すべての0から守ってあげる 後

 岸くんとの通話が切れて数分経つと、この伽藍洞の家に私の居場所はないような焦燥感に襲われた。
 家じゅうどこにいても落ち着かずそわそわしてしまうので、きっと岸くんは引くだろうなぁと思いながら、玄関マットのうえに座って彼の到着を待った。まるで犬のようだと思った。
 この時間なので、家の敷地内に停まる車の音も扉を開閉する音も砂利を踏む足音もすべてはっきり聞こえた。岸くんらしい、はやいテンポの足音。どれだけ正気を失ったとしても、なぜか彼の足音を聞き間違えるようなことはありえない、そんな自信があった。
 たぶんそれが、私がこの絶望の坩堝のなかに差し込む一筋の光のように岸くんを愛している証左だった。

 インターホンが鳴るより先に、チェーンを外し、玄関の扉を押し開ける。
 両手に紙袋を持ち、肩には普段使いの黒い鞄を引っ掛けた岸くんが立っていた。
 予想通り、訪問を知らせていないにも関わらず先んじて扉を開けた私にぎょっとしたような表情を浮かべてから、玄関のオレンジ色の照明に照らされた顔が訝しげに眉を顰めた。

「……玄関で待ってたの?」
「あ、うん。……なんかそわそわして、落ち着かなくて……」

 苦笑すると、岸くんは何か言いたげな表情で口を開き、けれど何も言わずに視線を伏せた。
 「上がっていいんだろ?」と荷物を抱えて来た岸くんが形ばかり訊ねてくるので、力なく微笑みうなずいた。どん底にあっても岸くんの顔を見たら、無意識に笑顔が浮かんだ。
 どんなに不自然な微笑みでも、そのことが嬉しかった。私、まだ、心は生きているみたいだ。

 靴を脱いだ岸くんをリビングに通す。祖母が死んでから一度もまともな掃除をしていないので、今更ながら埃っぽい空気が気になった。もっと早く岸くんが来てしまうってわかってたら、もしかしたら少しは元気が出て掃除が出来たかもしれなかったな。
 岸くんにソファを勧め、私はそのそばに置き去りのままだった祖母の肘掛け付きの回転座椅子に腰を下ろす。

「……あ、お茶飲む? 温かいのと冷たいの、どっちがいい?」
「いい。いらないから、座って、落ち着いて、息をしろ」

 顔が真っ白なんだよ、と言われ、浮かしていた腰を椅子のクッションに戻した。
 私がお尻を沈めた反動でふわりと祖母のにおいが香り、胸がぎゅっと苦しくなる。

「近親者を亡くしたばかりの人間に正常な判断を求めるのは酷だ。だから今に限っては、きみがどんなことを言っても僕は怒らないし、失望もしない。新詩がどんな情けなくておかしなことを言ったとしても、僕はきみを見放さない」
「……岸くん、そんな優しいキャラだっけ?」
「安心しろ、きみが無事立ち直った頃から定期的に恨み言としてチクチク刺していくから。喧嘩するたびにこのことを持ち出してきみを辟易させるぞ」
「は、あはは。そっか、そっか」

乾いた笑いが静まっていく。いつものことだけど、岸くんはにこりとも笑わなかった。私を安堵させようとか、場を和ませようとかそういう意図はまったくなくて、岸くんはただ岸くんとしてそこにいる。
 多少私が縋ってもちょっとやそっとじゃぐらつかないような強さが、彼の静かな姿の内側から滲み出てあるような気がした。

 私は何から説明したもんかな、とひと月ほどの記憶を観念して振り返る。今の私にとって、これが最も根気のいる作業だった。
 現実としてここにある孤独の理由を、自分の口で言葉にすることは苦痛だ。認めたくないのに、祖母がいないことを認めることとイコールだから。
 そのことがずっしり心にきて、息がうまく出来なくなってしまう。

