きみの曳いた薄い海

 はっと気が付いたとき、私は斎場にいた。
 白っぽい室内に黒い椅子がいくつか整列していて、最奥には花に囲まれた棺がある。なんだか見覚えのあるようなないような光景に、私はああ、夢かとすぐに思った。
 母の時と祖母の時はそれぞれ違う葬儀社に依頼をしたけれど、斎場の雰囲気自体は似通っている。母の時はもう詳しいことまでは思い出せないけど、こんな感じだった気がする。

 私は遺影の前に立っている。遺影は室内の照明が強すぎるせいでよく見えない。誰の葬儀なのかが重要なのに、誰の写真を飾っているのか見えない。
 夢とわかっていてなお困惑しているのは、この夢が一体母と祖母のどちらの葬儀の記憶を再生しているものかわからなかったからだ。出来れば母であってほしいと思う。そちらの方がダメージが少ないから。
 母の享年に年が近付きつつある私にとって、十六の頃に事故死した母の記憶はほとんど過去のものになっている。薄情な娘だろうか、でも別に母のことを忘れているだとか祖母の方が大事だとか、そういうことではない。
 ただ事実として、母が死んでからもう十年以上経っている。だから過去のことなんだと……悲しみを日常生活と同時進行させられるくらいには、私はそれの扱いを心得ていた。
 正直な話、十年以上経つ喪失の記憶や苦しみが今現在の記憶と同じ比重で心の中にあったとしたら、人間の心は壊れてしまうだろう。
 時間の力を借り、母を亡くした記憶を小さく小さく圧縮し、普段は奥底に仕舞い込んでしまう。やがては祖母の死もそうなるだろう。今より小さくまとめて、日々思い出すことの中から移動させることが出来るようになるはずだ。

 ――では、この葬儀の記憶はどちらなのだろう?

 遺影から視線を落とすと焼香台がある。
 それをぼんやり見下ろしていたら、背後から突然「新詩」と名前を呼ばれた。振り返って、呼び声の主を見たとき、自然と口から「ああ……」と声が洩れた。

 私を呼んだのは母だった。
 目鼻立ちは祖母と瓜二つなので顔のパーツ自体はくっきり見えたが、全体の輪郭はぼんやりしている。母の存在そのものが、今見ているものが全て夢であることを如実に物語っている気がした。

 私の記憶が作り出した母は喪服に身を包んでいて、気遣うような、悲しげな表情を浮かべもう一度「新詩」と言った。

「つらいだろうけど、しっかりしなさい」
「……うん、……うん」

 なにがつらいのかはわからなかったけれどとりあえず頷いた。こうなると、目の前にある遺影は祖母のものかな。
 正面に向き直り、相変わらず眩しくて見えない遺影の方を凝視する私の肩を、いやにはっきりした感触で母の手が掴んで擦ってきた。

「そんな様子じゃ、彼も心配で逝けないでしょ」
「彼……?」

 掴まれた肩が痛い。沖花家にこうして私が夢を見るような関係の男の人はいない。祖父と面識はない。父親だって。
 じゃあ一体誰が?

 ますます困惑しながら立ち尽くしていると、ふいに霧が晴れるように遺影を照らしていた強すぎる光が消える。
 写真には見覚えがある顔が映っていた。

「京一郎くん……」

 ――ああそう、私、夢の中でまで置いていかれる練習をしてるのか。

 ぞっと背筋を駆け上った悪寒が脳を貫く絶望にすり替わる。同時に、呆れた。手足はがたがた震えているくせに心はいやに冷え冷えしていた。
 そんなことのために私は、夢の中とはいえ京一郎くんを殺したのか。
 彼が先に逝ってしまうことが怖いから。見知らぬなにかに彼を連れ去られるのが恐ろしいから、先に彼を殺してしまった。

 なんて醜悪。彼を殺してしまうくらい彼のいない世界が怖いなら、あの遺影は私の写真であるべきなのに。


* * *


「新詩」

 肩を掴む痛いくらいの力に揺さぶられて目が覚めた。
 金縛りにでも遭っていたみたいに強張った身体と、上手く呼吸が出来なくて軋む肺が苦しい。目を開くと、至近距離に京一郎くんの顔があった。前髪を上げてスーツ姿だから、帰ってきたばかりなんだろう。
 どうやらリビングのソファで眠ってしまっていたらしい。久しぶりに定時で帰って、ご飯を作ってからの記憶がない。

「新詩、起きろ。見えてるか?」

 呆然と何も言わない私に、京一郎くんは片手を振って見せる。ぐったりしながら頷く。のろのろと首に手を伸ばして触れると、ひんやりした汗が滲んでいて気持ち悪かった。
 痙攣する胸を鎮めるために深呼吸するよう努めながら、呼吸の合間に「おかえり」と微笑んだ。
 冷や汗で少し湿気った私の髪を除け、京一郎くんは曖昧に顎を引いた。

