神さまよりもきみを愛してあげられる

「新詩は春生まれなんだな」

 電車待ちをしている間、隣にいた岸くんが唐突にそう言ったので、風に吹かれる髪を押さえながら「え?」と彼の横顔を見上げる。
 彼が一言一句正確に復唱してくれた言葉を脳内で反芻しながら「そうだよ」と頷く。……数秒後、あれ? と首を傾げた。

「言ったっけ?」
「学生証に生年月日載ってるだろ」
「え! 見るタイミングあった?」
「この間映画行った時。学生証出してたよ」
「……あー、あの時かぁ」

 それはそうだけど、別にじっくり学生証の内容を精読する時間はなかったと思うんだけどな。岸くんも学生証出してたけど、私は特に見る余裕がなかったし。
 ちなみに私の誕生日はとっくに過ぎている。今は六月だ。

 「岸くんは誕生日いつなの?」と訊ねると、彼はちらりとこちらに視線をやり、ややあって「いつがいい?」とよくわからない回答を寄越した。いつがいいってどういうことだ。
 むっと口を尖らせ眉を顰めた私を横目に悪い笑みを浮かべた岸くんは、あくまで私が何かを答えるまで自分は正解を口にしないつもりらしかった。どういう意地悪なのかわからないけど、とりあえず大雑把に十二択にするか……と真剣に悩む素振りをした。

「……うーん、冬生まれっぽいよね。一月とか?」
「どこがぽいって?」
「顔の感じとか……」
「適当言ってるだろ」
「言ってない。真面目に考えました」

 ホームに電車が滑り込んできたので、岸くんの腕を掴んで半ば引き摺るようにしながら乗り込んだ。
 休日のお昼前ということもあって車内はそれなりに混雑している。壁際に背を向けて立つと、岸くんが私の正面に立ち、長い腕でつり革を掴んだ。

「で、結局何月生まれなの?」
「十月一日」
「えっ」

 車内だったのでギリギリ声を抑えたけれど、私は大きく瞳を見開いて驚いてしまった。岸くんがちょっと引き気味の微妙な表情になって「なんだよ」と肩を竦める。

「十月一日って、私達が月に一回くらい一緒に出掛けるようになってすぐじゃない。うわー、去年の岸くんの誕生日プレゼント、渡し損ねたってこと?」
「たかだか誕生日でそんなリアクションするの、きっときみくらいだぜ」

 岸くんは小馬鹿にしたような薄い笑みを浮かべ目を眇めたけれど、私はそうは思わなかった。月に一度のお出かけを楽しみにしていた去年の私も、そして今の私も、岸くんのことが大好きだから、誕生日プレゼントは絶対に渡したかった。今年もあるとかたかが誕生日とか、そういう次元の話じゃない。
 岸くんのために、岸くんの思って、何を贈るのかを大切に考えてプレゼントを渡したかったのだ。
 大好きな友達(今は彼氏か)に、「生まれてきてくれて、私と出会ってくれてありがとう」という感謝の気持ちを込めて贈るプレゼントが"たかが"なはずない。
 どうしよう、本気で悔しい。

「なんで教えてくれなかったの、誕生日だって……」
「今自分で言っただろ、"一緒に出掛けるようになってすぐ"って」

 私があまりにも本気でへこむので、岸くんは「まあ元気出しなよ」と絶妙にヒットしない慰めをぽそぽそ囁いて私の背中を軽く叩いた。
 電車が途中駅に停まった頃、よし、と握りこぶしをつくり岸くんの顔を見上げた。

「本日の予定を変更します。お昼を食べたらまずショッピングです。なんでもいいから岸くんにプレゼントを渡したく存じます」
「は? いや、そこは今年の十月まで待てよ。なんで今?」
「去年逃したぶんをどうしても取り戻したくて」

 そもそもプレゼントとかいらないし、と余計な一言を付け加えた彼の頬に手を伸ばして抓る。同時に電車が動き出したので、背伸びしていた私は揺れに踏ん張れず岸くんの胸元に寄りかかってしまった。
 肌触りのいいシャツから顔を離しつつ彼を見上げ「本当に嫌だって言うなら、秋まで我慢するけど」と小声で言うと、人相の悪い顔がぎゅっと顰められる。

「……新詩って妙なところで頑固だよなぁ」
「うん。よく言われる」

 ふい、と逸らされた視線が妥協の合図だった。
 私が体勢を直して再び壁に背を預けようとすると、岸くんの右手が腰に回った。ちらりと彼の方を窺うが、瞳は流れる窓の外の景色に向いたまま。
 ……なんだか急に照れくさくなって、こっそり俯いた。


