電話を掛けてからそういえば今日は土曜日だ、電話出てくれるかしら、と思ったのも束の間、応答
があったので名前を名乗り、祖母が亡くなったこと、祖母の遺書に連絡を取りなさいと指示があったことを伝えた。
すると電話先の先生は、普段は土曜は休みだけど今日はたまたま午前に少し用事があって事務所を開けているから、急でもよければ午後から事務所で話をしませんか、と。
そろりと視線をやると、隣で耳を澄ませていた京一郎くんが頷く。
そういう感じで、私達の土曜は急遽デートではなく弁護士事務所への訪問会になったのだった。
能美弁護士事務所に辿り着き、祖母が生前から連絡を取り合っていたという能美先生と対面したとき、先生は開口一番に「この度は心よりお悔やみ申し上げます」と言い頭を下げてくれた。
慌てて頭を下げ返す。先生の視線が隣の京一郎くんに向いたので、慌てて「彼氏です」と言った。いや、彼氏を連れてくるな。デートじゃないんだぞ。
いざ弁護士先生を前にすると緊張で上手く言葉が出てこない。私ってこんなに喋るの下手だったっけ、と焦りながらいや、ええと、と慌てていたら、京一郎くんが「新詩さんは他に身寄りがいないので付き添いで来ました」と補足してくれた。
「すいません……相続とか、法律とか、全然詳しくなくて……ひとりで話を聞いてもわからないことだらけかなぁと思って」
「いえいえ、そうですよね。ご家庭の事情は生前ヨリさんから伺っています。こちらこそ、配慮が足らず申し訳ございません。不安でしたでしょう」
ヨリさんというのはうちの祖母だ。
事前に京一郎くんと話をしてある程度訊きたいことをまとめてきた。運転すると言って譲らない京一郎くんの隣でした会話を思い出しながら口を開く。
「私、何も知らなくて……でも、ただの相続の手続きの相談なら司法司書さんにお願いするのが普通なんですよね? 事前に弁護士を用意しているってことは、トラブルが予見されるんだろうって……」
私が知らないことや、祖母の死に際して起きるトラブルがあるならそれを知りたい。その結果私に何があるのか、私がどうすべきなのかも。
起こることを正しく知らなければ正しく戦う術を選べない。実は私が渦中にいて、今更になってそれを自覚したと言うのなら猶更それが必要になる。
能美先生は頷き、「全てお話しします」と言った。
「元々そういう約束でした。わかりやすく言うと、私はヨリさんに借りがありまして……"恩人と思うなら、自分が死んだ後に孫娘をよろしく"と言付かっています。ですから、私は問答無用で新詩さんの味方です。弁護士として最大限のサポートをさせていただきます」
「あ、ありがとうございます……?」
"恩人"とな。おばあちゃん、一体何をしたんだ……。
その件に突っ込めるような空気ではなかったので、大人しく続きを促すと、先生はふっと表情を緩め、「そうは言っても、身構えるほどの問題が今発生しているわけではないので、そこまで緊張なさらなくても大丈夫です」と微笑んだ。
そうは言っても、能美先生と祖母の間で交わされたらしい約束の内容がわからない今は、どんな状態で話を受け入れればいいのかもわからない。曖昧に笑って誤魔化す。
すると、隣に座る京一郎くんが「では何故、彼女のおばあさんは貴方と新詩さんを引き合わせたんでしょうか?」ときっぱり訊ねてくれて助かった。
能美先生は僅かに表情を引き締め、机の上で手を組んだ。
「新詩さんの血縁上の父親についてのお話しです」
「…………父親……?」
予想だにしていなかった言葉にぽかんと口が開く。横で京一郎くんが僅かに身動ぎをしたけど、そちらを気にする余裕はなかった。
まさか、こんな時に見たこともない父親の話が飛び出してくるだなんて思わない。だって二十四年間で一度も会わなかった。会おうとも思わなかった。私にとって、自分の父親という存在は御伽噺にも等しい架空だった。
今は亡き母が実は私を処女懐胎したとか言われる方がまだ現実味があるくらいだ。馬鹿げているけど、見たことも会ったこともない人の実在をどうやって身近に感じればいいのか。
だからショックもない。ただただ驚いて言葉が出ない。
今まで一度も音沙汰がなかったのに、今更なんなんだろう?
「ええと……それは、遺産の分与がどうとかいう話ですか……?」
「まさか。貴方のお母様との間に婚姻関係はありませんでした。ですから、ヨリさんの遺産を受け取る権利はこれっぽっちもありません」
「……じゃあ……えっと……?」
その時、膝の上に置いていた私の手を京一郎くんの手が掴んだ。机の下で手を握られながら、私はようやく自分の手が小さく震えていることに気が付いた。
どうして震えているんだろう?
