうなるとわざわざ走って呼び止められる理由に心当たりがないので、大人しく佐々木さんの言葉を待った。

「ごめん、なにか用事ある? 急いでたり……」
「用事はあるけど、急いでるわけではないよ。待ち合わせしてて」
「それって社内のやつと?」
「……ええと……」

 エントランスにいたからそう思われたんだろうか。ただ外で待っているのは寒すぎるからここにいるだけなんだけど、なんだかそれを素直に言えるような空気でもない気がした。
 なんだか妙に突っ込んでくるなぁ、と言い淀むと、佐々木さんは「あ、ごめん」と胸の前で手を振った。

「沖花さん、今まで毎年VDは普通に仕事して帰ってたから、今年こそは飯でも誘おうと思ってたんだ。でも、約束があるんだね」
「は、はい」
「そっかー……いや、そうだよな。沖花さん可愛いし、彼氏いるよなぁ」

 今までのVDは私が京一郎くんにチョコレートを渡すだけで終わったり、そもそも十四日に都合が合わず週末にご飯を食べに行ったりしていたので、当日はいつも通り仕事をしていた。彼氏とのデートあるから、と定時で帰りたい同僚の仕事を引き受けて逆に残業をしていたこともあった。

 残念、と佐々木さんは苦笑いを浮かべ肩を落とした。今年こそは、なんて思われていることを今の今まで全く知らなかったので、私は驚くばかりで気の利いた言葉は出てこない。
 おろおろしていると、佐々木さんは鞄の中を漁り、綺麗にラッピングされた手のひらサイズの小箱を差し出してきた。

「これ、飯行けても行けなくても渡そうとは思ってたんだ。チョコレート、受け取ってくれると嬉しい」
「え、いやでも……」

 昼間、部署の女子全員でお金を出し合って買ったチョコレートは男性陣に配布済みだ。ラッピングの丁寧さと有名なチョコレートブランドのロゴを見れば、それが女性社員全員に佐々木さんが用意したお返しなどではないことを嫌でも察してしまう。

 断る言葉が咄嗟に出てこなかったのは、佐々木さんの表情や眼差しに嫌なものを感じなかったから。
 ……彼氏のいる男性に明らかに本命のプレゼントを渡す女性はどうかと思うけど、私達は立場が逆だし、京一郎くんもそこまで気にしないだろう。むしろ「いいとこのやつじゃん。一口」とか言いそうだ。うん。

 躊躇いを振り切るように手を伸ばし、ピンクのリボンが結ばれた黒い小箱に触れた。
 私がおずおずと両手で小箱を受け取ると、佐々木さんはわかりやすくホッとした顔になる。

「……彼氏いるので、気持ちには答えられませんけど、そう言うなら、受け取ります」
「うん、ありがとう。ごめん、気持ち悪いよな。完全に俺の自己満足だし……食べたくなかったら帰って捨ててもいいから」

 佐々木さんがあまりにホッとした表情で微笑むので、自然と私も微笑んでしまう。
 ――成人してからこういう展開で男の人とトラブルにならないのは久し振りだったので、私も心底ホッとした。安堵の気持ちが大きすぎて、チョコレートを受け取るくらいどうってことないような気になった。

 微妙な空気感で笑い合っていると、コートのポケットに入れていた携帯が着信音を鳴らす。きっと京一郎くんだ。
 佐々木さんは穏やかな面持ちで「それじゃ、また明日」と私の横をすり抜けてエントランスから出て行った。
 その背を見送り、チョコレートの小箱片手に携帯を取り出して応答ボタンを押した。

「はい。……うん、もう終わってるよ、エントランスにいる。そっち行くね。……え? いいよ、すぐそこだし――」


* * *


 会社近くのパーキングにいた京一郎くんと合流したあとは、彼が予約してくれたレストランでちょっぴり緊張しながらイタリアンを楽しんだ。
 「別に飲まなくてもいい」と言って車を運転してくれた彼だけど、私には「飲みたいなら飲みなよ」と淡々と言ってくれたので、私は少しだけワインをいただいた。

 ちなみに明日京一郎くんは全休、私は午前半休を取っているので、京一郎くんのマンションに一緒に帰る。コンビニに寄って追加でお酒とおつまみを少し買い、マンションに着いたらプレゼント贈呈式の計画だ。
 見慣れた道のりの途中でコンビニの駐車場に入り、シートベルトを外した京一郎くんが「適当に見繕ってくる」とこちらを向いた。

「え。私も行くよ」
「足取りがちょっと不安なんだよ酔っ払い。大人しく待ってろ」

 はっきりそう言われてしまったので唇を尖らせてみせる。
 膝の上に乗せていた鞄の口を開き、昼間会社で同僚達と交換したり頂いたりしたお菓子を取り出していくと、京一郎くんがどんどん「うわぁ」とうんざりしたような表情になっていった。別に食べろとは言ってないのに、表情豊かだ。
 リアクションがおかしくて、一つ一つ取り出し「これは部長が配ってくれたおいしいやつでね」「これはすっごい並んだって言ってた」と解説をしていく。絶対途中で「はいはい行ってきます」と逃げられそうだな、と思っていたら、ピスタチオチョコレートの小袋を摘まんだ私の手を突然京一郎くんが掴んで止めた。

「……それは?」

 車内に響いた声は硬い。良くも悪くも平坦だった彼の声が突然険のあるものに変わったので驚きながら、京一郎くんの視線を辿った。
 鞄の奥底にある、ピンクのリボン。ブランドのロゴが金色に輝く黒地の小箱。
 京一郎くんは口を閉ざした私の顔をじっと見つめている。私の答えを待っている。

 急激に喉が渇いていくような感覚。
 声が出ないのは、自分の予想が綺麗に外れてしまったことを悟り始めているから。

「別に難しいことは訊いてないだろ、新詩。――それは誰から貰った?」

 彼の全身から漂い始めた不機嫌がわからないほど酩酊はしていない。
 凍り付いて何も答えない私をしばらくじっと見つめた後、京一郎くんは掴んでいた私の手首から手を放した。その手が頬骨のあたりを掠めていく。
 大袈裟なほど肩が震えたのと同時に車のドアが開いた。

 京一郎くんは降り際、一言「帰ってから改めて訊く」と言ってコンビニに向かっていった。
 ……彼へのプレゼントは合流した時から別の袋に入れて後部座席に置いてある。佐々木さんに貰ったチョコレートだけ他のお菓子と比べて明らかに見た目が違うから、どう説明したって京一郎くんは誤魔化されてはくれないだろう。
 違和感を持たせてしまった時点で、この小箱を視界に入れてしまった時点で私の負けだ。失敗だ。

 車内に取り残された私は頭のなかで渦巻く後悔の最中、もしかしてここから別れ話に持って行かれたりするのかな……とこの世の終わりを覚悟することとなった。
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