* * *


 電車を降りて駅を出たとき、岸くんが「今後のためにルールを決めておきたいんだけど」と言い出した。
 誕生日に渡すプレゼントのことだ。今後きみが毎年そんなにはしゃぐなら僕もきみの誕生日に何かしらを用意することになるんだと思うから、と。

 多分私がこうしてプレゼントを渡し損ねて悔しいと言い出さなければ、彼は特にこの先も自分の誕生日も他人の誕生日も気にせず生きていただろう。
 でも私がそうするのなら、と求めたわけでもないのに私の誕生日プレゼントを用意する気でいてくれている彼の心がけが嬉しかったし愛しかった。

「ルールって言っても、予算の設定だけどね。あんまり高額なものを渡されたらお互い気まずいだろ」
「そうだね。五千円とか……一万円以内ならいい?」
「うん。それくらいで。超えるなら要相談。別にサプライズ性とか求めてないから。相談しろよ」 
「なんでそんなに念を押すの……」

 そんなこんなで、まずは予約していた中華のお店に行った。
 酸辣湯麺を主食に料理をどんどん食べていく岸くんを眺めて楽しんだ(私もご飯は食べたけれど)。
 それから二人で大型ショッピングモールまで歩き、男物の財布や小物、果てはネクタイや靴なんかも見に行った。

「うーん……悩むなぁ。お財布……もまだ綺麗だもんね。物持ちいいんだ」
「別に無理して買わなくてもいいじゃん?」
「あっ、鞄とかどう?」
「無視じゃん……」

 私がフロアを行き来してウロウロしている間、岸くんはブツブツ言いながらも律儀に後ろをついてきては私が差し出すものにあれこれ意見を出してくれた。最終的には自分に贈られるものだから意見するのは当たり前かもしれないけど、話していると彼の好みを知れるようで楽しかった。

 百八十センチ超えの長身を引き連れて鞄売り場を歩き回っていたら、皮製品のブースに辿り着いて足が止まった。キーケースや財布などが硝子の台に陳列されていて、全体的にシックなデザインだ。これなら岸くんが持っていても違和感なさそう。
 ちらりと彼の反応を窺うと、視線に気付いて私の顔と陳列された商品を見比べ、やがて「じゃあこれ」と濃紺のパスケースを指差す。

「なんか私が無理矢理選ばせたみたいになってる……」
「"選んでください"って顔に書いてあった」
「い、いらないならやめるよ……いらないもの押し付けてもしょうがないし」

 そう言うと、彼は顎を擦りながら「ずっと思ってたけどきみは僕を過大評価しすぎだ」と独り言のように呟いた。

「なに? 過大評価?」
「つまり、僕はきみが思っているより人間出来ていないし、思ってることを飲み込んでやるほどお優しくはないってこと」
「……じゃあ、これ私が買って贈ったら嫌じゃない? 嬉しい?」

 明確な答えはなかったが、岸くんは肩を竦めてみせた。
 そこは嬉しいって言ってよ、と思わなくもなかったけど、岸くんは彼の言う通り人間出来ていないらしいので、つまり満更でもないんだろう。私はそう受け取った。

 彼の指差した濃紺のパスケースを手に取りレジを探して辺りを見回していると、岸くんは忘れ物でもしたみたいにもう一つ――同じデザインの色違いのパスケースを手に取り「新詩はこれね」と差し出してきた。
 まったく予期せぬ言動と行動だったので、思わず口を半開きにしてしまった。
 そう言えば私、いつも一緒に出掛けるたびに岸くんの何かしらの動作に最低でも一度は驚かされて帰っていた。友達が恋人に変化しても変わらないこの感じ、ちょっと安心する。

「なに? 私は二つを買えばいいの?」
「違う、このオレンジのは僕が買うんだよ」
「???」
「この間、パスケースのチェーンを引き千切ったから新しいのを買うって言ってただろ。で、まだ新しいものは買ってない」
「そ、そうですけど」
「だからこれを僕が買う。きみの今年の誕生日プレゼント」
「え! なんで!?」
「この問答さっきしたよな。なんで今度はきみがそっち側になってんの?」

 呆れ顔で言われてはっとした。そう言えばそうだ。

 結局二人で同じ値段のパスケースの色違いをそれぞれレジでお会計し、お店を出たところで交換したけれど、まさか私がパスケース買わなきゃーと言っていたのを思い出してわざわざパスケースを選んだんじゃあるまいな、岸くん……。
 こっそり横顔を窺ったけれど、彼の真意は読み取れなかった。多分今考えたことを言葉にして訊ねたとしても、彼は本当のことは言わない気がするけれど。

