知らずプリズムをふりまいて

 十九時半過ぎ。そろそろ帰るか、といつも通り"帰宅コール"をしたのが数分前のこと。
 ――手元に置いていたスマートフォンの画面がピカピカ光り、一拍の間を空け震え出したので、思わずデスクに膝をぶつけて驚いてしまった。
 表示される発信者名は"岸くん"。おかしい。普段はお互い帰宅コールには特別な用がない限り反応しない暗黙の了解があるはずなのに。

 とは言え緊急の連絡だったら困るので、震え続けるスマホを持って適当な無人の会議室に駆け込む。その間もスマホは手の中で着信音を鳴らしながら震え続け、私が応答するのを我慢強く待っていた。
 恐る恐る緑のボタンに触れ、画面を耳に当てる。

「もしもし? ……何かあった?」
『なんで出た。今すぐ切れ』
「ええ……? なに……?」

 掛けてきたのはそっちなのに、開口一番「今すぐ切れ」とは何事か。こっちはこの一瞬でスマホ紛失や乗っ取りまで考えたって言うのに。
 京一郎くんが割と突拍子もないことを言い出したり、こっちが困惑するような難解な言葉選びをすることは日常茶飯事なので腹を立てたりすることはないけれど、流石に電話に出ただけで責められる謂れはない。
 訝しむのを隠さずに首を傾げていると、電話越しに聞こえる彼の声が少し遠いことに気が付いた。環境音も何やら騒がしい。
 どうやら病院や家から掛けてきているわけではないようだった。基本電話はあまり使うことがない私達(ワン切りばかりだ)なので、益々奇妙に思えて「どうしたの?」と訊ねた。

『いいから切れ、今すぐ切……ちょっと――』

 唐突に京一郎くんの声が遠のく。代わりに見知らぬ男の人の『岸のお嫁ちゃん? もしもーし!』という元気いっぱいな声が耳を劈いた。ボリュームの調節という概念を知らなさそうな音量から察するに、多分京一郎くん側のスマホはスピーカー状態になっているんだろう。
 思わずスマホを耳から離しつつ「ど、どうも……?」と様子を窺う。

『今ねー、壮望会の近くの居酒屋で飲んでるんですぅ。俺ら岸にお嫁ちゃんがいるのつい最近知ってさぁ〜、おめでとう会みたいな? 何年遅れてんのかわかんねぇけど!』
「あ、ああ……すいません、やっぱり誰にも話してなかったんですね……夫が失礼を働いて申し訳ありません」

 口ぶりや声音から読み取れる年齢からして、恐らく今話している相手は京一郎くんより年上の、所謂先輩病理医か師匠と呼ばれる先生だ。
 京一郎くんがそういったことには無頓着――というか避けて生きる傾向にあることは重々承知しているので大人しく謝ると、環境音に混じって『夫って言った……』『マジなんだ……』とどよめく声が聞こえた。本当に、結婚してから十年近いけどよく隠していたもんだ。その謎の執念と努力には一周回って尊敬の念を抱いてしまう。
 お世話になっている恩師や同僚にまで内緒にしているところは正直どうかと思うけれど、こればっかりは私がどれだけ苦言を呈しても変わらない彼の性質だ。秘密主義というかなんというか。
 そもそも、その性格も相まってプライベートな話をする相手がいない京一郎くんなので、秘密主義を責める人間もそういないぶん余計質が悪いのだった。

『病院勤めの野郎ばっかだけど、お嫁ちゃんもよかったら混ざらねぇかな〜って思って! 岸のスマホで住所送らせるから顔だけでも見せてちょうだいよ』
「ん〜……夫はなにか言ってますか?」
『後ろでなんか文句言ってるぜ。取り押さえられてるけど。伝言ある?』

 取り押さえられてるのか……。さては相当お酒飲まされてるな。
 素面の京一郎くんがスマホを奪われた挙句行動不能にさせられるなんてそう起こり得ることじゃない。数週間前に私からの帰宅コールを聞かれたと愚痴っていた時はかなり珍しい事故を起こしたものだと思っていたけど、流石に彼も無敵ではないのでお酒が入れば多少は隙が出来る。
 それとも、結婚していたことを伏せていた罪悪感――とまではいかずとも、決まりの悪さみたいなものが彼をそうさせたんだろうか?