「…………ごめん、なにも連絡しなくて」
「だからそれはいい。本当に」

 視線を落としながら言うと、彼はあの日の夜そうしていたように、自分の膝に肘を当て頬杖をついた。
 緩く首を振るので、私はえーと、と言葉を探す。

「……私、の家族のこと、ちゃんと話したことあったっけ?」
「いや。多分ないね」
「だよね。……私の両親、結婚はしてなくて。結構奔放な恋愛をしてたのね、私の母が妊娠したってわかったら、父は突然いなくなって、それっきりって聞いてる。だから私は、父親の顔も名前も知らないの。届け出もしていないから、姓も母方の『沖花』のまま。で、その母は私が十六の時に事故で死んでしまったんだけど」
「うん」
「なんて言うんだろう……岸くんは、小さい頃に親――自分の保護者が自分を残して死んでしまうことを想像したりしたこと、ある?」
「あるよ。そこらへんの子供に訊いても、多分半数くらいは頷くんじゃないか」
「そうね。なんとなしに、考えたりするものかもしれない。親は当然子供より年老いているから、何もなければ先に死ぬのは親の方だものね」

 そこで一度言葉を切る。息を吸って、吐いて、寒気のする二の腕のあたりを両手で擦った。

「そんな暗くて悲しいことをずっと考え続ける子供ってあんまりいなくて、大抵の子は次の日にはもう別のことを考えていると思うんだけど、私は、残念ながら前者寄りの子供だった」
「悲観的な子供だ」
「そう。いやな子供だよね。自分の親が死ぬことを頻繁に考えるんだから。まあ、母が死ぬまでは私がちょっと尋常じゃなく悲観的で臆病なだけなんだろうって思ってたんだけど。父親とは事実上絶縁状態だし、他に親しい親戚なんかいないし、母が死んだら私の家族って祖母だけでしょう。……大好きな大人が自分より先に逝ってしまう可能性って、実は思っているよりずっと身近にあるものなんだって――頭だけでしかわかっていなかったことが現実になってしまった。そのことに、十六のとき心から恐怖した」

 むしろ十六まで母と祖母が大きな怪我や病気もなく健在だったことは幸運だったのかもしれない。世の中にはきっと、私より先に親兄弟との離別を経験している者、そもそも家族を知らぬまま生きている者もいるだろう。その尺度で測れば私は恵まれている。

 母が死んだ時は祖母がいた。胸の内側が嵐のように荒れ、ぽっかり空いた空洞は、祖母が家族としてそばにいてくれたおかげで、時間の経過という"薬"を多用して誤魔化せた。
 けれど祖母が死に、いま私には頼るべき相手がいない。
 私は再び胸に嵐を宿し、荒れ果てた心で明日が来ることすら鬱陶しく憎いことのように思っているくせに、それを誰にも打ち明けられず、一歩家の外に出れば淡々と日々を受け流せているような振りをしてしまう。出来てしまう。それをどんなに嫌だと思っても。

「ずっと頭の片隅で自分がみなしごになる可能性があるって考え続けることが、どうやらちょっと心の傷というか、トラウマになってたみたいで。普通、家族を亡くした人も私と同じくらいか、それ以上に落ち込んだり悲しんだりするんだろうけど。落ち込み方が激しいのかな、すごく、今を生きている自分が鬱陶しくて仕方がない」
「……おい、新詩」
「でも、現実になっちゃったんだよ。私はもうひとりで、ひとりだから、ひとりで生きていかなきゃいけない。……ちょっとずつ平気になっていったら、すぐに岸くんには連絡しようと思ってたんだよ、嘘じゃない……」

 ――私の言葉を遮るように、岸くんの両手が俯いていた私の顔を掴む。先の見えない闇のなかに手を突っ込んで中身を探るような手つきだった。
 少し皮膚の硬い手のひらに頬を挟まれ、びっくりして口を噤むと、岸くんは私にはわからない感情に目を細めこちらを見下ろした。

「ひとりで、ひとりでってずっと言ってるけどさぁ、僕はどうなの」
「……岸くん、は……」
「僕は、新詩にとってなんなの?」
「……だって、岸くんは巻き込めないよ。こんなにしんどいの、欠片ひとつでも分けたくないよ」

