皮膚が白けりゃ轢く轍

「土曜日、同窓会あるから夜いません、私」

 二十二時過ぎに帰ってきた京一郎くんに開口一番そう言うと、彼は細い目を更に細めて「ああ、うん」と頷いた。今日も今日とて仕事は終わらなかったらしい。病理医って大変だなぁ。

「ご飯食べた? お味噌汁と、ご飯はラップに包んであるよ。食べないなら冷凍しちゃうけど」
「味噌汁だけいただきます」
「じゃ、ご飯は冷凍しまーす」

 キッチンのカウンターに並べていた大体百グラムで分けて包んであるご飯をジップロックに入れる。
 その背後を京一郎くんが通り抜け、コンロの上に乗せたままの小鍋を火にかけた。かぱりと蓋を開け、なんか具沢山だ……と小さく呟いている。
 今日は定時で帰って来られたので、家に帰ってから自分でご飯を作って食べたのだ。定時帰宅とは無縁の京一郎くんが食事を済ませてくるかどうかはわからなかったが、どちらにせよ二十二時を過ぎるなら小腹くらいは空かせて帰ってくるかもしれない、という私なりの思いやりだった。

「どこ行くの」
「××ホテルだって。美味しいご飯食べてくる」
「ふーん。変な奴に絡まれたらしっかり"怖い顔した旦那がいます"って答えろよ」
「怖い顔してるって言っていいの?」

 笑いながら冷凍庫を閉じて振り返った。ふつふつ音を立て始めた小鍋の前で腕組をしてぼんやりしている京一郎くんに、「他になにか話しておくことある?」と訊ねる。
 小さな瞳がこちらを向き、少し考えたあと、「僕は今週毎日遅いです」と言った。やれやれ、みたいな表情で言うけれど、それ自体は別に特別なことじゃない。ちゃんと一人でも寝ておけよってことかな。

「了解です。ではお先に。おやすみなさい」
「はいおやすみ」


* * *


≪これからかえります≫

 いつもの"帰宅報告"とトークアプリの通知が飛んできたスマホの画面を点灯させると、新詩からメッセージが届いていた。二十二時四十分。しっかり二次会まで楽しんだんだろう。
 メッセージが全文字もれなく平仮名であることに一抹の不安を感じつつ、ロックを解除してトークアプリを開く。

≪了解。今どこにいるの?≫
≪いまホテル出てみんなと歩いてるところ。駅まで一緒≫

 ××ホテルから最寄り駅までは電車で三十分ほどかかる。タイミングよく電車に乗れたとしても、最寄りに着くのは二十三時過ぎだ。
 十数秒画面に表示されている文字と睨み合ってから、とととっと入力画面のキーボードをタップする。

≪最寄りまでは迎えに行くから電車乗ったら教えて≫

 過保護だろうか。しかし、出会ってから彼女が遭遇してきた奇人変人のパターンを考えると、これくらいしてもおかしくはない気がする。──別に僕が特別過保護なわけじゃない。誰がどう考えても、彼女はおかしなものを惹きつけすぎる。
 酒が入ってご機嫌に歩いているだろうことは考えずともわかるし、この時間だ。何かあってからでは遅いので先手を打つ。
 別に、過保護では、ない。

 スタンプと共に送られた≪ありがとう≫の文字に小さく溜め息を吐き、まだ濡れている髪をタオルでガシガシと拭いた。
 風呂入ったばっかなんだよなぁ。



 その後、大体予想した通りの時間にメッセージが届き、放置しすぎてほとんど乾いた髪を下ろしたまま僕は車に乗り込み、最寄り駅に向かった。
 十五分しないで駅前の広場に着いた。車を停め、ハンドルに腕をかけて駅の出口の方に、粧し込んで出て行った彼女の姿を探した。

 駅の中から洩れている黄色い光に髪を透かし、新詩は小さく手を振っている。
 普段着と比べれば少しフォーマルな(セミフォーマルとか言っていた)薄緑のワンピースドレスの裾を翻しながらこちらに歩いてくる様子は、実年齢よりもう少し若いように見えた。
 車を降り、助手席のドアを開けてやると、新詩は柔らかく微笑み「ありがとうございます」と頭を下げた。いつまで経っても、彼女は礼儀というものを忘れない。
 親しき中にも礼儀あり、を地でいく女だ。多分座右の銘だ。僕は彼女のこういうところが好きだった。
 運転席に乗り込み、「香水のきつい女がいただろ」と言いながらアクセルを踏んだ。

