世界は悲鳴も上げないが 前

 カーテンの隙間から差し込む朝日で目が覚めた。
 瞼を持ち上げぼんやり瞬きをしていると、視界の隅っこに岸くんの顔が見えたので、ぱっと目が開いた。
 かかっていた布団を蹴とばすように身体を起こすと、ちょっと値の張るいい椅子に座って、机に並べている厳選されたお気に入りの本を読んでいた岸くんがこちらに顔を向ける。

「おはよう。眠れた?」
「お、おはよう……寝てた。すごく寝てた」

 およそひと月ぶりに私は安心して眠った。岸くんが握っていてくれる手の感触――伝わってくる温もりのおかげで、自分がひとりでいることを意識せずに済んだのが大きかった。
 岸くんがベッドのそばに腰を下ろし、手を握ってくれたあたりから記憶がないので、多分本当にすこんっと眠ってしまったんだろう。
 岸くんパワー、おそるべし。

 手櫛で髪を整えながら「岸くんこそ、ちゃんと寝れた?」と訊ねると、岸くんは眉を顰めちょっと沈黙し、やがて「昨日の一世一代はどこいった」と呟いた。
 あっと口を手で覆う。だって昨日の今日じゃないか。

「け……京一郎くん。は、ちゃんと眠れましたか?」
「……言ったろ。基本どこでも寝れるんだよ。僕みたいな人種は特に」
「そうでした。……朝ごはん作るよ。ご飯炊いてないから、パンでいい?」

 ベッドから下りて両足を床につけ立ち上がると、久々にしっかり眠った反動か眩暈がしてふらりと身体が前のめりに傾いた。京一郎くんが支えようと両手を差し出そうとするので、苦笑しながらそれを制する。

「寝惚けてて料理なんか出来るの? 外に買いに行くか?」
「ううん、大丈夫。そろそろヤバいパンあるから食べちゃわないと」

 今料理して食べてしまわないと、次いつまともな食事を摂るかわからないから、彼のいる間に気力と体力を総動員して食材を使いきってしまいたかった。
 二歩後ろをついてくる京一郎くんを引き連れ一階に降り、一旦洗面所で顔を洗って髪を整えてからエプロンをする。

 自分ひとりの時は料理はおろか、食卓に自分ひとりぶんの食事を並べることすらも嫌で食事自体を避けていたが、今朝は京一郎くんがいてくれる。
 ふたりぶん作ってもいい。作っても食べてくれるひとがいる。自分以外の誰かと食卓を囲むことが出来る。そんな事実が麻薬のように私の頭のなかの悲しみや絶望を一時的に緩和させた。不思議と凪いだ気持ちになれた。

 百年ぶりのような心地で作ったスクランブルエッグと焼いたソーセージ、レタスときゅうりのサラダ、それから焼いたトーストを京一郎くんと向かい合って食べた。
 黙って大食いする彼のために、私はいつかの祖母のように冷蔵庫からあれこれ出しては火を通したり切り分けたりして食卓に並べた。
 久し振りのまともな食事に胃がびっくりしてしまい、作ったはいいが食欲がない私の残したサラダや卵までしっかり平らげ、京一郎くんはコーヒーをおかわりした。

「新しく淹れるからちょっと時間かかるけど」
「いーよ」

 お湯を沸かし直し、ふたりぶんのコーヒーを落とし、カップに注いで差し出すと、彼は小さくありがと、と呟く。
 その正面に再び腰を下ろす。彼は自炊能力が皆無なので、私がキッチンに立って忙しなく動き始めると最早心配の言葉を口にしなかった。そこらへんについては、京一郎くんは私に信頼を寄せてくれているらしい。
 いつだかに聞いた、"知り合いの彼女"さんという栄養士さんの料理には及ばずとも、家庭的で手つきが信用出来るとか。味についてははっきり上がいることを濁さなかった。そういうはっきりしたところが信用出来る。
 カップを傾け一口啜ってから、「あのね」と切り出した。

「お願いがあるんだけど、いいかな」
「うむ、聞くだけ聞いて進ぜよう」
「なんか聞き覚えのある台詞だなぁ」

 眉を下げ笑うと、京一郎くんは肩を竦めて続きを促す。
 一度席を立ち、テレビの前にある座卓に置いたままにしていた封筒を持って戻った。

「これ、おばあちゃんの遺書なんだけど」
「……死因は急性心筋梗塞だったんだろ?」
「そうなんだけど、おばあちゃんの部屋の引き出しに入ってて。元気って言ったって高齢だったから、孫には内緒でこっそり準備してたのかもね」