 だって大好きなんだよ、と、呟くそばから涙がぽろりと零れた。祖母の死を知って、あまりのショックに枯れてしまったと思っていた涙。
 わ、わ、と慌てながら拭おうとしたけど、顔を掴む岸くんの両手がそれを許さない。私の顔をがっちり固定したまま、「まだ納得いく答えになってない」と。

「"巻き込みたくない"とか"分けたくない"、ねぇ。いま巻き込まれなかったら僕は一体いつ何になら巻き込んでもらえるの? きみがどれだけ傷付いて塞ぎ込めば、きみは僕のことを許せるの」
「っそういう問題じゃない、」
「そういう問題だろ。こういう時、簡単にハイソウデスカって手を放すような男がいいなら、僕のことは今からでも振った方がいい。……おい、目逸らすな」

 私の目から零れた涙が、一つ、また一つと岸くんの手を伝っていく。引き攣った嗚咽を洩らす私にも容赦なく、岸くんは眉をぎゅっと寄せたまま。
 口調こそ怒っているが、彼の声音からは私への怒りや失望は宣言通り読み取れず、ただ殺人犯に自首を促すような……あるいは不治の病に身を蝕まれた患者に病名を告げるような、そんな誠実さで一言一言を語っているように思えた。
 ほとんど正論だ。正常な判断を求めるのはとか言っていたくせに、結局私を正論で殴っているじゃないか。

 ……でも、けれど、だって。
 岸くんが、私のことをキラキラ光って見える、だから好きなんだと思うと言っていたように。
 遍く他人に深い関心を持たない彼がそんな風に私を特別だと言ってくれるならその特別に見合う私でいたいと思うし、私にだって岸くんはキラキラ特別に見えるのだ。
 今の私ではきっと彼の特別にはそぐわない――だから、

「このうえ岸くんに嫌われたら、もう生きていけないって言ってるの……わかってよ、ばか……!」

 決死の覚悟で言い放つと、顔を掴んでいた両手が予兆なく外れる。
 ソファから腰を浮かしてこちらを覗き込む岸くんの表情が呆気にとられ、何か考え事をするかのように丸くなった小さな瞳が明後日の方向に逸れた。
 そう、そういうこと……と小さく呟いたと思ったら、感情の抜け落ちた声で「きみってそういうところあるよなぁ」と独り言のように言う。

 岸くんと出会ってから、私は血の繋がりもなく、長い時間を共に過ごしたわけでもない他人と一緒にいることの不思議に触れ続けていた。どうして彼に惹かれるのかわからないまま、でも好きなのだ、彼のくせっ毛の先まで愛しいし、無表情にこちらを窺う細い目も大好きなのだ、と強く思い続けていた。
 このうえ彼が私の人生からいなくなったらと思うと息の根が止まるほど苦しい。きっと私はもう二度と世界を愛せなくなる。深い絶望の淵に触れ、呑まれ、二度と戻って来られなくなる。

 ひっく、ひっくとしゃくりあげる私を正面に見据え、彼は凪いだ目はそのままに口端を歪め、嘲笑に近い表情をつくった。
 あ、いやなこと言われるんだな、と彼の容赦ない毒舌と哲学に晒されることに慣れてきた直感が囁いた。

「考えてること自体はわからなくもないけど、それにしたって努力の方向性が駄目だね。それで一体誰が幸せに? 現状のなにが進展するんだ? 大好きとか嫌われたくないとか口触りのいい言葉で誤魔化してるけど、遠ざかってるのは新詩の方からだろ。そのうえ理解させる気がないくせに理解しろだなんて、筋が通ってないんだよなあ」
「―――」
「ハ。この程度でそんな顔しちゃうくらいなら最初からヘンな意地張らなきゃいいんだよ、ほんとに救いようがない……」


