すべての0から守ってあげる 前

 祖母の死因は急性心筋梗塞だったそうだ。

 緊急事態だって言うのに思い通りに働かない頭を無理矢理動かし、藻掻くようにしながらリビングに置いてきた鞄のもとまで辿り着き、救急車を呼んだ。他にどこへ電話すればいいのかわからなかった。
 だってまさか、全然病気をしてこなかった祖母が、こんな風に突然呆気なく死んでしまうなんて予想していなかったから。

 呆然としている間に淡々と事は過ぎ去っていって、誰と何をどんな風に話したかはいまいち覚えていないけれど、祖母の死亡診断書を受け取り、死亡届を出し、火葬許可証を受け取り、……何かの機会に見たことがある近親者の死に際して行われる手続きを終えていた。
 手元に残った書類達を見下ろし、ああ、私が喪主になるのか、と驚いた。急に背後が逃げ場のない崖っぷちになってしまったような心細い心地が襲ってきた。──幾度となくシミュレートしてきた恐怖だった。
 私にはもう頼れる大人はいない。私が大人にならなければ。
 ひとりで、色々なことを、耐えていかなければ。


 お葬式は祖母の死亡診断書を書いてくれた病院に紹介してもらった葬儀社にほとんどお任せし、あれやこれやと慌ただしくしているうちに時間はあっという間に過ぎてしまった。
 知っている限りに祖母の友人知人に連絡をつけ、お金の計算をし、遺影を選び……祖母の死を悟った瞬間の魂が抜けてしまったような空白が嘘のように、目まぐるしい時間だった。
 職場には祖母が亡くなったことを死亡診断書が出た数時間後には連絡した。大層心配され、私の家庭事情を知っている上司からは「プレゼンは他の人に任せるから、今は自分のことを大事にしてね」と労わりの言葉までもらった。
 いいところに就職したなぁ、とぼんやり思いながら忌引き休暇を過ごす。

 諸々の手続きが終わると、強い疲労感で私は再び抜け殻のようになってしまった。
 この家にはもう私ひとりしかいないのに、今更ショックが遠隔で襲ってきたのか唐突に熱を出して寝込んだりもしていた。
 がんがん痛む頭とどれだけ着こんでも治まらない寒気に震えながら、ただ時が過ぎるのを待っていた。

 ――岸くんには何も連絡をしていない。祖母の死も、今の私の状態も。
 人情には疎い彼だけれど、人の心がまったくないわけじゃない。すべてを打ち明ければきっと私のもとまで駆けつけてくれるはずだ。厄介な先輩から守ってくれたあの日の夜のように、心が枯死しかけている私の肩を支え、隣に座ったりなんかしてくれるだろう。

 でも私はそうしようとは思わなかった。この出口が見えない、重苦しいかなしみと虚ろさに満ちた死の坩堝に彼を巻き込みたくない。
 私はひとりで、このどん底から這い出さなければいけない。誰の助けも借りたくない――借りられない。
 その一方で、来月の約束した日にはどうあっても彼と対面しなければいけないこともわかっていた。もしそれが嫌でも、どちらにしたって連絡はしなければいけない。
 携帯を開き、電話帳から岸くんの名前を選び、発信ボタンを押す。
 たったそれだけのことが、今は何よりもつらく難しい苦行に感じられた。

 毛布に包まった革張りのソファの上。いつか岸くんも眠ったソファの上に、携帯電話を胸に抱きしめ蹲って時が過ぎるのを待っていた。



 葬儀後三日で仕事に戻った私は、同僚や上司達に心配されつつも、表面上はいつも通りを装った。
 もちろん落ち込んでいること自体は隠せないのでそこらへんは変な誤魔化しをせず、でも日々のことはなんとか回せている振りをした。
 実際、家ではまともに食事を摂れなくなったし、妙に寝苦しくて毛布を抱えて家じゅうを転々と移動し、最近は祖母の部屋の畳に直で横になっているので節々が痛い。