「……嬉しくないの?」

 不安が表情に現れていたのか、目を細めた岸くんが一瞥してくる。観念して口角を緩めた。

「嬉しいよ。お揃いってところが特にいいね」
「そりゃよござんした」

 ……まあ、本当に不要なものならそもそも彼から提案したりはしないだろうし、いいか。これ以上追及しても嫌そうな顔をされるだけだろうし、岸くんからの好意だったら嬉しいな、くらいに思っておこう。



 目的を達成した私達はいつもの流れで駅に向かい、まだ街灯も点かない時間帯だと言うのに「家まで送る」と言って聞かない岸くんに粘り勝ちされて、結局私の最寄りまで一緒に戻って来た。
 いつもなら他に寄り道をすることもなく真っ直ぐ家まで帰るけど、今日は何だか別れがたくて、途中にある小さなカフェに岸くんを誘ってコーヒーを頼んだ。

 店にいるお客さんはほとんど常連ばかりの馴染みのお店だ。一番奥の席につくなりメニュー表を持ってきた顔馴染みのおじいちゃんが「新詩ちゃんいつの間に男つくったの」とニヤニヤしながら絡んでくるので、手を振って追い払った。
 唇を尖らせて赤くなった顔を誤魔化す私を見つめる岸くんの眼差しが奇妙だった。

「……照れてんの?」
「……照れるでしょ。こういう風に冷やかされるの初めてなんだもん」
「へー……」

 他人事みたいな生返事。なにが"へー"だ。
 疲れてしまったのかな、と少し心配したけれど、コーヒーが運ばれて来て落ち着くと、岸くんはすぐにいつも通りのローテンションなお喋りを取り戻した。なにか考え事をしていたのかもしれない。

 薄暗く、微かに音楽が流れるゆったりした空間で、気付けば一時間ほど岸くんと話をしていた。二人ともとっくにコーヒーを空にしていて、お店の外を見た岸くんが「そろそろ出よう」と言ったので、二人で四百円ずつ出し合ってお店を出た。
 五時を過ぎ、紫色に変わっている空の下を二人で歩く。
 手を繋いだりはしないけど、お店を出てからも会話はずっと続いていた。それが私達を心地よく繋ぎ止めていた。

「――だから、きみの大好きな烏龍茶も紅茶も同じ木の葉を使ってるんだよ」
「岸くんはなんでも知ってるね……ところでなんでお茶の話し始めたんだっけ?」
「きみが"家でも外でも烏龍茶ばっかり飲んでるんだよね"とか言い始めたから」
「ああ、そうだった。コーヒー飲んでたのにね」

 話題が割とコロコロ変わってしまう私も私だけど、その唐突な話題転換にも余裕でついてきてしまう岸くんも岸くんだ。
 しかも私は彼の知識と同い年とは思えない深い思考を雨のように浴びせられるのが割と嫌ではないので(祥夏には「こういう場合も破れ鍋に綴じ蓋って言うのか?」と言われてしまった)、何をするでもなく話をしているだけでも楽しくて仕方がない。

 くすくす笑っていたら、私の歩幅に合わせてゆっくり隣を歩いていた岸くんがふいに立ち止まる。それに気が付いて立ち止まると、岸くんの左手が私の顎を掴んだ。頬を押し潰されて唇が少し突き出る。
 コーヒーを飲んだあとは帰るだけだったからリップは塗り直さなかった、オレンジがかった赤色が微かに残る唇。
 私を見下ろす岸くんの顔が少し傾いた。

「岸くん?」


 なにか物言う間もなく唇同士がくっついて、すぐに離れる。

 それで私のファーストキスは終わった。


 岸くんが曲げていた背中を戻すのを目で追って、それから自分の唇にそっと手で触れた。彼は何も言わない。呆然と唇に触れ瞬いている私を見ている。様子を窺っている、と言った方が正しいかもしれない。
 私がなにかを言うのを待っているんだろうか。
 目を伏せ、考えて考えて――ゆっくり視線を上げた。

「…………なんでいま急に……?」

 熟考して出た初めの感想がそれだった。
 キスされたことに対する驚きもときめきもそれなりにあったけど、何より真っ先に頭に浮かんだのは疑問だった。
 だってファーストキスだよ。なんかこう、もっとタイミングとか、ムードとか、そういうのがあるんじゃないのか。こんな道端で、予兆もなかったし。
 困惑しながら訊ねると、岸くんは目を細め「今したいと思ったから」と淡々と答えた。