弁護士先生に実在を肯定されたようなものなのに、まだ自分に父親がいるってことを信じ切れていない。――なのになぜ震えてしまうんだろう?
自分でもわからない自分が怖くて、京一郎くんの大きな手をぎゅっと握り返した。
「貴方の父親は、沖花詩温さん――お母様が亡くなられてから、新詩さんとの面会を求めてヨリさんに連絡していたそうです。ヨリさんはそれを八年近く断り続け、父親と貴方の接触がないように手を尽くしていました。私がヨリさんから頼まれたのは、この事実を貴方に伝えること。そして実の父親と会うかどうかの判断を、自分の意志で貴方にして頂くこと。それを守ることです」
車に戻ると急激に吐き気がして、助手席に座ったまま胸を押さえてうずくまってしまった。
京一郎くんの大きな手が背中を擦ろうとする。けれど珍しく手つきが迷っている。震える背中を二往復ほどして、結局私の肩を掴んで自分の方に引き寄せた。まるで初めで私の肩を抱くかのようにぎこちない仕草だった。実際回数はそう多くはないけれど、それにしたって妙に拙かった。
京一郎くんは私の呼吸が落ち着くまで、ずっとそうしていてくれた。
当たり前だけど、事務所を出ても特にこれといって目立ったリアクションをしなかった京一郎くんのそばにいると、なんだか途方もないくらい天涯孤独になったような、とても不安な気持ちになってしまった。
京一郎くんには直接関係のない話ばかりで、こんな私なんかの事情に付き合わせて申し訳ない気持ちで一杯なのだけど、それでも投げ出さず最後まで一緒にいてくれたことに感謝しているのだけど。
でも、ずっと静かなままの横顔を見ていたら、心臓の内側にまで冷たい風が吹き込んでくるようなさみしさが沸き上がってきてどうしようもなくなったのだ。
――「会いません」とほとんど反射的に即答した私を見ながら、彼は何を思い、何を考えたのだろう。
「……なんで大変なときにもっと大変なことが舞い込んできちゃうんだろうねぇ」
「そうだな」
「……引いた?」
「何に?」
京一郎くんの手が微かに私の肩を揺する。こっち見ろ、と言われているようで顔を上げると、静謐な光を宿した彼の瞳が真っ直ぐこちらを見下ろしていて、心が怯んだ。
「後悔してるのか?」
「……何を? わかんない。京一郎くんはどう思う?」
「きみのことだろ、僕にはわからない」
「そうだよねぇ」
ほんとにそうだ、と笑いながら、窓の外に視線を流す。サイドミラーには今にも死にそうな自分の顔が映っていて呆れてしまった。
自分が世界で一番不幸みたいな顔しやがって。最悪すぎる。嫌な女だ。こんなのじゃ京一郎くんに嫌われてもしょうがない。……嫌われたくない。肩を抱く手が離れてしまうことをこの世の何より恐れている。
けれど意外にも、京一郎くんは「わかりはしないけど」と言葉を続けた。
「僕がもしきみの立場だったなら、僕がきみなら……父親には一度くらいなら会ってみるかもしれない」
「……その心は?」
「自分のルーツを知ることだろ。その後定期的に会うとか、そういう先のことは抜きにして、父親を知る価値はあるかもしれないと思う。あくまで僕はね」
「……」
「でも新詩はそうは思わなかったんだろ。僕の意見を聞いてどうする? "やっぱり会おうかな"とか思うのか?」
首を振った。わからないから。
能美先生は私がどんな決断をしてもいいと言った。会うか会わないか決めたからと言って何かが急激に変わるわけでもない。ただ、私と父親の間に何かがあった時、能美先生はいつでも相談に乗ってくれると言っていた。
祖母は多分、私に父親がいることを自覚させたうえで覚悟をさせたかったんだろう。
今まで存在しなかった未知の血縁者が、これから先の人生に介入してくる可能性について。
「……思わない。私、生まれた時から当たり前に父親がいる人の気持ちなんてわからない。だから、会ってみたいって思う京一郎くんの気持ちも全然わからないよ」
「うん」
「…………父親なんて、今更いらない。……そう思うのは、ヘンかな」
京一郎くんはいやかな。そんな私は。
そう呟きながら、サイドミラーに映る自分の右目からぽろりと涙が零れるのを見ていた。
もう、なにも、誰もいらない。
私の家族はおばあちゃんとお母さんだけ。
あとは、京一郎くんがいればいい。それだけでいい。それだけがいい。
何を考えているかわからない、お母さんと私を捨てていなくなった父親なんていらないし、会いたいとも思わない。たとえ聞かされてきた父親の話が真実でなくても。私の目の前にいた母と祖母を信じたい。