 しかも横になったからと言って眠れるわけではなくて、大抵寝転んでから意識を失うまで三時間ほどかかるし、そのあとも断続的に目が覚めてしまう。こうもわかりやすく眠れない、というのは生まれて初めてだったので、自分でもかなり困惑している。
 母が死んでから半年ほどは祖母と二人きりの家が果てがないほど広く感じて苦しかった。
 祖母が死に、私ひとりきりとなった今の家は、きっとあの頃よりもっと強く私を苦しめるだろう。
 そういう孤独との戦いに満身創痍で挑んでいる私は、客観的に見ても敗北死寸前だと思う。誰もいない家に帰るのが苦痛で仕方がない。まだ騒がしい駅前をずっとうろついている方が心が安らぐくらいだ。――母と祖母に躾けられた習慣と価値観が、目的のない夜歩きを許さなかったので、一日でやめたけれど。

 そんなこんなで茫然自失状態を騙し騙し過ごしていたら、ひと月など矢のように過ぎていった。上司の気遣いで予定していたプレゼンの計画が全て別の同僚に引き継がれたせいか、毎日同じ時間に出社し単調に仕事をし決まった時間に帰り眠れない夜を過ごす……という一連の病んだ一日の繰り返しに慣れて、一日が一週間にも感じられた。日付感覚が狂ってしまったんだと思う。

 ある日の帰り道、唐突に「あ、明日って岸くんとの約束の日だ」と思い出してしまった。
 まったく気が付かなかった。彼も私も連絡を頻繁にするタチではないから、約束日までの間に「たのしみだね(ハート)」「うん(ハート)」みたいなやり取りを交わしたことなんて一度もない。だから連絡が来ないことにも違和感を持たなかったし、だからこそ約束日前日まで彼のことを思い出さなかった。
 思い出せなかった、というのが正しいかもしれない。岸くんのことを考えたら、どうしても頼りたくなってしまう。携帯電話を握る手はいつも震えていた。
 これ以上つらい気持ちが増えたら私はもう二進も三進もいかなくなってしまうので、彼のことと彼に関することは思い出さないように蓋をしていたんだと思う。

 最低だ。彼女として最低だ。
 ……でもこの場合、不健康極まりない精神と生活を送っている私のもとへ彼氏たる岸くんを呼び寄せるのと、どうにか私がひとりでこのどうにもならない状況に折り合いをつけるまで岸くんには全てを伏せて過ごすのと、どちらが彼のためになるんだろう?

 ――とにかく、とにかく。
 鏡に映る私の顔はひどいものだ。頬は少しこけて可愛くないし、隈だってそろそろ化粧で誤魔化すのもきつい。何より両目が不幸に淀んでいて見せられたもんじゃない。
 こんな状態の私を岸くんにお出しするわけにはいかない。きっと失望されてしまう。
 断らなければ。
 自分のつらさを理由に彼を振り回したくない。

 最後の力を振り絞って、岸くんに電話をかけた。
 ずっと勇気が出なくて悩んでいるうちに夜が更けてしまった。二十三時。岸くんは出てくれるだろうか。
 正直、今かける電話が通じなければ、この工程をもう一度繰り返せる自信がない。"伝えられなかった"という思いが後ろめたさを引き連れて今度こそ私の口を塞いでしまうに違いない。
 祈るような気持ちで、けれど身体を起こしているのもつらいので、祖母の部屋で寝転びながら携帯のコール音に耳を澄ませた。

『……新詩?』

 岸くんは、やっぱり出てくれた。

「っあ、……うん、新詩です。ごめん。こんな時間に」

 開口一番に名前を呼んでくれたせいで、身体の一部を抉り取っていかれたような気分になった。
 掠れた声でそう謝った私を電話の向こうで訝しみながら、岸くんは『どうした』と用件を促す。私がこんな時間に電話をかけることは今までなかったから、情報がないなりに彼も何かを感じとってしまったのかもしれなかった。