「今何時……? いつ帰ってきた? ご飯作ってたのに食べてないの、食べる? 温めるよ」

 私が思ったことを一気に口に出すと、彼はぎゅっと眉間に皺をつくって口を噤んだ。そしてソファで上体を起こしていた私を抱き起して座らせ、その隣にどっかり腰をおろし「きみが急に沢山喋り出す時はさ」と小さな声で言った。

「大体大丈夫じゃない時だって。自覚ないんだろうけど、きみは余裕がない時ほどよく喋る」
「……そうかな……」
「息の仕方もわからなくなるくらい嫌なものを見てたくせに、取って付けたみたいに笑おうとするな」

 京一郎くんが言うなら、きっとそうなのかも。
 額に手を当て俯くと、京一郎くんの手が私の首裏を掴んで引き寄せる。彼の肩口にすり寄り震える喉から冷たい息を吐いた。外のにおいがする。……心臓が動いている。
 そのことに心底安心してそっと瞼を閉じた。涙は出ない。
 悲しみは溶けて涙になるが、絶望は涙を枯らす。私が夢のなかで味わった感情は絶望だった。彼を殺してまで自分の心を守ろうとした自分への。

 自分への憎悪と失望で、彼の背中に縋ることが出来ない。

 動かず、何も答えない私に焦れたように、京一郎くんの手が投げ出していた私の手を緩く掴む。大きな手のひらにすっぽりと包まれて、存在を確かめ合っているような手つきだ。
 ……何も言わず岸くんの心臓の音に耳を澄ませていたら、その音を邪魔しないよう自然と小声になった。

「……言葉にしたら余計不吉なことが起きそうな夢だった」
「ふうん。でも世間一般じゃ悪夢は口に出した方が正夢にならないとか言うよ」
「うん。でも、言いたくない。悍ましくて、口にするのも恐ろしい」

 囁くような声音で、けれどはっきりそう言った私を抱き締めたまま、京一郎くんはしばらく無言で何かを考えたあと、やがて身体を離した。

「根掘り葉掘りしていくと余計頑なになるからな。……飯あるんだって?」
「うん、ある」

「鮭焼いたのと、ご飯と、お味噌汁……」言いながら時計を見る。二十時、まだそう遅くはない。「……があるよ。食べる?」京一郎くんは頷いた。
 私はまた微笑み、覚束ない両足に力を入れてソファから立ち上がり、キッチンに向かった。記憶の通り、グリルには焼けている鮭が入っていて、コンロにはお味噌汁の鍋があったし、炊飯器は早炊きで炊いたご飯が仕上がっていた。
 京一郎くんから帰りますコールがきた直後に仕上がったものだったので、蓋を開けてみたらお味噌汁はまだほのかに湯気を立てている。そう長い時間居眠りしていたわけではなかったらしい。

 コンロに火を点け鍋を温め直していると、リビングの京一郎くんがネクタイを緩めながら鞄を回収し部屋に引っ込んでいく足音が聞こえてくる。
 そういう一連のささやかな生活音に緊張の糸が解かれていくのを感じ、お玉を右手に握ったまま深い溜め息を吐いた。



「なんか冷たいもの飲みたい」

 お風呂上りの京一郎くんがそう言いながらキッチンを覗き込んできたので、私はがぱりと冷蔵庫を開けて見せる。
 中には作り置きの麦茶と牛乳パック、それから彼が「くさい」と言って憚らない市販のピーチティーが入っている。ピーチティーはペットボトルで、私が毎日コップに少量注いで少しずつ楽しんでいるやつだ。
 どれにする? と実質二択を視線で問いかけると、彼は扉を押し開ける手とは反対の手で私が持っているコップの中身を指差して「それピーチティー?」と言った。

「そうだよ。でも飲まないでしょ。くさいんだもんね」
「それでいいや。それがいい」
「えー? いつもは飲まないじゃん、私がフレーバーティー飲むたびにくさいくさいって……」

 まあ本人が飲むって言ってるんだからいいか、と冷蔵庫の中にあるペットボトルに手を伸ばすと、視線を逸らした隙に京一郎くんが私の持っていた飲みかけを掻っ攫った。それに反応する間もなく、彼はそれを一気に飲み干してしまった。
 まだ一口しか口をつけていなかったので、私は思い切り「あ〜」と無念の声を上げる。彼は空になったコップを私に返却すると、去り際に「甘……」と独り言のように呟いていた。

 ……無言で掴んだペットボトルの蓋を開け、空にされたコップに再度紅茶を注ぐ。こういうこともあるよね。彼のこういう類の奇行にはもう慣れっこだ。
 基本コーヒーかお茶しか飲まない京一郎くんだけど、たまに……ごく稀に私の飲んでいる飲み物を欲しがる時がある。けれど差し出したからと言って嬉しそうに飲んだり、気を遣って「おいしい」と言ったりすることはまずない。
 あれは一体どういう意味があるんだろう。出会って十数年、一緒に暮らし始めてから五年以上が経つけど、いまだによくわからない。