 言いながら、ふいに涙が滲んだ。予兆のない涙に「泣くところじゃないんだよなぁ」と呟いて顔を覆うと、京一郎くんが「擦るな」と私の手をそっと掴んで顔から外させる。

 祖母は享年七十八歳だった。平均寿命には及ばなかったけれど、日々身体は衰えていくし、いつまでも健康でいる保証はない。
 きっとひとり残される私のためにこれを書いたんだろう。そして私が見つけやすいように、普段使う引き出しの一番上の棚の中にそっと忍ばせておいた。中身を読んで、そう思った。

「……で、遺書が何だって?」
「うん。最後の方にね、弁護士さんの連絡先があって。自分が死んだら連絡を取りなさいって書いてあったんだけど……」

 ちらりと京一郎くんの顔を窺う。彼は二つ返事で「同席しろってこと? いいよ」と頷いてくれた。
 自分で言い出しておいてどうかと思うけど、普通結婚してもいない女から「弁護士に連絡をつけるから何かあるときは同席してほしい」なんて頼まれたら引くんじゃないだろうか?
 京一郎くんはよく私に対して「きみってほんとヘンだよな」などと宣うが、彼自身も相当変わっている。多分自覚もあるんだろうけど(そしてそういうところが好きなのだけど)。

「も、もし連絡してみて大丈夫だなって思ったら、ちゃんとひとりで後日色々やり取りするので……というか、大体の手続きはもう終わらせてあるし……」
「そういう事務手続きの負担を減らすつもりで弁護士用意してたんじゃないのかなぁ、おばあちゃんは。新詩が馬鹿真面目なばっかりにほとんど意味をなしてないわけだ」
「ぐぬ……」

 だって、だって……祖母の死のショックで、祖母の部屋に手をつける余裕が長らくなかったのだ。やっとの思いで引き出しを開けたら典型的な遺書が出てきた時の私といったら、更にショックを受けてその日は一晩寝込んでしまったし。我ながら繊細すぎる。
 がっくり項垂れると、京一郎くんは手を伸ばして私の頭をぽむぽむ叩き「クソ真面目が裏目に出たなぁ」と言った。

「まあ実際問題、相続の話なんかはまだ手付かずだろ。餅は餅屋だ。僕らだけで考えるよりは詳しい人間に頼った方がいい。今日連絡とるのか?」
「うん……九時回ったら電話しようと思ってるよ」

 そう答えると、京一郎くんは「そう」と頷きながら、遺書の入っている封筒をじっと見下ろして動かなくなった。何かを考え込んでいるような仕草だ。
 中身見る? と訊ねるけれど、それにはノータイムで首を横に振られた。

「……普通、遺産相続の面倒を省くだけの目的で弁護士を用意するか? こういうのは司法司書が一般的だろ。きみ、相続で揉めそうな相手もいないよな?」
「うーん……まあ、そうね。聞いた話じゃおばあちゃんはおじいちゃんと結婚した時に実家と縁切ってたらしいから、親戚って会ったことない」
「きみの家ってなんかこう……あれなんだな……」
「そう。親子そろってドラマみたいな大恋愛してたらしい。あっ、おばあちゃんとおじいちゃんは仲良しだったよ」

 あの祖母にしてあの母あり。破天荒で情熱的な愛を持つ血筋を受け継ぐ私はせめて離別とか勘当とかしない方向で穏やかに生きていきたい。頼むぞ京一郎くん。グッと拳をつくって見せたら嫌そうな顔をされた。
 私には勘当される実家はないけどね。

「ってことは相続トラブルも考えにくい。……新詩の知らないおばあちゃんの隠し子がいるとか、……とにかく何かしらの要因でトラブルが予見されるのかもしれない」
「何かしらって……何?」
「それは弁護士先生が知ってるだろ。とにかく、おばあちゃんはきみをその"何か"から守るために弁護士を用意してたんだ」

 目を伏せる。
 思えば私は、私の家族について知らないことが多すぎる。おじいちゃんは私が生まれた年に癌で亡くなった。父親は知らない。
 十六年一緒に暮らしたとは言え、母のことは子供が知っている以上のことは知らない。――例えばどんな風に父と出会ったのか。父が去ってからどんなことを思ったのか。
 祖母とは二十四年一緒に暮らした。大体のことは知っていると思っていた。けれど多分、その考えは正しくないんだろうな。

 私は私の家族について肝心なことを知らない。
 好きな食べ物や癖、生年月日まで知っていても全く足りていない。
 怖い。足をつけている地面が急に消えたような感じだ。

 京一郎くんが音もなく立ち上がり、座ったまま俯く私の頭を抱いた。

「おばあちゃんはきみを守ってる。今後何があっても、何がわかっても――それだけは不変の事実だ」
「うん」
「きみは愛されてる」
「……うん」

 彼の口から愛なんて言葉が出るのがおかしくて、少し笑えた。
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