「あら。におう?」
「少しね。濃い花みたいな……」
「ジャスミンとか、ローズって言ってたかな。人気な香水なんだって。別れる時にハグされたから移ったのかも。京一郎くん、ローズ苦手だもんねぇ」

 自分の腕や着ているワンピースの胸元を手繰り寄せて鼻を寄せ、「言われてみれば確かににおうかも……」と新詩は苦笑した。
 過ぎ去る街灯の光が彼女のほの赤い頬を滑っていく。赤い唇は緩やかに弧を描いていて、まだ酒が抜けきらずご機嫌なんだろうと思った。迎えに来て正解だったな、と視線を正面に戻す。

「じゃ、帰ったらすぐお風呂入ろうっと」
「溺れるなよ、酔っ払い」
「溺れたことないでしょ」

 赤信号で車が停まったとき、ふいに新詩が膝においていた僕の手をとった。
 ぎょっとして横に視線を流すと、彼女は両手で僕の手を挟むように握り、こちらを見上げてニコニコ笑顔を浮かべていた。
 ……相当酔ってるな。

「お風呂入った後だったんだね。わざわざありがとうね。嬉しい。愛を感じます」
「……ちょっと……怖いんですけど……疚しいことがあるなら事故る前に白状してもらえませんかねぇ……」
「えー疑ってるの、私を? なにかなー疚しいことってー」
「事故る事故る」

 閑話休題。

 新詩は信号待ちのたびに僕の手を握ってニコニコした。彼女のものと比べれば皮膚が硬く、大きいだけの手を大事そうに握り、今は母指球のあたりを親指でぐにぐに揉んでいる。
 次の信号を左折すればマンション、というあたりで、ふいに「さっきの香水の子ね」と囁くように呟いた。

「ん?」
「さっきの香水の子、結婚するんだって。来年の春頃って言ってた。次会う時は結婚式って言ってすごく幸せそうでねぇ」
「つられてご機嫌で飲んできたってわけ」
「そうなの。幸せのお裾分けもらってきた気分」

 他人の幸福によろこびを感じられる感性そのものが幸せだ。少なくとも僕は同僚や知人に「結婚します」と言われても「そうですか」以外の感想が浮かばない。そこには喜びも悲しみもなく、以上でも以下もない。
 なので細やかな他人事の幸福に心底から笑みを浮かべ祝福できる、彼女の心をこうして時折尊く思う。

 と、同時に、穏やかな笑顔の裏側にあるものを読み取ろうとしてみる。
 僕らは結婚式を挙げなかった。

「好きな人と一緒にいられるってすごく嬉しいし、ありがたいことだよねって。沢山惚気聞いてきたから、すごく京一郎くんに会いたくって。実際酔ってはいるんだろうけど、酔っ払いに見えてるのはそのせいね、きっと」

 駐車場に車を停める。
 バックする時に腕を回した助手席の背もたれを掴んだまま身体を捻り、淡々とした声音で幸福を独白する彼女の赤い唇に自分の唇を重ねた。

「……相変わらず愛が大きいね、きみは。とっくに死んだと思ってた羞恥心が悲鳴を上げてる気がするよ」
「あは、京一郎くんでもまだ気恥ずかしいことあるんだ。幸せだよーありがとねー結婚してくれて」
「こちらこそありがとうハイ降りた降りた」

 足取りがふらふらして頼りない酔っ払いの腕を掴んでなんとかエレベーターに乗り込んだ。幸い他の住人と鉢合わせることはなく、迅速に玄関まで辿り着くことが出来た。
 新詩を先に押し込み、後ろ手で扉を閉め内鍵を掛ける。よたよた靴を脱いでいる後ろ姿を眺めながら、乱れているスカートの裾を直してやった。

 新詩が三和土に上がったのを見届けて自分の靴を脱ぎ、顔を上げる。
 さっさとリビングに引っ込んだと思っていた新詩がこちらに身体を向けて立っていたので、屈んでいた姿勢を戻し「なに?」と訊ねる。