「……くさくないし。言うほど甘くもないし……」

 空になったコップは洗って水切りラックに逆さ置きし、歯磨きをして寝室に引っ込む。
 隣の京一郎くんの寝室に向かって「おやすみ」と声を掛けると、ドア越しに「んー」というゆるい返事が返ってきた。
 ベッドに潜り込んで天井を見上げ、細く息を吐きだしながら目を閉じる。

 またあの夢見たらどうしよう。目が覚めて、……覚めるだろうか。京一郎くんが起こしてくれなかったら、私はあの最悪な夢のなかでどうしていただろう。
 果たしてひとりであれを夢だと割り切り、自分の醜さと幼さに向き合えるだろうか。

 何も思わずに済むまっさらな眠りに沈むことが出来るよう祈りながら、緩やかに呼吸を鎮めていった。



 浅い眠りの淵を彷徨っている頃、寝室の扉が開く。
 京一郎くんが開けたのだと気付いて、瞼を開け「なにかあった?」と顔だけを扉の方に向けて訊ねると、前髪を下ろした彼が「大人しくベッドにいるか確認」とだけ答えた。

「なに。子供じゃないんだから」
「別に寝相の心配してるわけじゃないよ」

 ぱちりと目を開ける。壁に肩を凭れさせて立っている彼と数秒見つめ合う。
 目を逸らしてくれない彼の眼差しに困って苦笑すると、京一郎くんはぐしゃぐしゃと頭を乱雑に掻き回して溜め息を吐いた。

「今夜はこっちで寝ない?」
「……やだぁ、さみしいの?」
「馬鹿言え、僕が寂しがったことないだろ」

 吐き捨てられたぼやきに笑いながら身体を起こし、のろのろとベッドを出た。たった数メートルしかないはずの距離がいやに遠く感じる。
 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、京一郎くんはそのたった数メートルの距離のあいだ私の手を掴んで離さなかった。

 彼の寝室に入ると、掛け布団を捲り私にベッドに入るよう促す。本人はまだ寝るつもりはないらしく、そばにある机のテーブルランプが橙色の柔らかい光を灯していた。
 机に積まれた本や雑誌を一瞥してベットに潜り込む。グレーのベッドシーツと深い紺色の布団からは京一郎くんの濃いにおいがした。……私のベッドに潜り込んでくる京一郎くんも、同じようなことを思っているんだろうか。
 同じ柔軟剤と洗剤使ってるのに、私と彼とではにおいが違う。彼のは煙草のにおいが混じって、もっと苦くて深い。

 横向きに寝返りを打ち、家具屋さんで二人で色々言い合って選んだ肘掛け付きの椅子に座った京一郎くんを見上げる。
 本を捲る長い指の手つきを目を細めて眺めていると、空いている方の手が伸びてきた。指の背で蟀谷のあたりを撫でてくるので、大人しく瞼を下ろしてそれを受け入れる。
 一緒の空間にいて私が眠ろうとするとき、京一郎くんは身体が空いている限りは私に触れていようとしてくれる。背中に触れていたり、髪を梳いていてくれたり、こうして頬や蟀谷を撫でてくれたり。
 小さく身動ぎすると、肌に触れていた指が動きを止めた。

「くすぐったい?」
「うん、ちょっと……でも嫌じゃない」
「そ」

 視線は医学雑誌に落としたままだけど、私が緩く首を振ると、京一郎くんは撫でる指の動きを再開させる。
 ゆっくり瞼を下ろすと、視界いっぱいに闇が広がり、私が感じられるものはごく僅かになった。
 頭上で捲られる紙の音。自分の心音。呼吸の音。
 彼のにおい。蟀谷を撫でる指の温かさ。

 心地よさに心を委ねたら、指先からじわじわ力が抜けていく。悪夢の名残を引き摺って強張っていた身体がようやく解けていくような感覚。
 あんな夢はもう御免だけど、たぶん次に目が覚めた時、きっと京一郎くんは隣にいてくれるはずだ。顔を見て、身体に触れて、心音だって聞くことが出来る。

 そう思ったら、気が緩んだんだと思う。
 気怠さで重い口が「けいいちろうくん」と動いてしまった。

「ん?」
「……わたしより先に死なないで……」
「…………」

 彼は答えなかった。黙ったまま、紙を捲る音だけが聞こえ続ける。
 出来ない約束はしない人だ。私がどういう思いで口を滑らせてしまったのか大体予想がついているから、余計簡単に返事をしないんだろう。

 ありがとう――と心のなかで呟いた。
 悪夢に心を掴まれたまま動けなかった私の手を引いてくれて、黙ってそばにいてくれて、ありがとう。
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