きみの暗やみを払い除けてく

 輝いて見えるのは、その身体の内から洩れ出す生命力とか、幸福とか、正しさによるものだと思っていた。
 そんな分析は、次々零れる涙を手で拭って静かに笑う笑顔によって粉々に打ち砕かれたけど。
 細い身体の内側にどうしようもない闇を抱えていて、それに心を掴まれないように輝いている。悲しみや苦しみに浸かった自分が溺れ腐らないよう、必死に顎先を上げて藻掻いている。
 ただ幸福だけを享受してきた恵まれた人間ではないのだと知った時、彼女に言ったことはなかったが――ようやく自分のなかに芽生えたこの奇妙な恋に少し納得することが出来た。


* * *


 数か月ぶりに対面した新詩の顔は酷かった。
 最後に会った時から恐らく体重は落ちているし、何より目元に浮き出た隈がどれほど彼女が追い詰められていたかを如実に語っている。
 このままの顔で外に出ていれば誰かしらが新詩に自身が限界であることを伝えて、もう少しマシな方向へはやくに軌道修正出来ていたかもしれないのに、自分で隈ややつれを隠すために化粧品を駆使していたと言うから救いようがない。本当に、救いようがなかったのだ。

 新詩は自分のことを家族と似ていないとよく言う。家族と言うのは、今は亡き祖母と母のことだ。
 二人は強く、優しく、泣き言を言わず、鏡写しのように似ていたんだと言う。
 対して新詩は落ち込みやすく、弱くてどうしようもない性格なんだと。自分のことをぼろクソに卑下して、最後に「本当に血が繋がってるのか不思議なくらいなんだよねぇ」と、それまでの言葉を誤魔化すように困り顔で微笑んでいた。

 だが祖母を亡くした彼女の姿と言動を目の当たりにして、僕は彼女の自己評価は主観に依りすぎて自分の姿を正しく捉えていなかったんだろう、と思った。
 新詩が強さだと言っていたものは多分、誰の助けも借りずにひとりで立ち上がろうとする頑固さだ。
 だとするなら、今は亡き祖母と母と新詩は間違いなく血の繋がった親子だった。


「おまたせ」

 とリビングに風呂上りの新詩が戻ってきた。
 ソファで手招きをすると大人しく寄ってくるので、部屋着の長袖から覗く白い両手を握り、その指先まで温かくなっていることを確かめた。色が白いから、血管の色が透けて見える。それに小さな手だ。

「……ねえ、本当に泊まるの?」
「うん。とりあえず、三日分くらいの荷物で来た。月曜の朝もここから直接病院に行くつもり」
「……びっくりしたけど、あの、迷惑じゃない?」
「迷惑だと思ったらそもそも来てないし、電話も出てない」
「まあ……そうだと思うけど……」

 歯切れの悪い返答に口端を歪めると、彼女はまた悪い笑顔ーと表情を綻ばせた。いくらか血色のよくなったように見える。隈はまだ健在だが、少しは落ち着いたのか。
 新詩は僕の足元に適当に置かれた紙袋を見下ろし、「これが三日分くらいの荷物……」と感心したように言った。

 彼女から電話があった時、その声の様子から"判断を迷えばもしかしたら彼女とはもう会えないかもしれない"という漠然とした不安が足元から這い寄ってきて、気が付けば最低限の荷物を適当な紙袋に突っ込み、財布や身分証を入れっぱなしの鞄を引っ手繰り、車に乗り込んでいた。
 電話越しに聞こえてくる声のうつろさは、病院にいる患者――特に自分の病が治らないと知って日々を過ごす患者の中に時折見えるものに似ていた。自分には先がないことを悟っている。果てに立っているのだと確信している乾いた声音。
 だから不味い、と思った。
 人は呆気なく死ぬ。残酷なまでに、誰がどんなに願っても、生き物の生き死にというのは呆気ない。

 こんなことは口が裂けても言わないが。
 訳も分からず祖母が亡くなった姿を目の当たりにした彼女の姿を、心を想像して、外様の僕が遣る瀬無さに胸を掻きたくなった。
 同居家族の彼女も、ましてや本人も心疾患で突然亡くなるなんて考えてもみなかっただろうな。ありふれた病と死因だとしても、それが我が事として降りかかるだなんて、彼女達に限らず誰もが考えもしない。
 全て後の祭りだった。
 愛した肉親を亡くして時間の停まったこの家も、喪失の生傷を抱え笑おうとする彼女も、すべてが疑いようの無い現実なのだから。