わかりましたと頷くのにそこまで時間はかからなかった。

「車で行きますからお酒は飲めませんけど、それでもよろしければ」
『よろしいよろしい!』
『よろしくない。来るな。そのまま真っ直ぐ帰って安らかに寝てろ』

 よくわからないことをぶつぶつ言っている夫の言葉にはフルシカトを決め込み、通話を切った。
 ……ところで、今しがた私が話していた相手は結局誰だったんだろう?


* * *


 通話を終えた後、一応化粧室でメイクを少し直して、会社の駐車場から指定されたお店の近くまで車を走らせた。
 近くにパーキングがあったのでそこに停車して、鞄を肩にかける。サイドミラーに映った自分の姿を見て、こうなるとわかっていたらもう少し綺麗な服を選んできたのにな、とほんの少し惜しい気持ちになった。
 普通に仕事をして普通に帰るつもりでいたから地味目オフィスカジュアルといった感じだ。年中スーツの京一郎くんの隣に並んだら本気の仕事人間みたいに見えるから、出来るだけお洒落なコーディネートを心掛けているんだけど。

 店内に入り「待ち合わせなんですが……」と伝えると、店の奥の方にある座敷の個室に通される。
 店員さんが引き戸を開けてくれた瞬間、現れた私を見て坊主頭の男性がパッと眩しい笑顔になって両手を振ってくれた。
 京一郎くんよりも背が高そうだしかなり恰幅のいい人に見えるけれど、笑顔になった時に覗く八重歯の感じとか、両手でピラピラ手を振る雰囲気とか、すごくこう……若々しい……。言葉はなかったけれど、電話で話していた人は絶対に彼だと強く確信した。
 ぺこぺこ頭を下げながら靴を脱いで座敷に上がる。
 坊主頭の先生以外に男の先生と女の先生、それから不貞腐れるように項垂れている京一郎くんの計四名がそれぞれ迎えてくれた。

「夫がお世話になってます。妻の新詩です」

 ぺこり、と頭を下げると何故かわっと歓声が上がった。こうして京一郎くんの知り合いや同僚に自己紹介することは今までなかったので実は緊張している。夫が、とか妻の、とか言ったこともなかった。

「……オイ岸、いつまでも拗ねてねえで紹介くらいしろ! いい年したオッサンがへそ曲げてても可愛くねーから」
「うぐっ」

 坊主頭の先生に肘で突かれ、それまで徹底して無言で私を無視していた京一郎くんは深いふかい溜め息を吐く。仕方ないなあとでも言いたげな表情である。
 濁った両目が『マジでなんで来たのきみ』と無言で問いかけてくるがこちらも無視した。

「…………正面が慶楼大学付属病院病理科長・中熊先生。その隣にウチの病理の宮崎先生。臨床検査技師の森井くん。……で、岸新詩。僕の配偶者。以上。……帰っていい?」
「むしろ十年近く結婚してたこと内緒にしててこの状況からよく帰ろうとか思えますよね」
「ボロクソ言うじゃん……」
「き、岸先生と結婚生活を送れる猛者がいたなんて……」
「僕のことなんだと思ってるのお前」

 ボロクソ言われてるなぁ。彼が職場でどういう風に過ごしているのかわかりやすすぎるリアクションだ。
 ご迷惑をお掛けして……と頭を下げると、宮崎先生が慌てて立ち上がり「いえいえそんなことは」と頭を下げてくる。その正面で森井さんは「そんなこともありますねぇ」と遠い目をしながら飲み物を呷った。
 さもありなん、と曖昧に笑うと、森井さんは驚いたように目を丸くしたあと、ほんの少しだけ気まずそうにして宮崎先生と中熊先生側に移動し、京一郎くんの隣を譲ってくれた。もっと気の強い人かと思いました、すいません、だって。まあ京一郎くんを見てたらそんな気がするよね。
 会釈して座布団の上に座る。中熊先生が「何飲む? 酒飲めないんだっけ?」とメニュー表を渡してくださったので、少し悩んでから烏龍茶を頼んだ。