 言葉もなくストッキングの爪先がぐっと背伸びをし、赤い唇が口端に押し付けられた。

「……大好き、愛してる」
「…………」

 きょとりと瞬くと、僕が一切屈まなかったせいで唇にあと数センチ届かなかったことが悔しいやら恥ずかしいやら、目元を朱に染めた新詩が暗い廊下のど真ん中で視線をふいと逸らす。「ヒールがあればちゃんと届いたのになぁ」と尖った声で呟きくるりと踵を返した華奢な肩に手を伸ばした。
 異変を感じた彼女が振り返るより早く、片手間に掴んだ顎を持ち上げて唇を合わせる。車内でしたそれより乱暴なキスに、新詩が小さく声を上げた。
 小さな舌はほのかにアルコールの味がした。

 呼吸も覚束なくなった彼女の腰を支えると、真っ赤になった顔でじろりとこちらを睨み上げる。恨めしい眼差しにわざとらしく首を傾げた。

「なに? したかったんでしょ、これが」
「そっ……うだけど、違くて――」

 言い終わらないうちに無防備な両手を床に縫い付ける。健気に暴れる新詩を窘めるように、優しく丁寧に蕩かしていく。
 白くやわい首に歯を立てる。ふわりと漂ったバラの香り。――車の中ではそこまで気にならなかったが、今は不純物だ。

 新詩がぐったりと抵抗をやめた頃合いを見計らって片手を彼女の背中に回す。手探りに夕方この手で上げてやったファスナーをじれったくなるほどゆっくりと下げていく。素肌がフローリングの冷たさに晒され、白い肩がふるりと震えた。助けを乞うような目が胡乱な眼差しで「するなら、ベッドがいい」と呟いて、あとは細い吐息を疎らに繰り返すばかり。
 その声になんと答えたんだったか。そもそも答えたのかすら定かではない。バラの香りが染み付いた服を早く脱がせてしまいたくて。
 バラの香りもドレスも輝くピアスも薄い肌色のストッキングも、全てが邪魔だった。

 こつりと額を合わせる。
 ここまでしてやっと、混じり気のない新詩を感じることが出来た。満足を得られた。

 小さく溜め息を吐き、しばらくろくな抵抗も反応もしなくなった新詩の様子を窺う。気絶なんかはしていないだろうが、まあ、一日口を利かなくなるくらいの復讐は有り得るかもしれない。我ながら、よくこんな場所でこんなにぐっちゃぐちゃに……。
 僕から逃れるように顔を壁に向けて胸で息をする新詩の頬に軽く触れる。「新詩」と呼ぶと、赤い顔が力なくこちらを向いた。涙目の瞳と瞼のラメが微かに光って見えた。

「…………けだもの……」
「今回ばかりは否定は出来ない」
「いつも出来ないだろばか……」

 「顔も怖くてよくわかんないところでスイッチ入っていいとこなしだ」いいとこなしな男を選んじまったのは他ならぬきみだけどな。「目が馬鹿にしてる」ハイ、黙ります。
 頭の上で押さえつけていた手首から手を放し、覆い被さっていた身体を起こして両手を上げ降参のポーズをとると、新詩は僕の下からずるずると後退りした。
 好き勝手に脱がされたドレスを胸元に手繰り寄せ、「皺になる……」と文句を言っている。文句がありすぎてもう何から言ったらいいのかわからなくなっているのかもしれない。

 指一本でも動かせば今度こそ本気の怒声が飛んできかねない空気だったので、大人しく様子を見守っていると、新詩は疲れ切った表情でよろよろ立ち上がった。
 ドレスを腕に抱え、勝手に僕が外したピアスを回収し、脱皮に失敗したみたいに爪先に引っ掛かっているストッキングを引っ張って脱ぎ、それも腕に抱える。無言でリビングに向かっていく背中が、ふいに「お風呂入る」と尖った声音で宣言した。

「あ、ハイ。どうぞ……」
「…………」
「……新詩さん?」

 長い髪が扉の向こうへ消える間際、

「…………続き、するなら、ベッドで待ってて」

 パタン、と閉じられた扉を凝視したまま、つかの間の思考停止。
 素直になれない不器用なあの女を選んだのは他ならぬ僕だった。

「好きな人と一緒にいられるってすごく嬉しいし、ありがたいことだよねって。沢山惚気聞いてきたから、すごく京一郎くんに会いたくって。実際酔ってはいるんだろうけど、酔っ払いに見えてるのはそのせいね、きっと」

 ――不器用で、ヘンな女だ。
 僕みたいな男を捕まえておいて、本気で嬉しいとか幸せとか平気で宣う神経は、本当にどうかしてる。

 出来れば死ぬまで一生どうかしていて欲しいな、と誰にともなく願いながら、彼女の背を追って暗い廊下を歩き出した。
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