「き……京一郎くんもお風呂入る? 一応、お湯とっといてるけど」
「僕は自分ちで入ってきたからいい。もう寝るか? このソファまた使わせてもらうことになるけど」
「うん、それは全然いい。ごめんね、おばあちゃんの使ってた布団あったんだけど、今クリーニング出してて……明日の夕方取りに行こうと思ってたから、それまではソファで何卒……」

 心から申し訳なさそうな表情を浮かべるので、「新詩は知らないと思うけどね、医者になるとソファで寝るのが上手くなる」と言って首を振った。
 新詩はまた笑い、「身体は大事にしてね」と言った。幾分か和らいだ顔がまだなにか言いたそうにしているように見える。

 生憎自分は人の心の機微に疎いので、腹が立つほど我慢強い彼女の言わんとしていることを察する力がない。――察することが出来ないというか、それの形がわかっても、どう触れてやるのが正解なのかわからない、と言うのが正しいかもしれない。
 今まで他人の気持ちを知りたいなどと考えたこともなかったから、新詩と向かい合う時はいつも手探りだ。彼女は多分、知らないだろうが。

「……思うことがあるなら言えよ。この期に及んで遠慮してる方が恥ずかしいぞ」
「……いや、……うーん……」
「何さ。添い寝でもしてあげようか?」

 半分冗談のつもりで言うと、新詩が俯き気味だった顔をパッと上げ「えっ」と、まんざらでもないような反応を寄越した。思わず僕まで「え」と思考を止めてしまう。

 隈が酷いのは祖母の死のショックのせいだと思っていた。簡単に言えば、同居人が突然いなくなったことによる不安で眠れないのだと。
 子供のようと言えばそれまでだが、そう単純でもない。けれど複雑さはこれっぽっちもない理由。肉親や恋人を亡くした人間なら誰しもそうなる可能性がある。
 新詩はそういう喪失のストレスが眠りに現れやすかったというだけの話だ。

 ……いや、それにしたってまさか本気で"添い寝"が選択肢に入ってくるとは思っていなかったけど。
 別におかしなことはない。罪を犯すわけでもない。僕と彼女は正しく恋人なのだから、一つのベッドで眠ったって誰に咎められることもない。
 その状況の奇妙さに一番首を傾げているのは僕らだ。なにせ手を繋ぐとか、軽いキスをたまにするとか、その程度のことしか今までしてこなかったから。

「や、違う、大丈夫……添い寝はいらない」
「……ウン、僕も添い寝は流石にどうかと思う」
「ん……」

 視線が泳いでいる。まだ普段より少しだけ高い体温の細い指先を捕まえ、座っていたソファから腰を上げた。
 新詩の部屋は二階だったはずだ。

「でも、きみがこれ以上眠れない夜を過ごすのもどうかと思うから、折衷案といこうか」
「折衷案……?」

 小さな手を引いてリビングを出る。板張りの廊下は一歩進むごとに温もりを奪い取っていくほど冷たく感じられた。毎夜この場所をひとりでうろうろする眠れない彼女の姿が脳裡に浮かんだ。
 細い背の両肩に、圧し潰されそうなほどの死を乗せ、ずっと住み続けた我が家だって言うのにどこにいても居場所がないように思いながら、夜の暗い家のなかで更に暗い場所を探し求めてはそこで夜を耐える。

 なんて孤独な戦いだろう。
 罪人でもなんでもない新詩が、何の予兆もなく終わりのない戦いを強いられていることを、心の底から残念に思う。

「きみが眠るまでそばにいるよ。ベッドの脇で座って、手でも握ってようか」
「……ば、ばかにしてる?」
「してない。あのな、僕はとりあえずきみが目の下のその隈を消せるなら大抵の無茶も押し通すつもりだ。手を握ってるくらいなんだ、恋人同士が手を繋いで何がおかしい?」
「それとこれとはまた話が違うんじゃないかなぁ……」
「違わない。ほら、寝るんだろ」

 二階には部屋が二つあったが、手前側の扉が開けっ放しの部屋が新詩の部屋だとすぐにわかった。
 そこまで辿り着くと、観念したのか新詩が自分で歩き出したので、僕は彼女の手を弱く握ったまま新詩の部屋に踏み入った。部屋はカーテンを開けっ放しにしているおかげで、一階の廊下や階段よりは明るい。
 くるりと振り返り、顔に浮かんだ躊躇いと戸惑いを誤魔化しもせず新詩は言った。