 その時、顔を上げて彼に噛みつこうとした私を突き動かした感情は何だっただろう。
 怒り、とは少し違う。そろそろ根腐りしそうなほど心を浸した悲しみでもない。
 瞬間的な激情に弾かれたように項垂れていた頭をもたげ短く息を吸った瞬間、吐き出されるひどい言葉とは対照的に優しい手が私の首裏を捕まえた。


「きみが何も言わずに消えたら僕がどうなるか――こんなに結果の見え透いたことを試したいのかよ」


 岸くんが一体どんな表情でそんなことを言ったのか、抱きすくめられている私には窺い知る術がない。
 ぎゅうぎゅうと、彼にしては珍しい力任せの抱擁に物悲しい気持ちになった。いくら物理的な距離をなくし、身体と身体の境目がわからなくなるほど触れあっても、この胸にある絶望を分かち合うことは出来ない。これは私の絶望で、苦しみなのだから。
 それでも私の感じているすべてのものを写し取ろうとしているような、そんな必死な抱擁だと思った。

 手繰り寄せられた肩が少し痛い。彼の腕のなかにいる方が涙が出て息苦しいのに、なぜだろう、およそひと月ぶりに自分が正しく息をしているような気がする。
 ずっとずっと全身に蔓延っていた、どれだけ必死に息を吸っても細くしか入ってこないような、曖昧模糊な酸欠の感覚が溶けていく。埃っぽい空気。差し込んでくる月の光に中てられて甘やかに光っている。涙で瞳が潤んでいるので、そういう風に見えた。
 私はしゃくりあげながら、合間になんとか喉を震わせ「……もっとべつの言い方できないの」と呟いた。

「優しくしてほしかった?」
「こんなときに冷たくしてほしい人なんて、そういるもんじゃないと思うけど」
「そいつは残念。僕の優しさはきみと違ってオールマイティじゃない。使いどころが限定されてんだ」

 なんだそれ。意地悪な声で岸くんが言うので、私は思いっきり訝しげな顔をした。

「僕のはね、優しくされる覚悟がある奴にしか使えない」

 ……言わんとしていることがわかってしまったのが、とても悔しい。
 いつの間にか彼のペースに乗せられている。こんな荒治療で私がショック死でもしたらどうするつもりだったんだろう?
 ヘンな人を好きになってしまったな、と途方に暮れる思いに脱力しながら、恐る恐る、彼の広い背中に手を回し、シャツを握った。私の指は氷のように冷たく、着衣越しに伝わってくる岸くんの体温がとても熱く感じた。

「……特別優しくしてほしいわけじゃ、ないんだけどね」
「えー、この期に及んで?」
「うん。でも、そばにいてほしい……」

「私、たぶんまだしばらくうだうだすると思うけど」大きな手のひらが後頭部にまで上り、私はされるがままに彼の肩口に額を摺り寄せた。「自分だけが不幸、みたいな顔しちゃうと思うけど」
 不安定な体制のまま、岸くんは「うん」とうなずき、私の背中をぽんぽんと叩く。

「こっちは最初からそのつもりだ。人の死は大きすぎる。あまりに大きくて重いんで、きみ一人で二人分の死を抱えて生きるのなんて現実的じゃない。きみの家族の死ばかりで満たされたこの家にひとり閉じこもってるくらいなら、そんな暇があるなら、どんなに怠くても気が向かなくても僕を呼べ。時間の許す限りこの家で一緒に過ごしてもいいし、外に連れ出してもいい。また、学生の時みたいに麺屋を巡るのもいいな」

 岸くんがいっぺんに喋ったので、私はちょっと呆気にとられてしまった。ついでに毒気も抜かれて「本当? 途中で嫌になって投げ出されたりとかしない、私?」と泣き笑いしながら訊ねる。
 彼は抱き締めていた腕を解くと、向かい合って私の顔を正面に見据え、「被害妄想だな」と吐き捨てた。お互い、表面上はいつもの調子が戻ってきたようだった。
 上出来だろう。空元気でも、私一人で張っていた虚勢と呼ぶべき意地とはわけが違う。