「は、はじめてだったのに……心の準備も出来なかった……」
「心の準備なんかいるのか? 口くっつけるだけなのに?」
「"だけ"って言うならしなくてもいいじゃん……いや、付き合ってるんだし、嫌なわけじゃないんだけど……」

 私が夢を見すぎなんだろうか。男の人と付き合うのは初めてだし、友達の恋バナもなんだか照れくさくて聞けずに退散していた弊害が今になって現れてしまっている。
 でもなんかこう、ファーストキスくらいはもうちょっといい雰囲気のなかでしてもよかったんじゃなかろうか。岸くん相手にそういうことを期待するのもまた少し違う気がするけど……。

 なんとも言えない微妙な気持ちでうんうん唸っていると、小さく溜め息を吐いた岸くんが「新詩」と再び私の顔に手を伸ばした。
 びくりと肩を震わせ身構えたけれど、今度は顎を掴むことはなく、岸くんの大きな手はそっと私の頬に添えられるだけだった。私が軽く上を向くことを促す程度の力だ。急に普段と違う手つきに変わったので驚いて目を瞠る。

 「心の準備は知らないけど、目くらいは閉じたら」と岸くんが囁いた。混乱した頭で言われた通り瞼を下ろす。
 吸い寄せられるように再び唇が重なって、すぐに離れた。今度は訳がわからないなりに一応キスされるとわかって身構えていたので、ほんのりコーヒー味まで感じとることが出来た。

 ぎゅっと閉じていた目を開けると、ちょうど岸くんが顔を離すところだった。
 かちんこちんに硬直している私の頬に添えたままだった手の親指で、今しがた二度の口づけをしたばかりの唇をふにふにと弄んでいる。
 私の唇に触れ続ける自分の手をまるで別の生き物を俯瞰するように見下ろしている岸くんの表情を見て、細かい思考に蓋をしていた困惑と驚きが立ち消え、代わりに照れや恥ずかしさみたいなものが急激に湧いた。
 きっと真っ赤になっているはずの顔を見られたくなくて、でも離れたくはなくて、ぐるぐるして、咄嗟に岸くんの懐にぽすりと飛び込んだ。
 岸くんの動きが止まる。

「そ、その触り方、やめて……」
「そのって、どの」
「……だから、唇……その……」

 岸くんの両手が私の肩や顔を掴む。力づくで私の顔を確認しようと意地悪心が働いているようだったけど、私も意地で岸くんの細い胴体にしがみついて顔を見せまいと必死だった。
 今顔を見られたら絶対笑われるの決まってる。性格の悪そうな顔で片眉を下げ目を細める、あの笑顔で私を見下ろすに決まってるのだ。

「……嫌だったなら、もうしないけど」

 ――でも、私の頭に手を置いた岸くんがぽつりとそう言ったので……その声があまりに静かだったので、なんだか私が悪いことをしているような気にさせられた。
 涙目のままそろそろと顔を上げる。
 夕暮れの赤紫色に顔を染めた岸くんが、案の定悪い笑みを浮かべた顔を見計らったようにぐんと近付けてきて、思わず「ひぃっ」と仰け反った。腰を支えられているので大した距離は稼げなかったけれど。しおらしさは演技だった。

「恋人に対してなんて失礼な反応するんだ」
「じゃ、じゃあ恋人らしい優しい顔してよ……!」
「充分優しい顔だろ」
「ダウト」
「急に真顔になるなよ」

 ……はあ、ドキドキした。
 こちらを見る岸くんの眼差しがあまりに仄暗く未知の鈍い光を宿していたので、内心ずっと心臓は悲鳴を上げていた。こんな目をすることがあるんだ、と新たな一面を知ったような特別感とほんの少しの怖れを胸に、いつもの顰め面に戻った岸くんから逃げるように身を捩った。
 流れに身を任せていたら三度目まで有り得そうな雰囲気だったけど、流石にもう心臓がもたない。キャパオーバーだ。
 わざと大きく暴れると、岸くんの両手が私の腰をがっちり掴んだ。

「やめ、やめてっ脇腹擽らないでっ帰るっ帰るんだからっ」
「きみの家そっちじゃないだろ」
「放してってば、これじゃバカップルみたいだよぉ……!」
「それは困るなぁ……」

 "バカップル"が効いたらしい。岸くんがスンッと真顔になって解放してくれた。
 二人で辿る帰路の足取りがいつも通りの速度とテンポに戻ったことに内心安堵して胸を撫で下ろした。
 た、助かった……。
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