 こういう時、京一郎くんが率先して間に入ってくれると私も先生方も話しやすいと思うんだけど、世界が滅んでも彼がそんな役割を買って出るわけはないし、そういう気遣いが出来る人でもない。
 それは多分共通認識だったんだろう、中熊先生が私の隣で不貞腐れて溶けている京一郎くんは放置して「岸って旦那としてどうなの? いじめられてない?」と訊ねてきた。
 頬杖をついた両手で顔を挟み、なにやら乙女チックな体勢だ。中熊先生、たまに京一郎くんの口から聞ける数少ない知人の名前だったけれど、この中熊先生に指導を受けていた頃の京一郎くんがどんな感じで過ごしていたのか俄然気になってきてしまう……。

「いじめられることがないって言ったら嘘になりますけど……でも基本は親切ですかね。車のドア開けて待っててくれるし、荷物持ってくれるし……」
「え、え!? せ、精神攻撃を受けたりとかは……!?」

 宮崎先生が肩を震わせ両手で口元を覆ってこちらに目を向けるので、ちょっと悩んでから首を横に振った。精神攻撃、がどの程度のもののことを言うのかはわからないけど。
 するとそれまで無言だった京一郎くんがボソッと「人聞きの悪いこと訊かんで下さいよ。あるわけないでしょ僕愛妻家だもん」と言った。

 個室内がシンッ……と静まり返る。

「……アイ……サイカ……?」
「知らない言葉ですねぇ……」
「まさかお前結婚生活ずっと猫被ってんの? マジで言ってる? あの岸京一郎が?」
「なぜこんなに信用がないんだ」

 日頃の行いじゃないかなぁ。

 宮崎先生があまりに悲しそうな顔で「人間のフリ出来るなら普段からして下さいよぉ!!」と叫んでビールを呷るので、何だか申し訳なくなって宮崎先生のジョッキを掴む手にそっと触れた。

「京一郎くんが日々心労を掛けているようですいません……でも基本、出来ないことをやれ、みたいな理不尽は言わないと思うんです。精神攻撃と見紛うくらい酷いことを言ってるのは擁護できないしする気もないんですが、きつい要求は他人への評価の裏返しだと思っていただければ……」
「う、うう……!」
「でも人格否定も存在否定も頻繁に飛び交いますよね! それは明らかにただの暴言だろ、みたいに困ったことがあったら、私でよければいつでも相談に乗ります! 必要でしたら連絡先、お教えしますから……!」
「奥さん……いえ新詩さん……!」

 どちらともなくガシッと手を取り合う。森井さんが小さく「奇跡の共鳴……?」と呟いていた。

「岸夫妻に何かあった時、宮崎智尋は、全力で新詩さんの味方をします……!」
「やった〜! 私も宮崎先生の味方します!」
「この夫婦が揉めてたら十人中十人が岸先生旦那の方に問題アリって判断するだろうなぁ。ということで俺も奥さんに味方します」
「わあ、ありがとうございます! 揉める予定はないですけど」

 壮望会の病理部の人達と仲良くなれた気がする。やったぜ! という気持ちを込めて京一郎くんの方に顔を向ける。
 彼は先ほどよりも更に嫌そうな表情でがっくりと肩を落としていた。うんざりしたような声音で「あーやだやだ」と呟く。地を這うような声音に手を握り合っている宮崎先生が震えた。

「いつもこうだよ。だから誰にも紹介してないんだよ。僕がどれだけ苦労してきたかも知らないできみってやつはさぁ……」

 あまりに不機嫌そうにブツブツ言っているので、中熊先生が「男の嫉妬ほど見苦しいもんはねえぞ〜」と笑う。
 京一郎くんは一言「は?」と首を傾げた。見ている側を不安にさせるブリキの人形のような仕草だった。

「もう御免なんですよ、家の近所で不審者に絡まれて延々『別れろ』とか『殺してやる』とか言われるのも帰ったら部屋に警察がいるのも」

 再び個室内がシンッ……と静まり返る。

 警察……? と宮崎先生が震えているのを他所に、京一郎くんは完全に瞳孔が開いた目で「嫉妬なんかよりも日常の危機だろこんなのは」と低く唸った。

「なんで嫁を紹介しなかったかって? そんなもん医者はどいつもこいつも奇人変人だからに決まってんでしょ。顔見知り相手に警察沙汰なんて七面倒臭いことやってらんないからさぁ……」
「ちょ、おい、岸ー?」
「彼女のそばにいる変人はもう定員オーバーもいいところなんですよ。これ以上はやってらんない。まったくやってらんない。だって言うのに勝手に仲良くなって変な奴連れて帰ってくるんだから」