「あのなぁ。きみは僕のことをどう思ってるか知らんが、一度好きだと決めたら、死ぬまでそれを貫き通すくらいの一途さはあるつもりだよ、僕は」

 全くの真顔で岸くんはそう言い切った。私は堪えきれず笑った。
 涙腺がぶっ壊れてしまったのか涙が止まらないから、手の甲でそれを拭いながら、「うれしい」と微笑んだ。
 重いかもしれないけど、今は私にとって岸くんだけが生きる理由であるような気がした。

「……毎日、ずっと携帯を握り締めて震えてたの。光って見えて、抱いていたら胸がぽかぽかするんじゃないかって。自分が駄目なこと、苦しいこと、岸くんに伝えなきゃって考えてる私も、ちゃんと頭のなかにはいたんだよ。でも自分から掛ける勇気も、今の自分のことを説明してわかってもらえる気力もなくて、諦めてた。なにかの奇跡が起きて、岸くんから突然電話がかかってくることがあるんじゃないかって、期待してる私もいて。頭と心が真っ二つになってて、苦しくて、しんどくて……もう、こんな繋がりものなければいいのにって考えたりもしたけど」

 幾夜も砂を噛むような心地で蹲っていた私はなんて愚かだったんだろう。
 家族を失い、更に岸くんをも失うことを想像して勝手に落ち込んで怯えて、岸くんの顔をちゃんと見もしないまま、勝手に彼の浮かべる表情を想像していた。
 一人じゃ答えなんか出ないのに悩んでたんだね、と言うと、岸くんは「案ずるより産むがやすし」と言った。短い言葉のぶん心にじんときて、大変申し訳ない気持ちでごめんねと謝った。

「もし岸くんさえいいなら、私、今はこんなだけど、岸くんとまだこれからも一緒にいたい。明るい方に行きたい。岸くんがいてくれるなら、まだもう少し頑張れるような気がするよ」

 胸の底に蔓延り、未だ私の両足を絡めとって離さない鬱屈とした悲しみを振り切るように微笑みながら言うと、岸くんは音もなく頷き、私の額にかかる前髪に指で触れた。
 さらさら、と少し伸びっぱなしになっていた髪を梳き、やがて話はひとまず終わり、というような態度で「さて。いい時間だからまずきみは何よりも寝なさい」と、いつかの夜のように言った。

 柔らかく目を伏せて前髪を滑り、蟀谷まで降りてきた手を受け入れる。
 静かで、穏やかで、やさしい。すべてを許すような手つきで私の肌を撫でている。
 その感触に身を委ねながら、ふと、もしも私の伽藍洞の傷口を埋めるものがあるのなら、それは時間などではなく、彼がいいなと思った。

 ああ。それがいいな。
 私の心の空いたところ、全部岸くんで満たしてほしい。


「……寝ます。ちゃんと寝るけど、でも、その前に」
「ん?」

 そわそわするほどやさしく蟀谷を撫でていた岸くんの手をとって、両手で握った。
 改めて言葉にするとなるとだいぶ恥ずかしいけど、うん。そうしたいと今強く思ったから、今言わなきゃ。
 "次"があるとも限らないし。

「京一郎くん。――って、呼んでもいい?」

 岸くん――京一郎くんは、ちょっと目を瞠ったあと、緩く顎を引いた。うなずいたのか首を振ったのか、曖昧なところだ。
 私が「え……だめ?」と首を傾げると、彼はいや、と珍しく歯切れの悪い返事を寄越した。

「……今更か、と思って……」
「人の一世一代の勇気をなんだと」
「もう付き合って四年も経つのに"岸くん"から動きなかった人の勇気なんか僕のと比べたら些事でしょ」
「えっ、岸くんも勇気必要だったの?」
「……失言だった。どの角度で叩けば記憶って飛ぶ?」

 とうに日付が変わっているというのに煌々と灯りの点いたこのリビングに、ひと月ぶりの笑い声が響いた。
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