「ごめん、本当に、ごめん……」
『……きみ、今どこにいんの?』
「家だよ。家にいる。おばあちゃんの……」

 と言いかけて、私はこの期に及んで岸くんに祖母の死を知らせることを躊躇っている自分の存在を知った。
 私よりずっと頭がよくて察しのいい岸くんに内緒事をしてバレなかった試しはないのに、私は今更なにを恐れているんだろう?
 下手に嘘を吐いたら、私は余計私を許せなくなるっていうのに。

「……おばあちゃんが、死んだの」

 私がそう囁くように言うと、電話口が沈黙した。
 緊張とぶり返してきた悲しみに襲われ、言葉尻が震えていた。
 五秒ほど空白の時間が私達の間を埋め、やがて岸くんは『いつ』と短く訊ねた。

「ひと月前くらい……明日の約束した日の夕方に。家に帰ったら、もう、冷たくなってて……」
『うん』

 岸くん側の音声に、急にガサガサという雑音が混ざり始める。
 私は懺悔でもするように、淡々と一言一言、祖母が死んでからのことを語った。役所の手続きをひとりで終えたこと、お葬式をしたことを。自分の身体のどこから声が出ているのかよくわからない、妙な心地で必死に話をした。
 その一つ一つに岸くんはうんと相槌を打って聞いてくれた。

「だから……まともな生活する余裕がなくて、ちょっと、しばらくは会えそうになくて」
『ああ、いいよ。わかった』

 ほっとしたのも束の間、『僕が今から行く』はっきり告げられた言葉の意味を掴み損ね、電話を耳に当てたまま呆然と壁の模様を見つめる。知らずのうちにえ? と声をあげたとき、微かにだけれど、玄関の扉が開くか閉まるかする鈍い音が聞こえてきた。
 その重い音には私を現実に引き戻す力があった。それは困る。岸くんを巻き込まないためにこうして電話をかけたのに、それじゃ意味がない。
 次いでコツコツと硬い場所を歩く音が鳴り始めたので、私は慌てて「な、なんで?」と訊き返す。

「し、しばらくは会えないって……」
『きみ、自分でどんな声して喋ってるかわかってないのか? きみの周りの人間、誰もきみのことを止めなかったのか?』
「なに……どういうこと……?」

 岸くんの声からほのかに怒気に似たものを感じた。怒ってる、怒らせた、と怯えながら畳の上で縮こまる。
 岸くんは恐らく家の外を歩き靴音を鳴らし、途中で独り言のように『いや、きみはそういうところを誤魔化す奴だったっけ』と呟いた。車のエンジン音が聞こえる。どうやら本当に、彼はこの二十三時を過ぎた今、私のいるこの家に向かおうとしているらしい。

『新詩。きみ、今にも手首切って死にそうな声してるぜ。もしそれで僕に気取らせない演技が出来てると自分で思ってたなら、相当重症だ。参ってるんだ。だから僕が行くんだ』

 言葉を失って何も言えなくなった私のことなど気にせず――まるでこうなることを想定していたかのように、岸くんは言い聞かせるように『三十分くらいで行く。着いたらインターホンを鳴らすから、鍵はかけたまま待ってろ。いいな。必ず行くから、変な気は起こすなよ』と、淡々と語った。

 呆気にとられた私がうん、はい、と中身の伴わない返事をすると、『運転するから切るぞ』と言って、岸くんは通話を切った。
 耳から携帯を離す。画面に表示された通話時間はわずか五分。そんな短い時間の会話で、私の全身に圧しかかっていた重いものが僅かに取り払われたような気がした。

 ふと窓の外に目を遣る。
 祖母が死んでからカーテンを開けっ放しにしていた窓から、ちょうど月が見えていた。
 その月の高さ、白さを見ていたら、こんなに月が高く輝くような時間に、彼が車を飛ばして来てくれることの現実味が急に胸に迫ってきた。そのあまりの罪深さに蹲って何度か嘔吐いた。

 夜は更けていき、私はここでひとりでは立ち上がれずにいて、岸くんはこれから私のかなしみと祖母の死で充ちたこの家に引き摺り込まれようとしている。
 なんて不幸だろう。なんて絶望だろう。
 こんなものを愛のなせる業などと私は呼びたくない。
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