「あのね……ひとりでも眠れるよ。ずっと眠気ってものが来なくて、横になる前から全然駄目なのがわかってたけど、今は違う。思い出せそうなの、普通に眠るっていうことを」

 穏やかさの象徴みたいな垂れ目に真剣さを灯し、新詩があまりに大真面目にそんなことを言うので、思わず口角の上がった口端からフ、と息が洩れた。

「思い出せそうならあと一押しだろ。きみが眠ったのを確かめたら、僕は下に降りてソファで寝る」
「頑なだなぁ……」

 頑なはどっちだ。握ったままの手を新詩が持ち上げる。しばらく繋がれたところを見つめ、やがて「……京一郎くん、嫌じゃないの?」と囁くように小さな声で問うた。
 根底に同じ感情を持つ同質の問いが繰り返されることにほんの僅かうんざりしながら、けれどこの執拗なほどの確かめる行為が新詩の心の奥底にある本質なんだろう、と初めて彼女の人間性みたいなものの一端に触れられたような気がして、嫌ではなかった。
 彼女以外が同じ言動と行動をしていたら、五秒と経たずに立ち去っていただろうな。そう考えると新詩はすごい。物凄い。

 我ながら非人間的、感性が死んでいると揶揄される僕の心に正しく突き刺さる新詩のトゲは特異的だ。
 刺さったところから何かが伝わってくる。それが何なのか正しい答えは今のところ出せていないが、それを引き抜いて立ち去ろうとは思わない。 

「なにが」
「こういう……距離が近いことが」
「見縊るなよ。そりゃあ、他人とこの距離で手を繋いだまま喋ってるところを想像するとぞっとしないけど。相手がきみだから何も問題は無い。何度も言うけど、嫌ならそもそもここには来てない」

 忍耐強さもここまでくると短所だ。
 こうして極限まで追い詰められているところを目の当たりにして初めて直に思い知る、彼女の短所だった。
 母と祖母の愛に支えられ、同時にそばにあった孤独が育てた影の部分だ。きっと根っこの部分で、新詩は他人を信じられていない。僕よりよっぽど、人間不信だ。

 握る手に少し力を込める。それだけで新詩は視線をおろおろと彷徨わせた。ここで畳みかける。本当は彼女だって限界のはずだ。ただ、僕が現れたという事実が安堵を生み、彼女のなけなしの理性を補強してしまった。
 本当は誰かの手に縋っていないと眠れないくらい、疲れ果て傷付いているくせに。

「僕を使え。そのために来たんだ。ここじゃ寝ないって言うなら、きみを連れて下の階に戻る」
「…………そこに座布団があるから、床に座るならそれを使って」

 そう言って項垂れた新詩は、空いている手で目を擦った。
 とっくに限界だったんだろう。僕は頷き、彼女の薄い肩を押してベッドに倒した。そしてその傍らに座り込み、手を握り直す。

 ――新詩の言う通り、他人の手を握って下手すれば一晩を過ごすかもしれないなんて考えられない。新詩にそこまでする義理も、思えばないのかもしれない。
 でも、そうしてやりたいと思うんだから仕方がない。

「…………おやすみ。新詩」

 繋いだ手をそっと手繰り、額にあてる。
 月の光に照らされ光る頬を眺めながら、新詩が夢すら見ない静かな眠りに落ちていくことを祈った。




 新詩が完全に意識を手放したのを確かめてから、力の抜けた手のひらから指をそっと抜く。柔らかく、頼りない小さな手だった。
 下階に降り、いつかのようにソファに横になり、うつらうつらし始めた頃。恐らく三時を回ろうかという、まだ空も暗い時間帯。

 リビングの外。廊下の床板の軋む音ではっと目が覚めた。
 新詩だろうか。目が覚めたんだろうか。水でも飲みに来たのかもしれない。そう思い、ひとまず声はかけずに目を閉じ寝たフリをしたまま様子を窺うことにした。
 予想通り、リビングの扉が開く。ぺたぺたと裸足がフローリングを一歩一歩進む足音が、冷蔵庫のブーンという低い音に混じる。彼女にしては珍しくのろのろとした、やけに遅い足音だった。

 足音はそのまま離れて部屋の奥――キッチンに向かっていったようだった。
 しかしいつまで経っても水を流す音は聞こえない。冷蔵庫を開ける音も、整頓された食器棚を開きコップを取り出す音さえも。
 根拠も理由もないが嫌な予感がした。