それに、本当のことなんて別に知りたくもない。それは今の私をまったく救わない。どんな過程や理由があろうとも、結局は自分が孤独の極致に辿り着いてしまったことを再確認することになるだけだ。
私にとって重要なのは顔も知らない、興味もない父親の実在なんかじゃなく、目の前にいる京一郎くんだけだ。
彼の存在だけが現実。生きる理由。
そう、つまり。
「この先の人生、京一郎くんさえいてくれるなら、私は他に身寄りのないひとりぼっちのままでいい」
京一郎くんに身を委ねながら小さく言った。
白状すると、京一郎くんが有無を言わせず私のもとへ来てくれた時、本当は――本当は、とても、嬉しかった。
彼が私のもとへ来るとわかって込み上げた吐き気と嫌悪感は、この状況へ彼を引き摺り込んでしまう罪悪感と、面倒に巻き込まれるとわかっていてなお私を選んでくれた彼への喜びと愛しさだ。
ひとりで立ち上がらなければいけない。でも、もし彼が許してくれるなら、ほんの僅かでもいいから縋っていたい。けれど縋る自分は許せない。拒絶されるくらいなら死んだ方がマシ。
重い女と罵られるのはつらい。
でも、それくらい私が京一郎くんを思っているのは、もう変えようのない事実だ。なにせ今まで家族に向いていた感情の矛先のほとんどすべてが彼に向いているから。
彼はきっと優しさだけで頷いたり、曖昧に肯定したりはしない。嫌な時は嫌だと言ってくれるし、駄目なものは駄目だとも。
だからもしこの心底からの言葉を否定された時は、大人しく家に帰り、京一郎くんには帰ってもらい、そしてひとりに戻った家でこっそり死んでやろう。
度重なるショックで思考が歪んでいるのかもしれない。でも、私はこの瞬間本気でそう思っていた。
うつろな気持ちが苦く舌の根に張り付いてくる。京一郎くんの首筋に顔を摺り寄せて「重くてごめんね」と諦念交じりに囁くと、彼は「重い?」とオウム返しにした。
「新詩程度が重いって言うなら僕はどうなるんだよ。弱みにつけ込んで、この隙にきみのもっと深い場所に根を張ってやろうって考えてるのに」
「……うん?」
京一郎くんなりのジョークか何かかと思ったのに、見上げた彼の顔には何の感情も浮かんでいなかった。
この表情は知っている。初めて会った時、私をじっと観察していた時の──。
「父親と会うか会わないかなんてはっきり言って些事だろ。両親揃ってるのに僕はこんなにヤな奴だし人間性終わってるし、きみは片親でもしっかり育てられて僕より人間出来てるしさぁ。だからきみがどんな選択をしても、僕はそれを支持するよ」
「……ほんとうに?」
「うん。むしろ僕としては願ったり叶ったりというか。逆にいいの?」
「新詩が僕さえいればいいって言うなら」私を真っ直ぐ見下ろして、「僕もそれがいいよ」淡々と静かに彼は言った。
土曜の夕方だって言うのに、なぜか周囲に車通りや人の気配がない。ガラスケースのなかに二人で閉じ込められたみたいに静かだった。狭い車内で、京一郎くんの手が私の肩から顔に移動して、涙の伝った跡を指の背で拭う。
「新詩が生きて隣にいるなら、どこにいてもいいし、なんでもいいよ。元々僕はそういう人間だし」
小さくうなずく。京一郎くんが私と同じ気持ちでいてくれることが、こんなにも嬉しい。
私の胸に空いた大きな穴を今すぐ埋めるような救いではないけれど、彼の言葉は確実に私と世界を繋ぐ大切な糸だった。大した根拠もなく、彼さえいれば私はこの後の人生でどんな絶望が襲い来ても生きてゆけると思った。
京一郎くんは私の顔を両手で掴んで強張ったままの頬をぐにぐに揉みながら、無表情に「まず、帰ろう」と自分と私に言い聞かせるように言った。
「このまま帰ったらまた"ご飯作るね"とか言い出すだろうから、帰り道ついでに飯を買って。好きなもの考えとけよ」
「好きなものって、蕎麦?」
「僕はいいけど、蕎麦は持ち帰りには向かないだろ」
そうね、と笑うと、彼も応えるように口端を緩め、私の顔から手を放した。車のエンジンを掛け、シートベルトを締める。
夕焼けが京一郎くんの顔を照らし、灰色がかった髪が光に当たって淡く見える。
それをすぐ隣で眺めていたら、ふっと、祖母が死んでからずっと鉛を押し込められていたような胸が、ほんの僅か軽くなったような気がした。
先はまだ暗く明日さえ見えないけれど、隣にいてくれる京一郎くんの温もりでなんとか、自分の立っている場所くらいはわかる。
そしてぽつりと。
ああ、私、今ひとりで立っているんだな、と思った。母も祖母もいない地点にひとり。京一郎くんの隣に。
そのことが涙が出るくらい切なくて、温かかった。
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