 ……思っていた以上にお酒が回っているのかもしれない。目が据わっている。
 もう口を挟んでも無駄だと悟ったのか、中熊先生は無言で京一郎くんのお猪口にお酒を注ぎ、森井くんは目を閉じて合掌していた。
 愚痴なんだか惚気なんだか微妙な爆発を受けて、宮崎先生が「あの、警察とは……?」とこちらを窺うので、苦笑しながらどう答えたものかと考えた。

「いやあ……どうしてか多いんですよね、どこかおかしい人と出会う頻度が……」
「お、おかしい人……」
「道を聞かれただけとか、すれ違っただけとか、そういう細やかなきっかけばっかりなんですけど……なんでか家を特定されたり付き纏われたりして……何度か警察のお世話に……」

 「なんでかじゃない。きみが甘い顔するからだ」と京一郎くんが不機嫌に補足を入れた。別に甘い顔をしているつもりはない。ただ、誰に対しても京一郎くんのように壁を作って接するより、標準装備に笑顔を使った方が自分も相手も嫌な気持ちにならないと思っているだけだ。
 ただ、その結果京一郎くんに迷惑をかけたことは数知れないので、大人しく「ご迷惑おかけしてすいません……」と頭を下げた。

「……ってことは、岸先生は私とか森井さんが新詩さんに付き纏いとかするって考えてるってことですか!? しませんよそんなこと!!」
「少なくとも宮崎先生達にそういう度胸がないのはわかってるよ。お前らから話が洩れた先にゴキブリみたいな奴がいる可能性があるだろうが」
「ご、ゴキブリ呼ばわりし出したこの人……」

 もう何も言えない。どんなに頑張って気を張って生きていても、ヘンな人や様子のおかしい人がいつの間にか生活圏内にいるのだ。
 付き合い始めたきっかけもあの頃付き纏っていた学部の先輩だったから、もうそういう呪いにでもかかっているのかもしれない。

 ぺしょぺしょ落ち込んでいたら、中熊先生が「元気出しなぁ……?」と肩を叩いて慰めてくれた。



「どうして仕事終わりに車走らせて来たのに普段の行いを責められたんだろう……」
「し……心配の裏返しですよ……! きっと……!」

 お会計は「結婚おめでとう」の気持ちということで中熊先生が奢ってくださることになった。その後再び無言になってしまった京一郎くんの代わりにお礼を言って、一足先にお店の外に出た。
 全員まとめて車で最寄りまで送っていこうかと提案したけれど、三人は酔い醒ましのためにも歩いて帰ります、と首を振っていた。

 別れ際、お店から出て来た中熊先生に「岸と結婚してくれてありがとうね」とこっそり耳打ちされ、胸がいっぱいになって深々と頭を下げた。
 こんな風に言ってくれる恩師が京一郎くんにいてくれたことが嬉しかった。

「……さて。帰ろっか。どこか寄るところある?」
「ない」
「はいはい。車あっちね」

 全然酔っているようには見えない京一郎くんを引き連れてパーキングまでの道を歩く。
 隣をちらりと見上げると、ちょうど同じタイミングで彼もこちらを見下ろしていた。お店にいた時よりは多少穏やかになった双眸が「なに」と訊ねてくる。

「…………ごめんね。ずっと迷惑かけて」
「まーね」
「ちょっとは否定してよぉ……」

 嘘も誤魔化しもしないところが好きなんだけど。がっくり項垂れると、しっかりした足取りで歩く京一郎くんは「迷惑だし面倒だけど」と言葉を続けた。

「まあ、この面倒と迷惑を望んで引き受けたのは僕なわけだし。……きみは引き続き自分以外の生き物全てを警戒したまえよ」
「……難しいこと言うじゃん……」
「あとさっき交換してた宮崎先生のLINEはブロックしろよ」
「それは嫌だよ……」

 頭上でチッと歯が折れそうな舌打ちが鳴った。
 帰ってから勝手にスマホのロックを解除していじられないように警戒しておかなければ。自分以外の生き物全てを警戒しろってこういうことなのね。
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