「……新詩?」

 そっと身体を起こしキッチンの方を窺う。電気一つ点いていないキッチンに彼女の姿は見えなかった。少し考えてから、カウンターの影に隠れているのかもしれないと思った。しゃがみ込んで、何かをしている。"何かを"は知らないが。
 ソファを降り、同じように裸足でフローリングの上を進みカウンターの内側を覗き込む。

 新詩は床にぺたりと座り込んでいた。癖のある長い髪で顔が隠れているので表情は窺えないが、観音開きの開き戸の片側を開けた正面に身体を向けて座っている。右手には開き戸の内側から抜いたであろう包丁を握っていた。
 多分、亡くなった彼女の母も、祖母も、彼女自身も日々使い、洗って丁寧に研いでいたであろう包丁。新詩の手によく馴染んでいるのが、暗がりのなかでも見てとれた。

 身体が足元から凍り付いていくのがわかった。こんな状況、時間帯、このタイミングで取り出される包丁の使い道はそう多くは思いつかなかった。
 心臓の鼓動が耳元で聞こえる。ここまでされて――見せつけられて初めて、僕は"死"というものを目と鼻の先に感じることが出来た。

 認めたくはなかったが、僕はきっと、僕がこの家に来てから彼女が見せた笑顔に安堵していたかったんだと思う。
 心を押し潰して作った笑顔でも、新詩が僕に笑顔を向けたことに救われてしまったんだろう。

「新詩」

 新詩の反応は鈍い。ゆっくり首を捻ってこちらを見上げたが、その表情はあまりにうつろで、生気と言うものがなく、まるで目を開けたまま夢を見ているように揺らいで見えた。
 もう一度「新詩」と名前を呼ぶと、眠たげに開いている新詩の焦げ茶色の瞳が細くなった。思い出したように、機械的に微笑みを模っている。

「……僕は、許さないからな」
「…………」
「きみが死んだら許さない。一生呪って生きてやる」

 先に死んでしまった家族のもとへ行きたい新詩になんと言ってやればいいのか、正解がわからず、結局口をついて出たのはそんな子供じみた言葉だった。
 馬鹿みたいなことを言っているな、と自分で笑えてきた。
 目の前の包丁を持ってこちらを見上げる新詩だけが現実で、この暗がりのなか明かりも点けずに立ち尽くす僕は夢うつつの彼女にとっては空気にも等しい無力な存在であることもまた確かだと思った。どんな言葉をかけても彼女を即時に救うには至らない。

 新詩は何も言わない。弁解もしないし答えもしない。本当に、眠っているような濁った瞳をしていた。でも、どうやら僕のささやかな恨み言はかろうじて届いたらしい。
 朧げな表情で眉を下げ、仕方がなさそうに新詩は微笑んだ。
 次の行動・・・・に移りそうな様子はなかったので床に膝をつき、彼女の肩に片手を添え、もう片方の手で慎重に持っている包丁を抜き取る。意外にもすんなりと明け渡された包丁を開き戸の中に戻し、扉を閉めた。それで全てをなかったことに。

 包丁を手放すと、新詩はこちらに体重を預け、そのままがくりと脱力してしまった。首元から聞こえる寝息に小さく息を吐きながら、細い両肩を支える。

 脳内を駆け巡るのは睡眠障害の単語。夢中歩行。それから、自殺の可能性。
 夢うつつのまま家を徘徊し包丁を手に取ってしまうほど、肉親の死は新詩の心を蝕んでいる。彼女は壊れてしまっていて、恐らくそれを自覚出来ていない。
 もしかしたら、祖母の死を隠して生活していたひと月の間、新詩は眠ったまま何度もこういう行動をしていたのかもしれなかった。僕が知らないだけで、何度も下階のキッチンまで下り、包丁を手に取って。
 あと一歩のところで無意識の自殺願望を押し留めていたものは何だったのだろう。


 ……このままカウンターの影で夜を明かせば、彼女は自分のしでかしたことに気付いてしまう。
 記憶より少し軽くなった新詩の身体を起こさぬように抱き上げ、数時間前上った階段を上り、扉の開けっ放しな彼女の部屋へと舞い戻った。
 少なくともこの家にいてソファを陣取っている間は、彼女の夜の様子を見張っておける。行動に移してしまう前に止められる。

 ベッドに横たえた新詩の白い頬を指の背で撫ぜ、これからの日々のことを思った。
 この家に蔓延る死を、暗闇を、払い除けてやれたなら。
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